第39話 玉藻前の選択
蘆野火白絹は、古い文を読む時、香を焚かない。
紙に染みついた匂いを消してしまうからだ。
墨。
古い糊。
湿気。
桐箱の木肌。
時には血のような鉄の匂い。
それらは、書かれた文字と同じくらい多くを語る。先祖返り会の古い記録は、表に出ることを前提にしていない。だからこそ、紙そのものが嘘をつくこともあれば、嘘を隠しきれないこともある。
白絹は、鵺喰家の客間に用意された文机の前に座っていた。
夜は深い。
障子の向こうには、雨の気配があった。降ってはいない。けれど空気は湿り、庭の苔が暗く匂っている。遠くで風が葉を揺らすたび、古い屋敷全体が小さく息を吐くようだった。
文机の上には、蘆野火家から届いた文箱が置かれている。
白地に金糸の包み紐。
玉藻前の系譜を示す、九尾を思わせる金の印。
それは、白絹が昨日送った急ぎの文への返答だった。
内容は、予想していたよりも悪い。
白絹は、文をもう一度読み返した。
『宵待澄子の鵺喰入家について、蘆野火家は情報調整を担当した』
『篝火家への直報を当面控えること、先祖返り会の合意あり』
『白き客人に関する記述は、現存する控えから削除済み』
『澄子本人の意志に関しては、議事録に残さず』
『深雪の名は、鍵として扱うべからず。ただし器にあらず』
そこまで読んで、白絹は文から目を離した。
深雪。
鍵。
器にあらず。
鵺喰家の祈祷部屋で見つかった記録と、蘆野火家に残る断片が一致し始めている。
それは、白絹にとっても重い事実だった。
鵺喰家だけではない。
篝火家だけでもない。
蘆野火家もまた、過去の隠蔽に関わっていた。
玉藻前の系譜。
幻術、魅了、言霊、変化、情報操作。
先祖返り会第三位の家として、蘆野火は婚姻政治と記録調整に深く関わってきた。白絹はそれを知っている。知っていたが、自分の家が宵待澄子の件にどれほど関与していたかまでは知らなかった。
知らなかった。
そう言うのは簡単だ。
だが、知らなかったから罪がない、とは言えない。
白絹は、指先で文の端を押さえた。
紙は古くない。
今日届いた返答だ。
しかし、その中に記されている内容は、二十年近く前の沈黙を背負っている。
宵待澄子。
鵺喰家に入れられた女。
先祖返り会の承認を受けた女。
記録から意志を消された女。
その娘が、今、鵺喰家に戻っている。
鵺喰深雪乃。
小柄で、細く、赤みを帯びた瞳を持つ娘。
最初に見た時、白絹は彼女を「危うい子」だと思った。
霊力は薄く見える。
妖気も強くない。
けれど深いところに、通常の霊力とも妖気とも違うものが沈んでいた。神気に近く、しかし神気だけではない。清らかさと、死を拒むような異質さ。触れればこちらが飲まれるかもしれない深さ。
その危うさは、白絹の本能を刺激した。
同時に、嫉妬もした。
赫臣が、あの娘だけを見ていたから。
篝火赫臣。
酒呑童子の先祖返り。
百鬼夜行の頭。
形式上、白絹の許嫁だった男。
昔から、赫臣は目立つ男だった。派手で、横暴で、口が甘く、危険で、美しい。先祖返り会の女たちが一度は目を向ける。だが、近づけば火傷することも分かっている。鬼の愛は守りにも檻にもなる。白絹はそれを知っていた。
だから、赫臣の許嫁という立場に、冷静な政治と、少しの自尊心を持っていた。
恋かと問われれば、簡単には答えられない。
愛していた、と言うには白絹の感情は綺麗すぎない。
欲しかった、と言う方が近い。
篝火赫臣を。
百鬼夜行の頭の隣に立つ権利を。
蘆野火家の女として、玉藻前の系譜として、あの男に選ばれるだけの価値が自分にはあるという証を。
それを、深雪乃は何も知らない顔で奪った。
いや、奪ったわけではない。
赫臣が勝手に落ちた。
雨の帝都で拾った小さな娘に、百鬼夜行の頭が一目惚れした。それだけだ。そこに政治も家格も婚約もなかった。あまりにも無防備で、あまりにも強い。
白絹は、最初それが許せなかった。
だから幻術で試した。
母に見捨てられる幻。
赫臣に捨てられる幻。
蔵に閉じ込められる幻。
深雪乃は壊れかけた。
母の鏡が幻術を弾き、赫臣が本気で怒った。
あの時、白絹は初めて理解した。
赫臣は、もう自分を見ない。
少なくとも、恋や所有や執着の目では見ない。
彼の視線は深雪乃だけに向いている。
それは腹立たしかった。
屈辱でもあった。
けれど、認めないわけにはいかなかった。
白絹がどれほど美しく、どれほど家格を持ち、どれほど幻術に長けていようと、赫臣のあの視線は奪えない。深雪乃に向けられるあの焦燥、怒り、甘さ、恐れ、苦さ。あれは政治で作れるものではない。
勝てない。
そう悟るのは、不快だった。
だが、白絹は不快な事実から目を逸らすほど愚かではない。
問題は、そこからだった。
深雪乃と赫臣の関係に介入しても、恋敵としては勝てない。
では、玉藻前の系譜として、どうするか。
白絹は文を畳み、火鉢の火を見た。
燃やすことはできる。
蘆野火家の関与を示す文だ。
もしこれが表に出れば、蘆野火家も無傷では済まない。先祖返り会の第三位として、過去の隠蔽に加担した可能性が明るみに出る。赫臣は怒るだろう。蓮台は食いつく。砂笙は冷静に記録へ残す。深雪乃は、静かに白絹を見るだろう。
あの赤みを帯びた瞳で。
白絹は、火鉢から目を離した。
燃やさない。
少なくとも、今は。
彼女は文を再び桐箱へ戻し、包み紐を結び直した。
その時、廊下の向こうから足音がした。
静かで、軽い。
深雪乃のものだった。
白絹は、障子へ顔を向ける。
「お入りなさいませ」
障子の外で、わずかな間があった。
それから障子が開く。
深雪乃が立っていた。
白藤色に近い淡い着物を着ている。髪はまっすぐ背へ落ち、赤みを帯びた瞳は眠っていない。彼女の後ろには赫臣の気配がない。珍しいことだった。最近の赫臣は、深雪乃のそばを離れたがらない。離れる時は篝火家の者を置く。今も、おそらく廊下の少し離れた場所に従者がいるのだろう。
だが、深雪乃自身は一人で来た。
「夜分に失礼いたします」
「構いませんわ。眠れませんの?」
「はい」
「でしょうね」
白絹は、文机の向かいを示した。
深雪乃は静かに座る。
動作は丁寧だが、どこか疲れている。無理もない。母の過去、不死の謎、白い影、夜岐襲撃、親世代の因縁。あれだけのものを背負わされて、よく倒れずにいる。いや、深雪乃は倒れても戻る身体なのだった。だから周囲は彼女を倒してもいいと思ってきた。
白絹は、少しだけ目を細めた。
「赫臣様は?」
「隣の部屋にいらっしゃいます。私が白絹様と話したいと申し上げました」
「よく許しましたわね」
「許可ではありません」
「まあ」
「私は赫臣様の所有物ではありませんので」
白絹は、思わず小さく笑った。
「それを赫臣様におっしゃいましたの?」
「はい」
「どんな顔を?」
「苦い顔を」
「でしょうね」
その短いやり取りで、少しだけ空気が緩む。
だが、深雪乃の目はすぐに文箱へ向いた。
「蘆野火家から、返事が来たのですね」
白絹は、隠さなかった。
「ええ」
「母のことですか」
「そうですわ」
「蘆野火家も、関わっていたのですね」
直球だった。
白絹は、深雪乃を見る。
この娘は、時々ひどく静かに核心へ刃を差し込む。大声で責めない。泣き叫ばない。ただ、逃げ道の少ない問いを置く。赫臣が何度も刺される理由が、少し分かる気がした。
「可能性ではなく、関わっていました」
白絹は答えた。
深雪乃の指先が、膝の上でわずかに動く。
「どのように」
「情報調整ですわ。宵待澄子様が鵺喰へ入ること、篝火家へすぐには知らせないこと、先祖返り会の内部でどう扱うか。蘆野火は、その調整に関与した」
「幻術も?」
「そこまでは、まだ記録がありません」
「まだ、ですね」
「ええ。まだです」
深雪乃は目を伏せた。
怒っているのだろう。
だが、表情は大きく変わらない。
白絹は、その静けさが少し苦手になっていた。以前なら、ただ危ういと見た。今は、その奥にある痛みを知ってしまった。知ってしまうと、ただの駒には見えなくなる。面倒なことだ。人を知ると、扱いにくくなる。
「お怒りでしょうね」
白絹が言うと、深雪乃は少し考えた。
「怒っています」
「でしょうね」
「けれど、不思議と、白絹様だけを責める気にはなれません」
白絹は眉を動かした。
「それは、私にとって都合のよいお言葉ですわ」
「都合よく受け取らないでください」
「手厳しいですわね」
「赫臣様にも言っています」
「でしょうね」
深雪乃は、静かに白絹を見た。
「白絹様は、知らなかったのですか」
「すべては知りませんでした」
「すべてではない、ということは」
「断片は知っていました」
白絹は、そこを曖昧にしなかった。
「宵待澄子という女が鵺喰家へ入ったこと。彼女が古い退魔の血を引いていたこと。篝火家と何らかの因縁があったこと。白き客人という言葉が、蘆野火の古い控えに残っていること。その程度は知っておりました」
「それを、私に話さなかった」
「話す必要がないと思っていました」
深雪乃の瞳が、少し冷える。
白絹は続けた。
「最初は、あなたをただの恋敵だと思っていましたもの。赫臣様の気まぐれで拾われた、危うく小さな娘。政治の場へ出すには不安定で、けれど赫臣様の心だけを奪った子。私はあなたを警戒し、試し、場合によっては排除すべきかもしれないと考えました」
深雪乃は、黙って聞いている。
白絹は、少しだけ自嘲した。
「醜いでしょう?」
「はい」
「正直ですわね」
「白絹様も、今は正直ですので」
白絹は、唇を薄く引いた。
「あなたは、時々ひどく扱いづらいですわ」
「よく言われます」
「赫臣様に?」
「主に」
「愛されていますわね」
深雪乃の頬がわずかに色づいた。
白絹はそれを見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
まだ、完全に諦めたわけではない。
赫臣が深雪乃を見る目を、白絹は見ている。
彼が深雪乃を抱きしめる手。
確認するような抱擁。
隠し事を苦く滲ませた口づけ。
可愛い、大好きだ、愛してる、お前しかいないと、場所も考えずに囁く様子。
あの男が、自分にそんな顔を向けたことはなかった。
腹立たしい。
悔しい。
それでも、もう分かっている。
介入しても勝てない。
どれほど幻術で揺さぶっても、どれほど許嫁という立場を持ち出しても、赫臣の視線は戻らない。むしろ、深雪乃を傷つければ傷つけるほど、赫臣はさらに深く彼女へ沈むだろう。
白絹は、負けを認めるのが嫌いだった。
だが、負けを見誤るほど愚かではない。
「白絹様」
深雪乃の声で、白絹は意識を戻した。
「はい」
「なぜ、私を呼び入れてくださったのですか」
「あなたが来たのですわ」
「障子の前で、声をかける前に気づいていらっしゃいました」
白絹は小さく笑った。
「鋭いこと」
「話すつもりがあったのではありませんか」
白絹は、文箱へ視線を落とした。
それから深雪乃を見る。
「ええ。ありました」
空気が変わる。
白絹は、文箱を深雪乃の前へ滑らせた。
「蘆野火家も、過去の隠蔽に関わっていた可能性が高い。いいえ、可能性という言葉で薄めるべきではありませんわね。関わっていました。情報調整、記録の扱い、篝火家への連絡制限。玉藻前の系譜は、その役割を担った」
深雪乃は文箱を見つめた。
手は伸ばさない。
「それを、私に見せてよろしいのですか」
「本当は、よくありません」
「では、なぜ」
「同じ沈黙を選ばないためですわ」
深雪乃の目がわずかに揺れた。
昨夜、深雪乃と赫臣が交わした言葉に近い。白絹は直接聞いていない。だが、白絹も同じ結論へ来たのだろう。
「私は蘆野火の娘です。家を捨てる気はありません。過去の罪をすべて背負って美しく懺悔するほど、善人でもありませんわ」
「はい」
「肯定が早いですわね」
「白絹様は、善人ではないと思います」
「本当に手厳しい」
白絹は、少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「けれど、あなたを何も知らないまま盤上に置くことも、もうできません。あなたが何なのか、私にもまだ分からない。あなたの中のものが目覚めた時、何を壊すのかも分からない。赫臣様を壊すのか、鵺喰家を壊すのか、先祖返り会を壊すのか、それともあなた自身を壊すのか」
深雪乃の指が、膝の上で動く。
白絹は、その動きを見ながら言った。
「だから、警告します」
声が、低くなる。
「あなたが彼を壊すなら、私はあなたを止める」
部屋の空気が、静かに張り詰めた。
深雪乃は、白絹を見つめる。
白絹は目を逸らさなかった。
「赫臣様を愛しているからですか」
深雪乃の問いは、静かだった。
白絹は、少しだけ呼吸を止めた。
愛。
その言葉は、白絹の中で簡単には形にならない。
「そう言えば、あなたは傷つきますか」
「分かりません」
「では、正直に申し上げます」
白絹は、薄く目を伏せる。
「愛だけではありません。未練もあります。執着も、自尊心も、家の都合も、赫臣様の隣に立つはずだったという意地もあります。私は、あなたのように素直に好きだとは言えませんわ」
深雪乃は黙っている。
「けれど、赫臣様が壊れるのを見たいわけではありません。あの方は厄介で、横暴で、口が甘く、周囲の迷惑を省みない鬼ですが、先祖返り会には必要な方です。篝火家にも、百鬼夜行にも。そして」
白絹は、少しだけ言葉を止めた。
「私にとっても、簡単に壊れてよい方ではありません」
深雪乃の瞳が、わずかに揺れた。
白絹は続けた。
「あなたを憎んでいるわけではありません。好きとも言いません。あなたは危うい。危険です。でも、可哀想なだけの娘でも、赫臣様に守られるだけの女でもない。そこは認めます」
「それは褒めているのですか」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「警戒ですわ」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「白絹様は、私の敵ですか」
「そうなる可能性はあります」
「味方ですか」
「そうなる可能性もあります」
「曖昧ですね」
「現実は曖昧なものですわ」
白絹は、深雪乃を見る。
「今の私は、あなたを助けることもあります。警告もします。必要なら、赫臣様をあなたから引き離そうとするかもしれません。けれど、それは恋敵としてだけではなく、玉藻前の系譜として、先祖返り会の均衡を見ての判断でもあります」
深雪乃は、静かに聞いていた。
その目には、怒りだけではないものがある。
白絹には、それが少し不思議だった。
自分は以前、深雪乃を幻術で壊しかけた。今も彼女へ警告し、場合によっては止めると言っている。嫌われて当然だ。むしろ、嫌われた方が分かりやすい。
だが、深雪乃の目はそう簡単ではなかった。
深雪乃は、ゆっくり口を開く。
「私は、白絹様のことを嫌いです」
「ええ」
「幻術のことも、許してはいません」
「でしょうね」
「赫臣様への未練を聞いて、少し嫌な気持ちにもなりました」
「正直ですわね」
「ですが」
白絹は、深雪乃を見つめた。
深雪乃は、言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「嫌いきれません」
白絹は、何も言えなかった。
深雪乃は続ける。
「あなたは、怖いことを言います。私を危険だと言い、赫臣様を壊すなら止めると言います。蘆野火家のことも、すべてをすぐに明かしてくださるわけではないでしょう。けれど、今、文箱を燃やさなかった」
白絹の指が、わずかに動く。
深雪乃はそれを見ていた。
「燃やすことも、できたはずです」
「……見抜かれていましたの」
「火鉢を見ていらっしゃいました」
白絹は、小さく息を吐いた。
「本当に扱いづらい子ですわ」
「よく言われます」
「赫臣様に?」
「主に」
二度目のやり取りだった。
今度は、白絹の口元に少しだけ笑みが浮かんだ。
深雪乃も、ほんのわずかに表情を緩める。
その微かな変化が、白絹には不意に痛かった。
この娘は、自分を嫌いきれないと言った。
それは甘さではない。
深雪乃は、自分を傷つけた者を簡単に許す娘ではない。夜岐のことも許していない。それでも死ななくてよかったと思った。白絹にも同じように、怒りと理解を同時に向けている。
その複雑さが、赫臣をあそこまで狂わせたのかもしれない。
白絹は、文箱をそっと押した。
「中の文は、後で蓮台様と砂笙様にも見せます。赫臣様にも」
「今ではないのですか」
「今見せれば、赫臣様が私の部屋の障子を壊しますわ」
「否定できません」
「でしょう?」
「ですが、隠すのは」
「明朝には見せます」
白絹ははっきり言った。
「今夜のうちに写しを一つ取ります。蘆野火家へも、追加で記録を求める文を出します。逃げ道を作るためではなく、家の者が勝手に処分しないようにするためです」
深雪乃は、白絹を見た。
「信じてよろしいのですか」
「完全には、おすすめしませんわ」
「自分で言うのですね」
「私は玉藻前の系譜ですもの。信じきる方が不用心です」
「では、半分だけ信じます」
「上出来ですわ」
白絹は、少しだけ笑った。
それから、表情を改める。
「深雪乃さん」
「はい」
「あなたが赫臣様を壊すなら、私はあなたを止めます。これは脅しではありません。約束です」
深雪乃は、静かに頷いた。
「では、私も申し上げます」
「何かしら」
「あなたが赫臣様を、家の都合や先祖返り会の均衡のために傷つけるなら、私はあなたを許しません」
白絹の瞳が、わずかに開いた。
深雪乃の声は柔らかくない。
だが、震えてもいない。
小柄で、細く、死なない身体を持つ娘。
守られるだけではない。
白絹は、そのことを改めて思った。
「怖いことをおっしゃいますのね」
「警告です」
「敵のようですわ」
「味方とも言えませんので」
白絹は、今度こそ小さく笑った。
「本当に、扱いづらい子」
「白絹様ほどではありません」
「言いますわね」
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
敵ではない。
味方とも言えない。
恋敵であり、警告者であり、隠蔽に関わった家の娘であり、文箱を燃やさなかった女。
深雪乃は、そんな白絹を嫌いきれない。
白絹もまた、深雪乃をただ排除すべき相手として見られなくなっている。
その関係に、名前はまだなかった。
障子の外で、低い声がした。
「話は終わったか」
赫臣だった。
どうせ少し離れた場所で待っていたのだろう。待っていたというより、我慢していたに近い。気配が廊下に重く溜まっている。白絹は目だけで呆れを示した。
「赫臣様、盗み聞きは品がございませんわ」
「聞こえただけだ」
「障子一枚越しにその妖気で立っていれば、聞こえますわね」
「深雪を迎えに来た」
「まだ取って食べておりません」
「食われたら困る」
「私、狐の系譜ですのよ。鬼に言われたくありませんわ」
障子が開いた。
赫臣が立っていた。
顔は不機嫌だ。
だが、深雪乃を見る目だけはすぐに柔らかくなる。分かりやすすぎる。白絹は、胸の奥に少し痛みを覚えながらも、その分かりやすさに呆れた。
「深雪」
「はい」
「戻るぞ」
「命令口調です」
「……戻ってくれ」
「はい」
深雪乃は立ち上がる。
赫臣の手がすぐに差し出される。
深雪乃は、一度白絹を見た。
「白絹様」
「何かしら」
「文箱を燃やさないでくださって、ありがとうございます」
白絹は、少しだけ目を伏せた。
「礼を言われるほど綺麗な理由ではありませんわ」
「それでも」
深雪乃は、小さく頭を下げた。
白絹は、その姿を見て、また胸の奥に小さな痛みを覚えた。
負けたのだ。
恋敵としては。
けれど、それだけで終わるつもりはない。
玉藻前の系譜として、蘆野火白絹として、自分はまだ盤上にいる。
深雪乃が赫臣を壊すなら止める。
赫臣が深雪乃を檻にするなら、それも止める。
先祖返り会がまた沈黙を選ぶなら、今度はその沈黙を利用する側に回るか、破る側に回るかを、自分で選ぶ。
深雪乃は赫臣の手を取った。
赫臣の表情が少し緩む。
「調子に乗らないでください」
深雪乃が小さく言う。
「まだ何も言ってねえ」
「顔が言っています」
「顔か」
「はい」
「深雪にだけだ」
「便利な言い訳です」
二人はいつものように言い合いながら、部屋を出ていった。
障子が閉まる。
白絹は、しばらくその閉じた障子を見つめていた。
赫臣の背。
深雪乃の細い手。
二人が並んで廊下を歩く気配。
その距離は、もう白絹が割り込めるものではない。
だからこそ、別の場所に立つ。
敵でも味方でもない場所。
恋敵でも、協力者でも、監視者でもある場所。
白絹は文箱を手元へ戻し、火鉢を見た。
火はまだ赤く残っている。
けれど、文は燃やさなかった。
彼女は新しい紙を取り出し、筆を取る。
蘆野火家へ、さらに深い記録を求める文を書くために。
墨を含ませた筆先が、白い紙へ触れる。
白絹は、最初の一文字を書いた。
それは、これまで蘆野火家が好んできた沈黙とは違う形の始まりだった。




