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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第40話 先祖返り会の使者

 先祖返り会の使者が来ると知らされた時、鵺喰家の空気は目に見えない手で押さえつけられたように重くなった。


 朝から、屋敷の者たちは落ち着かなかった。


 使用人たちは廊下を拭き、畳を替え、玄関の花を生け直し、古い座敷の障子の破れまで急に気にし始めた。死人が続いている時は青い顔で震えていたくせに、偉い者が来るとなると急に働き者になる。人間の恐怖には優先順位があるらしい。死体より権威が怖いとは、なかなか立派に終わっている。


 深雪乃は、離れの部屋でその気配を聞いていた。


 廊下を行き交う足音。


 遠くから聞こえる女中たちの囁き。


 庭を掃く竹箒の音。


 すべてが、いつもより速い。


 先祖返り会。


 篝火家、鵺喰家、蘆野火家を含む、有力な先祖返り家系が集う裏の会議体。婚姻、相続、怪異の管理、退魔師との協定を決める場。表の警察や華族社会では扱えないものを、水面下で処理する場所。


 その使者が、鵺喰家へ来る。


 事件処理と、深雪乃の扱いについて命じるために。


 深雪乃の扱い。


 その言葉が、胸の中で冷たく響いた。


 物のようだった。


 いや、これまでずっとそうだったのかもしれない。


 妾腹の娘。


 人間臭い娘。


 死なない身体。


 母の遺品に反応する娘。


 器ではなく鍵と呼ばれた娘。


 そして今度は、先祖返り会が扱いを決める対象。


 深雪乃は、膝の上で母の鏡を包んだ布に触れた。


 沈丁花文様の懐中鏡は、今は静かだった。熱もない。声もない。けれど、布越しに触れるだけで、胸の奥に母の気配がかすかに戻るような気がした。


 赫臣は、部屋の入口近くに立っていた。


 朝から機嫌が悪い。


 正確には、機嫌が悪いどころではない。妖気が静かに煮えている。耳飾りも指輪も、いつもより鋭い気配を帯びている。彼が歩くたび、装身具が小さく鳴り、その音だけで廊下の使用人たちは身を縮めていた。


 深雪乃は彼を見た。


「赫臣様」


「何だ」


「怖い顔です」


「怖がらせるためにしてる」


「誰を」


「使者」


「まだ到着していません」


「練習だ」


「必要ですか」


「必要だ」


 赫臣は真顔だった。


 深雪乃は小さく息を吐いた。


「先祖返り会の使者は、それほど厄介なのですか」


「厄介じゃねえ使者なんか来ねえ」


「偏見では」


「経験だ」


 赫臣は深雪乃のそばへ来る。


 膝をつき、彼女の手元の鏡へ一度目を落としてから、深雪乃の顔を見た。


「深雪」


「はい」


「あいつらが何を言っても、そのまま受け取るな」


「はい」


「お前の扱いを決める権利は、あいつらにねえ」


「赫臣様にもありません」


 即座に返すと、赫臣は一瞬だけ言葉を失った。


 そして、苦く笑う。


「そうだな」


「学習されていますね」


「刺される前に避けた」


「避けられたのですか」


「ぎりぎりな」


 深雪乃は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 赫臣はすぐに気づいた。


 だが、今日は「可愛い」と言わなかった。言いたそうな顔はした。かなりした。顔だけで三度ほど言った。けれど口には出さなかった。偉い。進歩はしている。人間なら褒められるところだが、鬼なので少し差し引く。


 その代わり、彼は低く言った。


「確認する」


 深雪乃は、少しだけ頷いた。


 赫臣の腕が彼女を包む。


 強くはない。


 けれど、深い。


 いつものように背の傷を避け、肩を包み、頭を胸へ寄せる。深雪乃は鏡を膝に置いたまま、彼の着物を指先で掴んだ。最近、赫臣が「確認する」と言うようになってから、深雪乃もその抱擁に身構えることができるようになった。痛ければ痛いと言える。苦ければ苦いと言える。


 今の抱擁は、少し苦い。


 だが、飲み込めないほどではなかった。


「怖いのですか」


 深雪乃が問うと、赫臣はすぐに答えた。


「ああ」


「何が」


「お前を会の言葉で縛られること」


「私は縛られません」


「お前はそう言う。だが、会は縛ったつもりで話す」


 赫臣の声が低くなる。


「昔もそうだった」


 深雪乃は息を止めた。


「母のことですか」


 赫臣は、少しだけ黙った。


 けれど、今度は逃げなかった。


「ああ。澄子の時も、会は扱いを決めた。鵺喰へ入れる。篝火へ報せない。蘆野火は情報を調整する。寺社方は表向きの清めを整える。本人の意志は記録に残さない」


 母の意志は、記録に残されなかった。


 その言葉は、深雪乃の胸を静かに刺した。


「私は、記録から消されたくありません」


「消させねえ」


「私の意志も」


「消させねえ」


 赫臣の腕が、少しだけ強くなる。


「俺が覚える。記録にも残す。写真にも残した。お前がここにいるって、何度でも残す」


 写真館の白い光が、深雪乃の中に蘇った。


 自分が形に残ることへの戸惑い。


 赫臣の「残せ。俺が何度でも見る」という言葉。


 胸が少し熱くなる。


「……調子に乗らないでください」


「今ので?」


「少し」


「乗った」


「早いです」


「無理だ」


 その時、廊下の向こうから砂笙の声がした。


「旦那様。使者が到着されました」


 赫臣の妖気が、静かに鋭くなる。


 深雪乃は彼の腕から離れた。


 赫臣は離したくなさそうだったが、今度は無理に引き止めなかった。代わりに、深雪乃の手を取る。


「行くぞ」


「はい」


「俺の隣だ」


「命令口調です」


「お願いだ。俺の隣にいてくれ」


「はい」


 深雪乃は、その手を握り返した。


 先祖返り会の使者は、鵺喰家の大広間に通されていた。


 名を、枯野井宗顕といった。


 年は五十前後に見えた。背は高くない。だが痩せた身体を黒い羽織で包み、どこか乾いた鳥のような印象があった。髪には白いものが混じり、目は細く、口元には常に薄い笑みがある。笑っているのに、少しも温かくない。墨で描いた笑みのようだった。


 枯野井家は、先祖返り会で文書と裁定を扱う中位の家だと砂笙が小声で説明した。血筋としては強い妖の系譜ではないが、会の議事録、婚姻記録、封印書類に関わる家。つまり、都合の悪いものを紙の上で綺麗にするのが得意な家である。実に信用ならない。


 大広間には、親族たちも集められていた。


 兼近、御厨数馬、ほか数名。皆、顔色が悪い。夜岐は重傷のため別室だが、監視のもと眠っている。使用人たちは障子の外に控えており、蓮台、砂笙、白絹も同席していた。


 白絹は、金茶の髪をきちんとまとめ、いつもの白地に金糸の着物を着ている。表情は涼やかだが、その目は枯野井を警戒していた。蘆野火家が過去の隠蔽に関わっていた可能性を知った後の白絹は、以前よりも言葉を選ぶようになった。


 赫臣と深雪乃が入ると、枯野井は立ち上がらずに頭だけを下げた。


「篝火赫臣様。ご多忙のところ、会の使者をお受けいただき感謝申し上げます」


 声は乾いていた。


 礼儀はある。


 だが、敬意は薄い。


 赫臣は低く笑った。


「受けた覚えはねえ。勝手に来たんだろ」


 広間の空気が一瞬で冷える。


 枯野井は笑みを崩さなかった。


「緊急の事態でございますので」


「緊急の事態を作った連中が、今さら偉そうに何しに来た」


「事件処理のためでございます」


「処理ね」


 赫臣の声がさらに低くなる。


「死体を紙で包んで、臭いものごと蔵に戻す仕事か」


 枯野井の目が少しだけ細くなった。


「お言葉が過ぎますな」


「まだ過ぎてねえ。これからだ」


 砂笙が小さく息を吐いた。


「旦那様、開始直後に火を放つのはお控えください」


「火はまだつけてねえ」


「火薬庫に煙管を持ち込んでいる程度でございます」


 白絹が口を挟む。


「枯野井殿。使者として来られたのであれば、用件をどうぞ」


 枯野井は白絹へ目を向ける。


「蘆野火白絹様もご同席でしたか」


「ええ。事件に関わっておりますので」


「では、ちょうどよい」


 その言葉に、白絹の表情がわずかに硬くなった。


 枯野井は懐から巻紙を取り出した。


 古い形式の命令書だった。


 広間の空気が、さらに重くなる。


「先祖返り会より、鵺喰家連続怪異殺傷事件に関する暫定裁定を申し伝えます」


 殺傷事件。


 暫定裁定。


 言葉が、あまりにも乾いている。


 喜周も、祢々も、頼成も、兼継も、玄磊も、夜岐の襲撃も、紙の上ではそうまとめられるのかと思った。深雪乃の胸が冷える。人の死も、痛みも、罪も、便利な言葉に収められる。紙は本当に無慈悲だ。書く人間が無慈悲だからだろうが。


 枯野井は読み上げた。


「一つ。鵺喰家の屋敷は、会の監督下に置く」


 親族たちがざわめく。


「一つ。現当主不在の間、相続および遺品移譲に関する決定は凍結」


 御厨が何か言いかけ、蓮台の視線で黙った。


「一つ。鵺喰深雪乃については、事件および過去儀式との関係が明らかになるまで、会の管理下に置く」


 赫臣の妖気が、爆ぜるように広がった。


 畳が軋む。


 障子の紙が震える。


 親族たちが息を呑んで身を引いた。


 深雪乃の手も、赫臣の手の中で強く包まれる。


「会の管理下?」


 赫臣の声は低かった。


 枯野井は笑みを保ったまま答える。


「保護措置でございます」


「保護って言葉を便利に使う奴は、大抵ろくでもねえ」


「篝火様の私情が入る状況では、公平な調査が難しい」


「私情で結構だ」


「深雪乃様は、複数の事件現場において重要な反応を示している。母君の遺品、祈祷部屋の記録、白き客人の伝承、不死の身体。会としても、放置はできません」


「放置じゃねえ。俺がいる」


「だからこそ、問題なのです」


 枯野井の目が、深雪乃へ向いた。


 深雪乃は、その視線を受けた。


 値踏み。


 警戒。


 そして、古い情報を知る者の目。


 枯野井は、深雪乃を人として見ていなかった。


 記録の中から出てきた何かを見る目だった。


「鵺喰深雪乃様」


 呼ばれて、深雪乃は静かに返した。


「はい」


「あなたは、ご自身の出生についてどこまでご存じですかな」


 赫臣が声を荒げる前に、深雪乃は答えた。


「ほとんど何も」


「正直でよろしい」


「よろしいと評される立場にはございません」


 枯野井の笑みが、少しだけ動いた。


 赫臣の口元が、わずかに上がる。


 深雪乃は続けた。


「私の出生について、使者様は何をご存じなのですか」


 枯野井は、巻紙を畳んだ。


「古い記録を少々」


「その古い記録を、見せていただけますか」


「今はまだ」


「では、何のためにお持ちなのですか」


「必要な時に、必要な者へ示すためです」


「私は、必要な者に含まれないと?」


 枯野井は、笑った。


「ご自身に関わる情報ほど、ご本人には毒になるものです」


 深雪乃の胸が、冷たく硬くなった。


 赫臣の妖気がさらに濃くなる。


「その口、閉じろ」


 枯野井は赫臣を見る。


「篝火様。あなた様は、かつての失敗をご存じない」


「何?」


「篝火の血が近づけば、誓いは揺らぐ。白き客人の記録には、そうあります」


 深雪乃の呼吸が止まった。


 白絹も目を細める。


 枯野井は、淡々と言う。


「宵待澄子は、ただの妾ではありませんでした。鵺喰家は、彼女の胎内に宿ったものを山本五郎左衛門の紋で封じようとした。先祖返り会は、それを承認した」


 広間が静まり返る。


 胎内に宿ったもの。


 深雪乃は、自分の手が冷えていくのを感じた。


 赫臣の手が、それを包む。


「続けろ」


 赫臣の声は、怒りを押し殺していた。


 枯野井は言った。


「深雪乃様は、器ではない。鍵です。鍵は、開くべき時まで保管される必要がある」


 保管。


 その言葉に、深雪乃の胸が凍った。


 赫臣が動きかける。


 深雪乃が彼の手を握った。


 止めるためではない。


 自分を繋ぐために。


「私は物ではありません」


 深雪乃の声は、思ったよりも静かだった。


 枯野井は、少し目を細めた。


「もちろんでございます」


「今、保管とおっしゃいました」


「比喩でございます」


「比喩とは、便利ですね」


 白絹の目がわずかに動いた。


 赫臣は、深雪乃を見ている。


 深雪乃は枯野井から目を逸らさなかった。


「母にも、同じような言葉を使いましたか」


 枯野井の笑みが、初めて少し薄くなった。


「私は当時、若輩でした」


「では、先祖返り会は使ったのですね」


 沈黙。


 それが答えだった。


 深雪乃の胸の奥に、静かな怒りが灯った。


「事件処理と私の扱いを命じに来られたのですね」


「その通りです」


「では、私からも申し上げます」


 深雪乃は、ゆっくり息を吸った。


「私は、会の管理下には入りません」


 広間が揺れた。


 親族たちがざわめく。


 枯野井の目が細くなる。


 赫臣の顔に、かすかな笑みが浮かぶ。


 深雪乃は続けた。


「私は、自分が何なのか知ります。母に何があったのかも、鵺喰家が何をしたのかも、先祖返り会が何を隠したのかも。ですが、知らされるべき情報を隠されたまま、保護や管理という言葉で場所を移されるつもりはありません」


 枯野井の笑みは消えた。


「危険な判断ですな」


「そうでしょうね」


「あなた自身が危険である可能性もある」


「その可能性も、聞き飽きました」


 深雪乃の声は、冷たくなった。


「ですが、危険だと言うなら、まず何が危険なのか説明してください。説明せず、管理だけを命じる相手を、私は信用いたしません」


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 赫臣が、低く笑った。


「聞いたか。俺の深雪は、会の紙切れじゃ縛れねえ」


「あなたのものでもありません」


 深雪乃がすぐに返す。


「……そうだな」


 赫臣は、少し苦い顔で言い直した。


「俺の恋人は、会の紙切れじゃ縛れねえ」


「それなら許します」


 蓮台が小さく息を吐いた。


「この状況で言い直しの確認をするな」


 砂笙が静かに言う。


「深雪乃様らしいので、よろしいのでは」


 枯野井は、二人を冷めた目で見ていた。


「篝火様。会は、あなた様の私情を危険視しております」


「どうぞ」


「深雪乃様を守るという名目で、あなた様は判断を誤る」


「誤ったら深雪が刺す」


「比喩ですか」


「たぶんな」


「たぶん、では困ります」


 蓮台の乾いた声が入る。


 枯野井は、蓮台を一瞥した。


「蓮台殿。あなたも会の裁定には従っていただく」


「俺は警視庁の人間だ。会の犬じゃない」


「怪異事件は会の管轄でもあります」


「死体が出ている。人が殺されている。俺の管轄でもある」


 空気が張り詰める。


 白絹が静かに言った。


「枯野井殿。会の命令書は受け取りました。ですが、ここで深雪乃さんを動かせば、事件はさらに乱れます。せめて今夜は、屋敷内での滞在を」


「蘆野火様も、ずいぶん深雪乃様に肩入れなさる」


「肩入れではありません。判断です」


「蘆野火家の古い記録に触れたからですかな」


 白絹の目が冷えた。


 枯野井は、わずかに笑う。


「蘆野火家も、過去の件では完全に清廉とは言えないでしょう」


「ええ」


 白絹は、はっきり認めた。


「だからこそ、今また沈黙を選ぶ気はありません」


 その言葉に、枯野井の目がわずかに動いた。


 彼は、白絹がここまで言うとは思っていなかったのだろう。


 深雪乃は、白絹を見た。


 白絹はまっすぐ枯野井を見ている。


 敵でも味方でもない。


 けれど、少なくとも今この場では、沈黙を選ばなかった。


 枯野井は、再び巻紙を懐へ戻した。


「よろしい。今夜は引きましょう」


 赫臣が低く言う。


「帰るのか」


「いいえ。客間をお借りします。明朝、正式な結界を張り、会の立会いのもとで深雪乃様の霊的検分を行います」


 赫臣の妖気が再び膨れ上がる。


「誰が許す」


「会の裁定です」


「知るか」


 枯野井は、深雪乃を見る。


「深雪乃様。あなたが知りたいと望むなら、検分を拒む理由はありますまい」


 深雪乃は、黙った。


 検分。


 自分の身体。


 自分の中のもの。


 知りたい。


 知りたいが、会に調べられたいわけではない。


 赫臣が即座に言う。


「やらせねえ」


 深雪乃は彼を見た。


 赫臣も深雪乃を見る。


「命令ではなく、お願いだ。今は会に身体を預けるな」


 その言い方に、深雪乃は少しだけ息を止めた。


 赫臣が言葉を選んでいる。


 止めようとしている。


 けれど、縛らないようにしている。


 深雪乃は小さく頷いた。


「明朝までに、考えます」


「深雪」


「決めるのは私です」


 赫臣は苦しそうな顔をした。


「分かってる」


 枯野井は、薄く笑った。


「賢明なご判断を」


 その言葉で、昼の会談は終わった。


 枯野井には、鵺喰家の客間が用意された。


 ただし、蓮台の部下と篝火家の従者が外に立ち、白絹も自らの式を廊下の影へ置いた。枯野井が持ってきた文箱は、本人の強い主張で部屋へ持ち込まれた。中に古い情報があるのは明らかだったが、彼は開示しなかった。


 夜になった。


 鵺喰家には、また重い静けさが戻った。


 深雪乃は、離れの部屋で赫臣と向かい合っていた。


 枯野井の言葉が、頭の中から消えない。


 鍵は、開くべき時まで保管される必要がある。


 胎内に宿ったもの。


 会の管理下。


 霊的検分。


 自分が何なのか知りたい。


 だが、あの男たちの手で知られるのは嫌だった。


 赫臣は、膝の上で拳を握っている。


「赫臣様」


「何だ」


「確認しないのですか」


 赫臣は、苦く笑った。


「今したら、力加減を間違えそうだ」


「自覚があるのですね」


「ある」


「では、後にしてください」


「後ならいいのか」


「痛くしないなら」


 赫臣は、深雪乃を見た。


 蒼い目に、不安と怒りと、どうしようもない愛情が混じっている。


「明朝の検分は受けるな」


「命令ですか」


「お願いだ」


「理由は」


「会は、お前を知るためじゃなく、扱うために調べる」


 深雪乃は黙った。


 その違いは分かった。


 知るため。


 扱うため。


 深雪乃は、自分を知りたい。


 会は、深雪乃を扱いたい。


 そこには大きな隔たりがある。


「考えます」


 深雪乃は言った。


 赫臣は苦しそうだったが、頷いた。


「考えろ。だが、一人で考えるな」


「はい」


「俺もいる。蓮台も、砂笙も、白絹も、今なら使える」


「白絹様を物のように言わないでください」


「じゃあ、白絹にも聞く」


「はい」


 その時だった。


 屋敷の奥で、乾いた音がした。


 何かが破裂したような音。


 続いて、空気が震えた。


 深雪乃の懐の鏡が、熱を持つ。


 赫臣が立ち上がる。


「結界だ」


 彼の声が鋭くなる。


「客間の方だ」


 深雪乃の胸が冷えた。


 使者。


 枯野井。


 二人は部屋を飛び出した。


 廊下には、すでに篝火家の従者が走っている。蓮台も反対側から現れた。砂笙が灯りを持ち、白絹も顔色を変えて駆けつける。夜の屋敷が、また一斉に息を詰めた。


 枯野井の客間の前には、結界が張られていた。


 会の使者が自ら張った結界だ。


 薄い金色の膜が、障子の周囲を包んでいる。外から見れば、静かで整った結界。破れはない。裂け目もない。外部から侵入した痕跡は見えなかった。


 だが、中から、焦げたような匂いがする。


 破魔の光が爆ぜた後の、清くも痛い匂い。


 蓮台が結界を見た。


「外から破られていない」


 砂笙が頷く。


「はい。外側は完全です」


 赫臣の目が険しくなる。


「中で何かが起きた」


 白絹が、指を結界へ近づける。


「内側から、破魔の力が爆ぜていますわ」


 赫臣は霊糸を展開しかけた。


 砂笙が止める。


「旦那様、強引に斬れば証拠が乱れます」


「中の様子が先だ」


 蓮台が短く言い、符を取り出した。


 白絹と砂笙がそれに合わせ、結界の表面を一時的に開く。金色の膜が、薄く震えた。障子が開かれる。


 中は、白かった。


 行灯は倒れている。


 文箱は開いていた。


 部屋の中央で、枯野井宗顕が仰向けに倒れていた。


 胸の中心が、内側から焼けたように白く焦げている。血は少ない。だが、周囲の畳には、破魔の光が爆ぜた跡が放射状に残っていた。白い火花が散ったような痕。障子も壁も破れていない。結界も外から破られていない。


 内側で、何かが爆ぜた。


 枯野井の手元には、焼け残った紙片が一枚あった。


 墨の文字は半分焦げている。


 それでも、読める部分があった。


『開鍵の期、近し』


 深雪乃の呼吸が止まった。


 開鍵。


 鍵を開く。


 期が近い。


 自分のことだ。


 そう思った瞬間、身体の奥で何かが冷たく脈打った。


 蓮台が低く言った。


「死亡している」


 広間ではなく、客間。


 会の使者。


 結界内。


 外から破られていない。


 内部で破魔の光が爆ぜた痕跡だけが残る。


 深雪乃は、枯野井の顔を見た。


 昼間、自分を保管される鍵のように語った男。


 会の管理下に置くと言った男。


 母の胎内に宿ったものと口にした男。


 自分の古い情報を持っていた男。


 その男が、死んでいる。


 胸の奥に、悲しみは来なかった。


 驚きはあった。


 恐怖もある。


 けれど、悲しみより先に、静かな安堵が来た。


 あの男に、明朝、自分を検分されずに済む。


 その考えが、ひどく自然に胸へ落ちた。


 深雪乃は、自分で自分が分からなくなった。


 人が死んでいる。


 また死んだ。


 それなのに、自分は安堵している。


 夜岐が死ななくてよかったと思った時とは違う。


 これはもっと冷たい。


 枯野井が死んで、ほっとしている。


 そのことに気づいた瞬間、深雪乃は息が苦しくなった。


 赫臣が振り向く。


「深雪」


 深雪乃は答えられない。


 胸が冷える。


 手は震えない。


 また、震えない。


 赫臣が近づき、彼女の肩を掴んだ。


「深雪」


「……私は」


 声が、喉の奥で引っかかる。


「私は、今」


 赫臣の顔が強張る。


 深雪乃は、枯野井の死体を見たまま言った。


「悲しいより、安堵しました」


 部屋の空気が止まった。


 蓮台も、砂笙も、白絹も、何も言わない。


 深雪乃の声は震えていない。


 それが、いっそ恐ろしかった。


「あの方に、明日、調べられずに済むと。そう思ってしまいました」


 赫臣の手が、深雪乃の肩を包む。


「深雪」


「私は、何なのでしょう」


 問いは、白絹へ向けた時よりもさらに細かった。


 自分へ向けた問いだった。


「姉上が死ななくてよかったと思いました。けれど、この方が死んだことには、安堵しました。私は、何を基準にしているのですか。何を感じているのですか。自分のことなのに、分かりません」


 赫臣は、深雪乃を抱きしめた。


 強くではない。


 けれど、逃がさないように。


 確認のためでもあり、支えるためでもある抱擁だった。


「お前は、人間だ」


 赫臣が言った。


 深雪乃は、彼の胸元で息を止めた。


「人間臭いと蔑まれてきた女に、今それを言うのですか」


「ああ」


「私は、人間なのでしょうか」


「少なくとも、今苦しんでるお前は人間だ」


 赫臣の声が、低く落ちる。


「死んだ奴に安堵した自分が怖くて、自分が分からなくなってる。そう思えるなら、お前は化け物じゃねえ」


 深雪乃の喉が詰まる。


「でも」


「でもじゃねえ。安堵したからって、お前が殺したわけじゃねえ。安堵したからって、お前が枯野井の死を望んだことにはならねえ。あいつは、お前を扱おうとした。検分しようとした。怖かったんだろ。そこから解放されてほっとした。それだけだ」


「それだけ、で済むのでしょうか」


「済ませる気はねえ。だが、お前を責める材料にもさせねえ」


 赫臣の腕が、深くなる。


「俺が覚えとく。お前が今、怖がったことも、安堵したことも、その自分を責めたことも。全部、俺が覚えとく」


 深雪乃は、彼の着物を掴んだ。


「記録のように?」


「写真みてえに」


 少しだけ、胸が揺れた。


 帝都写真館。


 残せ。


 俺が何度でも見る。


 その言葉が、こんな場面で戻ってくるとは思わなかった。


 深雪乃は、赫臣の胸元に額を寄せた。


 枯野井の死体は、まだ部屋の中央にある。


 開鍵の期、近し。


 焼け残った紙片。


 破魔の光が爆ぜた痕跡。


 結界内の死。


 事件はまた、深雪乃の方へ近づいた。


 けれど今、赫臣の腕があった。


 深雪乃は震えない手で、その襟を掴んでいた。


 自分が分からない。


 それでも、ここにいる。


 そのことだけは、赫臣の腕が確かめていた。


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