第38話 親世代の影
古い記録は、乾いた紙の匂いがした。
祈祷部屋から回収された紙片は、篝火家の従者によって一枚ずつ白布の上に並べられていた。破れた端を合わせ、墨の濃淡を見比べ、欠けた文字を推測していく。だが、いくら丁寧に並べても、空白は残る。誰かが意図して抜き取った頁、燃やされたらしい端、墨を塗り潰された名。すべてが、見せたくない過去の輪郭を残していた。
消したつもりなのだろう。
だが、消すという行為は、そこに何かがあったと教える。
深雪乃は、白布の前に座り、紙片を見つめていた。
部屋は鵺喰家の離れだった。蓮台が一室を押さえ、篝火家の者が警護についている。窓の外には、雨上がりの庭が見えた。葉の先に残った雫が、曇った光を受けて小さく揺れている。
赫臣は深雪乃の隣にいた。
近い。
昨夜から、その距離はさらに近くなっている。
赫臣視点ではない深雪乃にも分かる。彼は確認している。深雪乃がそこにいるか。消えていないか。証拠の中心へ引き寄せられていないか。白い影や古い名に呼ばれて、どこかへ行ってしまわないか。
そのたび、赫臣の手は深雪乃の指に触れる。
髪に触れる。
肩を包む。
以前なら、すぐに唇で塞いでいた。今もその癖は完全には抜けていない。だが、昨夜、深雪乃が「あなたの愛は、時々とても苦い」と言ってから、赫臣は少し変わった。触れる前に一拍置く。抱きしめる前に「確認する」と言う。口づけも、何を隠すためのものなのか、自分で確かめてからするようになった。
進歩である。
ただし、たいへん遅い。
砂笙が、紙片を一枚持ち上げた。
「こちらは、祈祷部屋の記録ではなく、先祖返り会の控えに近い形式です」
蓮台が眉をひそめる。
「鵺喰家の私的な記録ではないのか」
「はい。紙質が異なります。朱印の跡もございます。判読できる限り、鵺喰、篝火、蘆野火、寺社方、そして宵待の名が同じ頁に出ております」
深雪乃の胸が、小さく鳴った。
宵待。
母の家。
篝火。
赫臣の家。
蘆野火。
白絹の家。
鵺喰家だけではない。
砂笙は、慎重に文字を読む。
「『宵待澄子、鵺喰へ入るにあたり、会の承認を受く』。その後が破れております。続いて、『篝火への直報、当面禁ず』。『白き客人の誓約、未だ解けず』。『胎内に触れる術式、第二位家紋をもって封ず』」
第二位。
山本五郎左衛門の系譜。
鵺喰家。
深雪乃は、膝の上で手を握った。
胎内に触れる術式。
その言葉が、生々しく胸へ落ちた。
母の身体に、何かが行われた。
母が深雪乃を宿していた頃に。
深雪乃の不死身と、その術が関わっているかもしれない。
昨日、砂笙はそう言った。
だが、こうして先祖返り会の控えらしき記録にまで母の名が出ると、意味が変わる。
これは鵺喰家だけの罪ではない。
もっと大きな場で、母のことが決められていた。
白絹が、静かに言った。
「蘆野火にも、似た記録がございますわ」
蓮台の目が白絹へ向く。
「隠していたのか」
「私の手元に完全なものがあったわけではありません。蘆野火家に残る古い口伝と、婚姻調整の控えに、断片だけがございました」
赫臣が低く言う。
「話せ」
白絹は赫臣を見た。
その表情に、いつもの余裕は薄かった。
「二十年ほど前、先祖返り会で一つの取り決めがありました。宵待の女を鵺喰へ入れること。篝火には一定期間知らせないこと。蘆野火は幻術と情報の調整を担当すること。寺社方は儀式の表向きの清めを整えること」
深雪乃は、白絹を見つめた。
「母の婚姻を、会が決めたのですか」
「婚姻という形を取った、という方が近いでしょう」
白絹の声は慎重だった。
「宵待澄子様は、ただ斎臣様の妾になったのではありません。少なくとも、先祖返り会はそう扱っていなかった。彼女には、宵待の血と術がありました。鏡、弓、清め、遺響。人と妖と神気の境を扱う、古い退魔の筋です」
赫臣の手が、深雪乃の指を包む。
深雪乃は、逃げなかった。
白絹は続ける。
「その力を、鵺喰家の山本五郎左衛門の印で封じ、何かに使おうとした。記録から読めるのは、そこまでですわ」
「何かに?」
深雪乃の声は、静かだった。
だが、内側は静かではなかった。
「私の母は、何かの道具だったのですか」
白絹は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
赫臣の妖気が、じわりと熱を帯びる。
「白絹」
「言葉を選んでおります」
「選んでそれか」
「選ばなければ、もっと酷い言い方になりますわ」
白絹の目が、わずかに伏せられる。
「先祖返り会は、彼女を守ったのではありません。利用した。少なくとも、記録はそう読めます」
深雪乃の指が冷える。
赫臣の手が、それをすぐに包み込む。
深雪乃は、母を思った。
病室で痩せていた母。
鏡の遺響の中で、黒い組紐と銀の輪をつけた手を握り返していた母。
櫛の遺響の中で、深雪には知られないように、あの子だけは私のようにしないで、と願っていた母。
雨の夜、腹に手を添えて、連れ出そうとする手に首を横に振った母。
母は、何を知っていたのだろう。
何から深雪乃を守ろうとしていたのだろう。
何を諦めたのだろう。
砂笙が、別の紙片を示した。
「こちらには、『白き客人、篝火筋と接触』という文字がございます。その下は破れておりますが、『澄子を返す』という語が見えます」
赫臣の顔が硬くなった。
深雪乃は見逃さなかった。
「赫臣様」
「……ああ」
「心当たりがあるのですね」
赫臣は、しばらく黙った。
だが、今度は逃げなかった。
「先代から聞いたことがある」
低い声だった。
「俺の父親がまだ当主になる前、篝火家に一人の客が来た。白い髪をしていたという。顔も名も、記録に残ってねえ。けど、蒼い目だったと聞いた」
蒼い目。
夜岐が見た、蒼い目の白い女。
深雪乃の胸が強く鳴る。
赫臣は続けた。
「そいつは、宵待澄子を鵺喰から出せと言ったらしい。澄子は鵺喰に置いてはいけない。あの女を、山本五郎左衛門の紋に縛るな、と」
「その方が、母を愛した男ですか」
深雪乃の問いに、赫臣は目を伏せた。
「分からねえ」
「分からない?」
「白い髪の客人と、お前の母の手を握っていた男が同一かどうか、確証がねえ。記録が意図的に削られてる。篝火家に残ってる話も、会から圧がかかって曖昧にされていた」
蓮台が低く言う。
「篝火家にも圧をかけられるのか」
赫臣は苦い顔で笑った。
「今の俺なら無理だ。だが当時は違う。先代はまだ当主じゃねえ。篝火家も先祖返り会の中で孤立するわけにはいかなかった。鵺喰、蘆野火、寺社方、退魔師組合、政財界の連中まで絡んでいたなら、簡単には動けねえ」
「それで、澄子は鵺喰家に残された」
蓮台の言葉に、部屋の空気が重くなる。
深雪乃は、母の姿を思い浮かべた。
残された母。
病に痩せた母。
最後に誰かの手を握っていた母。
深雪乃は、その手を知りたいと思った。
だが、知るのが怖くもあった。
その人は母を愛していたのか。
愛していたなら、なぜ守りきれなかったのか。
赫臣が深雪乃の手を握る。
深雪乃は、彼の指先が少し冷えていることに気づいた。
彼もまた、親世代の影に触れている。
白絹が、静かに口を開いた。
「蘆野火家の古い控えには、こうあります。『鬼に渡せば誓いは破れ、白き客人は返還を求める』。ただし、鬼が誰を指すのかは明記されていません。篝火家なのか、酒呑童子の血そのものなのか。それとも百鬼夜行を率いる力なのか」
赫臣の顔がさらに強張る。
深雪乃は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
鬼。
赫臣。
百鬼夜行の頭。
母の記録に、鬼へ渡すなとある。
玄磊も死の直前に、鬼に渡すなと言った。
それは赫臣を指しているのか。
それとも、親世代の別の鬼を指していたのか。
深雪乃は、赫臣を見る。
赫臣も、深雪乃を見ていた。
その瞬間、深雪乃は思った。
重なっている。
母と、白い髪の客人。
鵺喰家と、篝火家。
守ろうとして守りきれなかった誰か。
残された母。
そして今、深雪乃と赫臣。
先祖返り会が隠した過去。
鵺喰家が母へ行った術。
篝火へ知らせるなという記録。
鬼へ渡すなという警告。
白い影。
蒼い目。
すべてが、二人の関係を親世代の因縁の上へ重ねようとしているようだった。
深雪乃は、小さく息を吸った。
「私たちは」
声が、思ったよりも細く出た。
赫臣がすぐにこちらを見る。
「私たちは、母たちと同じところに立っているのでしょうか」
部屋の中が静かになる。
白絹も、砂笙も、蓮台も口を挟まなかった。
深雪乃は、赫臣だけを見た。
「母は、鵺喰家に置かれました。篝火へ知らせるなと記録され、白き客人が返せと言った。鬼に渡すなとも。今、私は鵺喰家に戻り、あなたは私を守ってくださっている。けれど、記録は篝火を近づけるなと言い、玄磊様は鬼に渡すなと言いました」
言葉にするほど、胸が冷える。
「私とあなたの関係は、親世代が失敗した何かの続きをなぞっているのではありませんか」
赫臣は、深雪乃の手を強く握った。
痛くはない。
だが、逃がさない力だった。
「深雪」
「はい」
「俺たちは同じ終わり方をしねえ」
低い声だった。
迷いのない声。
「母君がどうして鵺喰に残ったのか。白い髪の客人が何者だったのか。篝火がなぜ止められなかったのか。先祖返り会が何を隠したのか。俺はまだ全部知らねえ。知らねえことが腹立たしいくらい多い」
赫臣の蒼い目が、深雪乃を真っ直ぐに捉える。
「でも、俺はお前を置いていかねえ。会が何を言おうが、記録に何が書いてあろうが、白い影が何を囁こうが、お前を鵺喰に返す気も、どこかの誓いに差し出す気もねえ」
「それが、禁忌でも?」
「破る」
「あなたが壊れるとしても?」
赫臣は、少しだけ目を細めた。
白絹の警告がそこにあった。
あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない。
赫臣は、深雪乃の手を持ち上げ、指先へ口づけた。
人前だった。
蓮台がわずかに眉を寄せた。
砂笙が額を押さえた。
白絹は、静かに見ていた。
赫臣は気にしない。
「壊れねえ」
「願望ですか」
「意地だ」
「似ています」
「違う。願望は祈るだけだ。意地は噛みついてでも通す」
深雪乃は、少しだけ息を失った。
赫臣は続ける。
「俺はお前を守る。守るって言葉で隠し事をするのは、もう減らす。減らすだけかって顔をするな。すぐ全部直るほど、俺は出来のいい男じゃねえ」
「自覚があるのですね」
「ある」
「少し遅いです」
「それもある」
深雪乃の口元が、ほんの少し緩みかけた。
赫臣はすぐに気づいたが、今は可愛いと言わなかった。
言えば台無しになると分かったのだろう。
成長である。
たいへん遅いが。
蓮台が、記録を見ながら言った。
「親世代の話は、殺人の動機にも繋がる。鵺喰家だけでなく、先祖返り会全体が澄子の件を隠していたなら、今回の事件は鵺喰家内部の相続争いだけでは済まない」
砂笙が頷く。
「はい。喜周、祢々、頼成、兼継、玄磊、夜岐。それぞれは鵺喰家の内部に見えますが、記録が示す範囲は会全体へ広がっております。特に、篝火へ報せるなという記載、蘆野火家の情報調整、寺社方の清めの関与。これは鵺喰家単独ではございません」
白絹が静かに言う。
「蘆野火も無関係ではありませんわ。私がどこまで知れるかは分かりませんが、家に戻れば古い控えを洗います」
赫臣が白絹を見る。
「隠すなよ」
「あなたにだけは言われたくありませんわね」
深雪乃が、思わず赫臣を見た。
赫臣は苦い顔をした。
「俺が悪かったって顔するな」
「なさっていたのですか」
「した」
「珍しいですね」
「お前が刺すからな」
「必要なら今後も」
「分かってる」
白絹は、そのやり取りを見て、わずかに目を伏せた。
「同じ終わり方をしないためには、同じ沈黙を選ばないことですわ」
深雪乃は、白絹を見た。
白絹の声には、彼女自身の後悔も混じっているようだった。幻術で深雪乃を試した時のこと。赫臣の怒りを買い、深雪乃を壊しかけたこと。あれもまた、白絹なりの警戒と恐れから出た行動だった。
恐れは、人を黙らせる。
愛も、時に黙らせる。
親世代は、黙った。
隠した。
その結果、母は鵺喰家で死に、記録は破られ、深雪乃は自分が何なのか分からないまま生きてきた。
深雪乃は、赫臣の手を見た。
「では、黙らないでください」
赫臣が深雪乃を見る。
「あなたが怖いことも、分からないことも、言えない理由も。隠すのではなく、言ってください。私も、怖いときは言います」
赫臣の目が、少し揺れる。
「本当か」
「努力します」
「努力か」
「私も出来のいい女ではありませんので」
「お前は出来がいい」
「今、それを言うと話が逸れます」
「悪い」
「謝罪も多いです」
「改善する」
「期待は少しだけにします」
赫臣は、苦く笑った。
だが、その笑みは少し安堵していた。
砂笙が、静かに記録をまとめる。
「本日の確認事項をまとめます。宵待澄子様の鵺喰入りは、鵺喰家だけでなく先祖返り会の承認を受けていた。篝火家への直報を禁じる記載がある。蘆野火家と寺社方も何らかの調整に関わった可能性が高い。白き客人と呼ばれる存在が、篝火家にも接触していたらしい。澄子様を返す、という語も確認できます」
蓮台が続ける。
「ただし、白き客人が男か女か、母親を愛した人物と同一か、夜岐が見た蒼い目の白い女と繋がるのかはまだ不明。澄子へ行われた術の詳細も不明。そこを急いで断定すれば、犯人の誘導に乗る危険がある」
深雪乃は頷いた。
まだ何も完全には分からない。
けれど、見えてきた。
母の過去は、鵺喰家だけに閉じていない。
先祖返り会全体が、何かを隠している。
その隠蔽が、今の連続事件に繋がっている。
そして、深雪乃と赫臣の関係は、その隠された過去の影を踏んでいる。
夕刻近く、調査はひとまず終わった。
蓮台は記録を持って祈祷部屋へ戻り、砂笙は篝火家の従者へ警備の配置を指示した。白絹は蘆野火家へ文を送るため、別室へ下がった。
深雪乃と赫臣だけが、離れの部屋へ戻った。
日が落ちかけている。
障子の向こうには、薄い橙色の光が滲んでいた。庭の葉は濡れたまま、夕風にかすかに揺れている。鵺喰家の空気は相変わらず重い。だが、帝都写真館で撮った写真のことを思い出すと、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなる。
自分が残る。
赫臣の隣に。
そういう形が、どこかに焼きつけられる。
深雪乃は、畳の上に座り、母の鏡を膝に置いた。
赫臣は少し離れて立っていた。
珍しく、すぐ近づいてこない。
「赫臣様」
「何だ」
「確認しないのですか」
自分で言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
赫臣の目がわずかに開く。
「いいのか」
「痛くしないなら」
赫臣は、ゆっくり近づいた。
まるで、少しでも急げば深雪乃が引いてしまうと恐れているようだった。膝をつき、深雪乃の正面に座る。手を伸ばす前に、低く言った。
「確認する」
深雪乃は、小さく頷いた。
赫臣の腕が、深雪乃を包む。
強くない。
けれど、深い。
背の傷を避け、肩を包み、髪へ頬を寄せる。深雪乃は、彼の胸に額を預けた。赫臣の鼓動が聞こえる。ゆっくりではない。少し速い。彼もまだ不安なのだろう。
「同じ終わり方をしないと、言いましたね」
深雪乃が呟く。
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「親世代も、きっとそう思ったのではありませんか」
赫臣の腕が、少しだけ深くなる。
「かもしれねえ」
「なら」
「だから、同じことをしねえ」
赫臣の声が、髪の上から落ちる。
「黙らねえ。隠す時は、隠す理由も言う。怖いなら怖いって言う。お前が遠くへ行きそうなら、止める。でも、お前の足を縛るだけにはしねえ」
「難しそうですね」
「難しい」
「正直ですね」
「嘘つくと、お前が刺す」
「必要なら」
「分かってる」
深雪乃は、彼の着物を掴んだ。
「私も、怖いです」
赫臣の呼吸が止まる。
「親世代の過去を知ることも。母が何をされたのか知ることも。私が何なのか知ることも。あなたとの関係が、誰かの失敗をなぞっているのかもしれないことも」
「ああ」
「けれど、知らないまま守られるのは嫌です」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
赫臣は、深雪乃の額に口づけた。
短く。
深雪乃は目を閉じた。
「今のは?」
「怖いって言ったお前が、ちゃんとここにいるから」
「確認ですか」
「少し」
「苦いですか」
「少し」
深雪乃は、薄く息を吐いた。
「でも、今夜は飲み込めます」
赫臣の腕が震えた。
それから、彼は深雪乃の頬に口づけた。
「可愛い」
「今、それを言いますか」
「言う」
「流れを」
「大好きだ」
「増やさないでください」
「愛してる」
「また」
「お前しかいない」
深雪乃は、赫臣の襟を掴んだ。
「それは、苦いですか」
赫臣が聞く。
深雪乃は少し考えた。
親世代の影。
篝火へ知らせるなという記録。
鬼に渡すなという言葉。
母と白き客人。
すべてが二人を覆っている。
それでも、赫臣の腕は今ここにある。
隠し事の蓋ではなく、怖さを分け合うための腕として。
「少し甘いです」
深雪乃が言うと、赫臣が息を呑んだ。
その反応があまりにも分かりやすくて、深雪乃は少しだけ目を伏せた。
「調子に乗らないでください」
「無理だ」
「まだ何も」
「もう乗った」
「早すぎます」
赫臣は笑い、今度は唇へ口づけた。
深くはない。
けれど、長い。
互いの不安を探るように、確かめるように、唇が重なる。深雪乃は拒まなかった。彼の襟を掴む指に力を込める。赫臣の手が背を避け、腰ではなく肩を抱く。その慎重さが、今は少しだけ嬉しかった。
唇が離れる。
赫臣は、深雪乃の髪を撫でた。
「今日は、一緒にいろ」
「命令口調です」
「お願いだ。一緒にいてくれ」
「……はい」
深雪乃は、すぐに答えた。
赫臣の目が、静かに揺れる。
その夜、二人は同じ部屋で過ごした。
行灯の灯りを落とし、庭の虫の音を聞きながら、深雪乃は赫臣の腕の中にいた。露骨な言葉はなかった。けれど、指先が触れ、髪が撫でられ、額や頬や唇へ、何度も静かな口づけが落ちた。
深雪乃は、そのたびに赫臣へ問いかけた。
「今のは?」
赫臣は、時々考えてから答えた。
「怖いから」
「好きだから」
「ここにいるか確かめたいから」
「可愛いから」
最後だけ深雪乃が少し睨んだ。
赫臣は悪びれず、もう一度「可愛い」と言った。
深雪乃は、文句を言いながらも離れなかった。
親世代の影は、まだ消えない。
先祖返り会の隠蔽も、母の過去も、白き客人の正体も、何一つ終わっていない。
けれど、同じ終わり方をしないと赫臣は言った。
深雪乃は、その言葉を信じきるほど無邪気ではない。
それでも、信じたいと思った。
同じ沈黙を選ばないこと。
同じ隠し方をしないこと。
同じ場所で手を離さないこと。
夜が深くなるにつれ、赫臣の腕は少しずつ落ち着いていった。震えも薄れた。深雪乃も、胸の冷えが完全に消えたわけではないが、呼吸は少し楽になった。
眠る前、赫臣が低く言った。
「深雪」
「はい」
「俺たちは、同じ終わり方をしねえ」
二度目の言葉だった。
深雪乃は、彼の胸元に額を寄せたまま、静かに答えた。
「では、同じ沈黙も選ばないでください」
「ああ」
「同じ後悔も」
「ああ」
「同じ別れも」
赫臣の腕が、深くなる。
「しねえ」
深雪乃は目を閉じた。
その答えが誓いか、願いか、意地かは分からない。
けれど今夜は、その声の中で眠ろうと思った。




