第37話 赫臣の疑い
篝火赫臣は、疑うという行為が嫌いだった。
正確には、自分が惚れた女を疑う自分が嫌いだった。
疑うこと自体は必要だ。百鬼夜行の頭として、篝火家の当主として、先祖返り会の第一位に立つ者として、疑わずに生きてこられるほど赫臣の世界は甘くない。人は笑顔で裏切る。妖は泣きながら喰らう。華族は品よく嘘をつき、退魔師は正義の名で封じる。鵺喰家など、その見本市のような家だった。
だから、証拠を疑う。
証言を疑う。
人の表情を疑う。
都合よく並びすぎたものを疑う。
それは生きる技術だった。
だが、深雪乃へ向ける疑いだけは、喉の奥へ刃を突っ込まれるような味がした。
赫臣は、夜の離れで一人、紙片を見ていた。
深雪乃は隣室で眠っている。眠っていると言っても、浅い眠りだ。彼女はこのところ、まともに深く眠れていない。眠ったと思えば、母の鏡を抱く手に力が入る。眉が寄る。唇が何かを言いかける。名前のない不安が、眠りの中まで追ってくるのだろう。
本当なら、今すぐそばへ行き、抱きしめて、髪を撫でて、眠るまで声をかけたい。
だが、今はその前に見なければならないものがある。
祈祷部屋から回収された記録。
夜岐襲撃現場の見取り図。
蓮台の聞き取り書き。
砂笙がまとめた霊的痕跡の覚え書き。
白絹が残した、深雪乃の中にある力についての短い所見。
それらを並べると、証拠は嫌なほど深雪乃の周囲へ寄っていた。
赫臣は、紙片の端を指で押さえた。
最初は喜周だった。
北蔵。
封印蔵。
赫臣の霊糸に似せた無数の切創。
母の髪飾りの欠片。
赫臣へ疑いを向けるような偽装でありながら、同時に深雪乃の母の遺品を死体のそばへ置いた。封印蔵には母の遺品があり、遺言書と北蔵開封が事件の発端だった。
次は祢々。
井戸端。
水責めの幻。
口元と袖だけ濡れた遺体。
袖には母の鏡を清める塩が混ざっていた。
祢々は、深雪乃への使用人側の加害を管理していた。母の遺品を扱い、隠し、蔵や文箱の管理にも関わっていた女だ。
頼成。
客間密室。
化け猫の爪痕に見せた五本傷。
夜岐へ疑いを向ける偽装。
畳の下から出た、母のブレスレットの割れ玉。
頼成は北蔵や古い目録に詳しそうだった。遺品に関わる何かを知っていた可能性がある。
兼継。
桜の根元。
矢で射抜かれたような傷。
だが矢はない。
破魔術を模した霊具。
桜に結ばれた母の着物の糸。
白い髪。
兼継は、母の白藤色の着物を裂かせた男だった。
玄磊。
祈祷部屋。
山本五郎左衛門の家紋。
反転された護符。
破れて散らばった記録。
宵待澄子、胎内、器、鍵、白き客人。
深雪を返すな。
鵺喰に返すな。
鬼に渡すな。
そして夜岐。
死ななかった姉。
隠し廊下。
古い猫道。
母の遺品を思わせる痕跡。
沈丁花の香り。
白藤色の糸。
鈴の音。
蒼い目の白い女。
まだ返さない。
すべてを並べると、中心に深雪乃がいる。
母の娘。
不死身の身体。
母の遺品に反応する女。
鏡に遺響を映す女。
櫛から声を聞く女。
井戸端の石から紙を破る音を聞いた女。
死体のそばで、冷えた顔をしても手が震えない女。
白絹に、通常の霊力とも妖気とも違うものを感じ取られた女。
玄磊に、器ではなく鍵と言われた女。
赫臣は、紙を睨んだ。
馬鹿げている。
深雪乃が殺しているはずがない。
そう思う。
心の底から。
彼女が母の遺品を使って、鵺喰家の者を一人ずつ殺しているなど、あり得ない。深雪乃は自分の痛みを雑に扱うほど鈍くなっている時がある。冷静すぎて、こちらの心臓が冷えることもある。だが、人を弄んで殺す女ではない。
夜岐を憎んでいながら、死ななくてよかったと思う女だ。
自分を虐げた使用人たちに対しても、勝ち誇った笑みを浮かべない女だ。
喜周の死にも、祢々の死にも、頼成の死にも、兼継の死にも、玄磊の死にも、深雪乃は勝者の顔などしなかった。
だから、あり得ない。
深雪乃が関わっているはずがない。
だが。
赫臣の頭の端が、勝手に動く。
では、なぜ。
なぜ、母の遺品は深雪乃の周りで目覚める。
なぜ、深雪乃は遺響を聞く。
なぜ、死体のそばに置かれる遺品は、いつも深雪乃の記憶を抉るものばかりなのか。
なぜ、玄磊は死の直前に深雪乃を鍵と呼んだ。
なぜ、白い女は夜岐を殺さず、深雪乃の心を揺らすような証言を残した。
なぜ、白き客人の記録に、篝火への報せを禁ずとある。
なぜ、白い髪と蒼い目が、深雪乃の出生の周囲に現れる。
なぜ、深雪乃の身体は死を押し戻されるように生きている。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
疑いではない。
そう言い張りたかった。
だが、問いは疑いの形をしている。
赫臣は、紙片を握り潰しそうになり、寸前で指を止めた。
証拠だ。
壊せば砂笙に怒られる。蓮台にはもっと冷たい目で見られる。深雪乃には、隠し事の次は証拠破壊ですか、と刺されるだろう。
想像しただけで、胸が苦くなった。
深雪乃は、刺す。
静かに、鋭く。
疑っている顔で愛を囁くのは、器用ですね。
隠し事をしている時のあなたは、口づけが多い。
そうやって口で塞げば済むと思わないでください。
どれも、赫臣の胸に残っている。
どれも、その通りだった。
赫臣は、深雪乃を愛している。
それは疑いようがない。
初めて雨の帝都で見た時、血に濡れて倒れながらも風呂敷を離さなかった姿に惚れた。抱き上げた時、小さくて軽くて、けれど目だけは折れていなかった。鵺喰家へ戻り、母の遺品に触れ、死体を見て、幻術に壊れ、背の傷を見せ、夜の部屋で震え、昼の部屋で文句を言い、写真館で形に残ることに戸惑った。
その全部に、惚れている。
可愛い。
大好きだ。
愛してる。
お前しかいない。
言葉は、いくらでも出る。
だが、その言葉の奥に、今は苦いものが混じっている。
守りたい。
離したくない。
疑いたくない。
疑いそうになる自分を殺したい。
真実が深雪乃を自分から奪うかもしれない。
深雪乃の中にあるものが、自分を壊すかもしれない。
白絹の言葉が、まだ耳に残る。
あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない。
壊されるなら構わない、などと言う気はなかった。
そんな綺麗な諦めを、赫臣は持っていない。
壊れたくない。
深雪乃も壊したくない。
だが、離す気もない。
欲深い。
身勝手だ。
分かっている。
分かっていても、手放せるわけがない。
赫臣は紙片を机に戻し、立ち上がった。
隣室へ向かう。
障子の前で、少しだけ足を止めた。
深雪乃は眠っているだろうか。
そう思ったが、すぐに違うと分かった。
障子越しに、浅い呼吸が聞こえる。眠りの呼吸ではない。起きている。何かを考えている時の静けさだ。
赫臣は、障子を開けた。
深雪乃は布団の上に座っていた。
母の鏡を膝に置き、黒髪を肩へ流している。行灯の薄い光の中で、その白い肌は少し青く見えた。赤みを帯びた瞳が、赫臣を見上げる。
「眠れなかったのか」
「眠っているように見えますか」
「見えねえ」
「では、聞かないでください」
いつもの返しだった。
だが声は少し疲れている。
赫臣は近づいた。
深雪乃の隣へ座る。
距離を詰める。
深雪乃はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「近いです」
「知ってる」
「知っているなら」
「近くにいたい」
深雪乃は黙った。
赫臣は、その沈黙を都合よく受け取らないようにした。今の自分は、都合よく受け取りたがっている。深雪乃が嫌がらないならいい、拒まないならいい、襟を掴むならいい。そうやって、また口づけで何かを塞ごうとする。
分かっている。
分かっていても、赫臣は深雪乃の頬へ手を伸ばした。
「触るぞ」
深雪乃の目が、わずかに揺れる。
それから、小さく言う。
「どうぞ」
許可が出た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
赫臣は、深雪乃の頬に触れた。
冷たい。
その冷たさが怖かった。
彼女の身体は生きている。死を押し戻されるように生きている。だが、指先や頬が冷えるたび、赫臣は不安になる。深雪乃がどこか知らない場所へ引かれているような気がする。
「冷たい」
「冬ではありません」
「お前が冷たい」
「いつもよりは温かいと思います」
「俺が見る」
「診断のように言わないでください」
赫臣は、返事の代わりに額へ口づけた。
短く。
深雪乃の睫毛が揺れる。
「赫臣様」
「何だ」
「今のは、何の口づけですか」
胸が痛んだ。
見抜かれている。
深雪乃は、もう赫臣の口づけを分類し始めている。愛情の口づけ、不安を塞ぐ口づけ、隠し事の口づけ、確認の口づけ。こちらが隠そうとしても、彼女は気づく。
赫臣は答えなかった。
その代わり、頬へ口づけた。
「可愛い」
深雪乃の眉が少し寄る。
「答えになっていません」
「可愛い」
もう一度言う。
唇の端へ触れる。
深雪乃は、逃げなかった。
「大好きだ」
赫臣は囁く。
ちゅ、と短い音がした。
深雪乃の呼吸が少し乱れる。
「愛してる」
今度は、もう少し長く。
唇を重ねる。
深雪乃の手が、布団の上で小さく動いた。赫臣の袖を掴むか迷った手。赫臣はそれを見逃さない。見逃せるはずがない。その手を取り、指を絡める。
「お前しかいない」
言葉が、唇のすぐそばで落ちる。
深雪乃は目を閉じかけ、また開いた。
「……多いです」
「何が」
「言葉も、口づけも」
「足りねえ」
「あなた基準では、何も足りません」
「深雪だからな」
「便利に使わないでください」
赫臣は、また口づけた。
今度は、少し深い。
深雪乃の言葉が途切れる。
行灯の火が、畳の上で小さく揺れる。外の廊下は静かで、夜の鵺喰家は息を殺している。屋敷中が怪異の腹の中のようだった。だが、この部屋の中だけは、赫臣の腕と、深雪乃の呼吸と、唇の熱があった。
それでも、苦い。
赫臣自身が分かっていた。
今、自分は愛しているから口づけている。
同時に、疑いを潰したくて口づけている。
深雪乃が自分の腕の中にいることを確かめたくて、何度も何度も触れている。
深雪乃が、ゆっくり唇を離した。
赫臣の胸元に手を置く。
押し返すほど強くはない。
だが、止める手だった。
赫臣は止まった。
深雪乃は、彼を見上げる。
赤みを帯びた瞳が、行灯の光を受けて静かに揺れていた。
「赫臣様」
「何だ」
「あなたの愛は、時々とても苦い」
赫臣の喉が詰まった。
その言葉は、刃ではなかった。
少なくとも、前のように刺すためだけの言葉ではない。
だが、胸の奥を深く切った。
愛が苦い。
その通りだった。
赫臣は、深雪乃を甘やかしたい。笑わせたい。抱きしめたい。写真を残したい。可愛いと言いたい。大好きだと、愛してると、お前しかいないと何度でも言いたい。
だが、その愛の中に疑いへの嫌悪が混じる。
恐怖が混じる。
隠し事が混じる。
深雪乃を離したくないという、身勝手な所有欲が混じる。
甘いだけではない。
苦い。
深雪乃は、それを感じ取っている。
赫臣は、深く息を吐いた。
「悪い」
「謝罪を求めたわけではありません」
「じゃあ、何を」
「分かってほしいのです」
深雪乃は、静かに言った。
「あなたの口づけが嫌なわけではありません」
赫臣の心臓が、一度強く鳴った。
深雪乃は続ける。
「言葉も、嬉しくないわけではありません。可愛いも、大好きも、愛しているも、お前しかいないも。言われすぎると困りますが」
「困るのか」
「困ります」
「嫌じゃねえんだな」
「そこで調子に乗らないでください」
赫臣は黙った。
深雪乃は、その沈黙を確認してから続ける。
「ただ、その中に何かが混じっている時があります。疑いを消したい時。隠し事を隠したい時。不安を私に悟られたくない時。そういう時のあなたの愛は、苦い」
赫臣は、目を伏せた。
逃げたい。
そんな自分を自覚して、さらに嫌になる。
だが、逃げれば深雪乃はもっと傷つく。
赫臣は、低く言った。
「疑ってるわけじゃねえ」
言った瞬間、自分の言葉が足りないと分かった。
深雪乃は目を細める。
「では、何ですか」
赫臣は答えを探した。
深雪乃を疑っていない。
いや、疑いたくない。
違う。
もっと正確に言え。
赫臣は、自分の中の苦さを無理やり言葉にした。
「お前が殺したとは思ってねえ」
深雪乃は黙っている。
「お前が誰かを操ってるとも思ってねえ。お前が母親の遺品を使って、鵺喰の連中を殺してるとも思ってねえ。そこは、疑ってねえ」
「そこは」
「……証拠が、お前へ寄ってる」
赫臣は、ようやく言った。
「母親の遺品、白い影、白き客人、記憶の空白、事件現場でのお前の反応。不死の身体。全部が、お前の周りへ寄ってる。俺はそれを見て、なぜだって思う。どうしてお前の近くばかりに置かれる。どうしてお前の心を抉る形で起きる。どうしてお前が鍵と呼ばれる。どうして」
言葉が途切れる。
深雪乃は、じっと聞いていた。
赫臣は、自分の声が荒れているのを感じた。
「その『なぜ』が、お前には疑いに見える」
「見えます」
「そうだな」
「見えない方がおかしいと思います」
「ああ」
「でも」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「今は、言ってくれましたね」
赫臣は彼女を見る。
「何を」
「疑っているのではなく、なぜと考えていることを」
深雪乃の声は静かだった。
「それなら、刺す場所が変わります」
「刺すのは確定か」
「必要なら」
赫臣は、苦く笑った。
少しだけ、胸の苦さが別の形に変わる。
深雪乃は怒っている。
傷ついている。
怖がっている。
それでも聞いている。
赫臣の言葉を待っている。
そのことが、どうしようもなく愛しかった。
「可愛い」
思わず言った。
深雪乃の眉が寄る。
「今の流れで?」
「可愛い」
「言い直しても同じです」
「大好きだ」
「増やさないでください」
「愛してる」
「さらに増やさないでください」
「お前しかいない」
深雪乃は、困ったように息を吐いた。
だが、今度はその言葉に苦さだけを聞いてはいない顔だった。
赫臣は、慎重に彼女を抱き寄せた。
「確認する」
先に言った。
深雪乃の目が少し揺れる。
それから、彼女は小さく頷いた。
「痛くしないでください」
「しねえ」
赫臣は、深雪乃を抱きしめた。
強くではなく、深く。
背の傷を避け、肩を包み、彼女の頭を自分の胸へ寄せる。深雪乃の手が、ゆっくり赫臣の襟を掴んだ。離れないために。以前、彼女がそう言ったことを赫臣は覚えている。
襟を掴む指先が、少し冷たい。
赫臣はその手を包みたかった。
だが今は、抱く方を優先した。
「深雪」
「はい」
「俺は、お前を疑いたくねえ」
「はい」
「でも、なぜとは考える」
「はい」
「それを隠したら、またお前を傷つける」
「そうですね」
「だから、言う」
「お願いします」
「でも、苦くなる」
深雪乃は、赫臣の胸元で少しだけ息を吐いた。
「苦いなら、苦いと言います」
「刺すのか」
「必要なら」
「手厳しいな」
「あなたが隠すからです」
「悪い」
「謝罪は聞きました」
深雪乃の声は少し柔らかかった。
赫臣は、彼女の髪へ口づけた。
短く。
隠すためではなく、確認のためでもなく、ただ触れたいと思ったから。
深雪乃が、すぐに言う。
「今のは?」
赫臣は答えた。
「好きだから」
深雪乃は、しばらく黙った。
それから、赫臣の襟を掴む指に少しだけ力を込めた。
「それなら、まだ苦くありません」
胸が、熱くなる。
赫臣は、もう一度髪に口づけた。
「可愛い」
「それは少し苦くなりそうです」
「何でだ」
「調子に乗りそうだからです」
「もう乗ってる」
「降りてください」
「無理だ」
深雪乃は、呆れたように小さく息を吐いた。
だが、襟を離さなかった。
赫臣は、その小さな事実を胸の奥で何度も確かめた。
証拠は深雪乃へ近づいている。
白い影も、母の遺品も、被害者たちの共通点も、祈祷部屋の記録も、不死の謎も、すべて彼女の周りへ集まっている。
赫臣は、これからも「なぜ」と考えるだろう。
考えなければならない。
だが、それを疑いの顔で愛の言葉に隠すことだけは、もうしたくなかった。
深雪乃の愛は、甘いだけでは受け取れない。
苦ければ、苦いと言う女だ。
赫臣は、その鋭さごと、どうしようもなく愛していた。
「大好きだ」
低く言う。
深雪乃が、胸元で返す。
「聞こえています」
「愛してる」
「それも、聞こえています」
「お前しかいない」
「……それも」
声が少しだけ小さくなる。
赫臣は、深雪乃の頭に頬を寄せた。
「苦いか」
聞くと、深雪乃は少し考えた。
「少し」
正直だった。
赫臣の胸が痛む。
だが、深雪乃は続けた。
「でも、今夜は飲み込めます」
その言葉が、赫臣にはどうしようもなく深く刺さった。
甘く、苦く。
彼は深雪乃を抱きしめたまま、夜の中で目を閉じた。




