第36話 夜岐襲撃のトリック解説
夜岐が襲われた廊下は、朝の光の中でも薄暗かった。
夜の青白い行灯の揺らぎは消えている。だが、板張りの廊下には、まだ昨夜の気配が残っていた。篝火家の従者が倒れていた場所には薄く印が置かれ、蓮台の部下が膝をついていた壁際にも、白い紙片が貼られている。夜岐が倒れた場所には、細い黒い痕が板の目に沿って残っていた。
血の跡はない。
死体もない。
それなのに、そこはこれまでの殺害現場と同じくらい重かった。
深雪乃は、赫臣の隣でその廊下に立っていた。
夜岐は生きている。
首元に黒い痕を残し、手首に青黒い痣を残し、熱に浮かされながら「白い女」と怯えている。それでも、生きている。
その事実が、昨夜から深雪乃の胸の中で何度も揺れていた。
夜岐を憎んでいる。
許していない。
母の櫛を折ったこと、白藤色の着物を笑ったこと、使用人に命じたこと、蔵へ閉じ込めたこと、どれも消えない。
けれど、死ななくてよかったと思った。
その矛盾は、今も消えていない。むしろ、朝になって少し輪郭を持った。憎しみと安堵は、同じ胸の中に同居できる。ひどく狭苦しい同居である。心という器は、どうしてこうも面倒な住人ばかり受け入れるのか。
赫臣は、昨夜から深雪乃をよく抱きしめる。
今朝もそうだった。
夜岐の部屋から戻った後、彼は深雪乃を離れの部屋へ連れ帰り、何も言わず抱きしめた。口づけようとはしなかった。ただ、深雪乃の背を包み、頭を胸に押し当て、自分の腕の中にいることを確かめるように抱いた。
その手が震えていた。
深雪乃は、忘れられない。
今も彼は近い。手は繋いでいないが、深雪乃の肩へいつでも触れられる位置にいる。怒りではない。警戒だけでもない。深雪乃を確認するような距離だった。
蓮台は、廊下の床を調べていた。
砂笙は壁際の柱と天井近くを見ている。白絹も来ていた。彼女は廊下の角に立ち、昨夜、夜岐が白い女を見たという方向を静かに見つめている。
使用人たちは遠巻きにされている。
小鈴も、佐助も、お咲も顔色が悪い。夜岐が生き残ったことで、彼らはますます怯えた。死体ならば、死者に罪を押しつけることもできる。だが生存者は喋る。夜岐は「白い女」と言った。小鈴たちは「鈴の音」を聞いた。お千代という下女は白い着物のような影を見たという。
屋敷の中で、噂はすでに広がっていた。
白い女。
白い髪。
蒼い目。
沈丁花の香り。
白藤色の糸。
母の霊ではないか。
別の何かではないか。
誰も口に出しきらないが、誰もが考えている。人は怖いものほど黙って考える。黙っている分、勝手に育つ。噂というものは、餌をやらなくても肥える。迷惑な生き物である。
蓮台が、廊下の板と柱の境目を指した。
「ここだ」
砂笙が頷く。
「やはり、動きますね」
赫臣が目を細めた。
「何がある」
蓮台は、柱の根元に指をかけた。
ただの柱に見えた。黒ずんだ古い木で、廊下の壁を支えている。だが、蓮台が根元の細い溝に指を入れ、横へわずかに押すと、柱の一部が鈍い音を立てて動いた。
壁が、細く開く。
深雪乃は息を止めた。
そこには、人一人が横向きで通れるほどの隙間があった。
暗い。
冷たい空気が、奥から流れてくる。
古い木と埃と、獣の通った匂いが混ざっていた。
「隠し廊下だ」
蓮台が言った。
「母屋の西側から、夜岐の部屋近くへ抜ける。外から見れば壁と柱だが、中は細く通っている」
深雪乃は、その暗い隙間を見つめた。
鵺喰家には、こんな道があったのか。
知らなかった。
もちろん、深雪乃には知らされないだろう。妾腹の娘に屋敷の構造を教える必要はない。蔵に閉じ込める時だけ、出口を知らせないのは得意だったくせに。家というものは、隠したいものほど上手に隠す。
砂笙が、隠し廊下の入り口に灯りを向ける。
「内側の壁に、古い爪痕がございます。猫科の先祖返りが通るための目印かと」
蓮台が短く言う。
「猫道だな」
赫臣が低く呟く。
「夜岐の道か」
「おそらく」
砂笙は、灯りをさらに奥へ向けた。
「この隠し廊下は人がまっすぐ歩くには狭い。ですが、化け猫の先祖返りである夜岐様なら、身体を低くして通れるでしょう。古い屋敷には、猫又や化け猫の血筋のために、こうした抜け道が作られることがございます。表向きは隠し廊下、内側は猫道です」
白絹が、薄く目を細めた。
「夜岐さんしか知らない道、というわけですわね」
蓮台は頷いた。
「少なくとも、今の鵺喰家で日常的に使っていたのは夜岐だけだろう。夜岐本人も、昨夜の聞き取りでそう言っている」
深雪乃は眉を寄せた。
「姉上が、自分を襲うために使わせたということですか」
「その可能性も、形式上は残る」
蓮台は淡々と言う。
「自作自演の襲撃。自分への疑いをそらすために、白い女の噂を作る。だが、首の痕と手首の痣は本物だ。命を落とさない程度に襲わせたとしても、危険が大きすぎる。加えて、篝火家の従者と俺の部下まで無力化されている。夜岐一人で仕組むには、協力者が必要だ」
赫臣が冷たく言った。
「夜岐にそこまでの度胸はねえ」
深雪乃は、彼を見た。
赫臣は夜岐を庇っているわけではない。侮っている。だが、その侮りは的確にも思えた。
夜岐は残酷だった。
嘘もついた。
使用人を操り、深雪乃を虐げ、相続工作にも関わった。
けれど、自分の首を締めさせ、手首を拘束させ、意識を失うほどの襲撃を演じきる度胸があるかと言われれば、深雪乃にも違う気がした。夜岐は他人を傷つけることには慣れている。自分が傷つくことにはひどく弱い。
蓮台も否定しなかった。
「俺も、自作自演の可能性は低いと見る」
白絹が、隠し廊下の暗がりを覗いた。
「問題は、犯人がこの道を知っていたことですわね」
砂笙が頷く。
「ええ。夜岐様しか知らないはずの道を、犯人は通っております」
「足跡は」
赫臣が聞く。
蓮台は隠し廊下の床へ灯りを向けた。
「はっきりとは残っていない。床が乾いているうえ、埃が一度払われている。だが、壁の低い位置に擦れがある。人が通ったなら、衣や肩が触れた跡だ」
砂笙が、壁から細いものを取った。
白藤色の糸だった。
昨夜、廊下の現場でも拾われたものと同じ色。
深雪乃の胸が冷える。
「また」
「はい」
砂笙は慎重に白い紙へ載せた。
「母君の着物の糸を思わせます。ただ、こちらは現場に落ちていたものより新しく見えます。古い着物から裂かれたものには違いないでしょうが、湿気や土の付着が少ない」
白絹が言う。
「道標として置いたのかもしれませんわ」
桜の根元の殺人。
桜に結ばれた母の着物の糸が、兼継を呼び寄せる道標になっていた。
今度は、隠し廊下の中にも糸がある。
赫臣の目が険しくなる。
「犯人がこの道を知らなかったとしても、糸で導かれた可能性があるってことか」
「知識ではなく、霊的な導きで進んだ可能性はあります」
砂笙が言った。
「この白藤色の糸には、かすかに遺響が残っております。強い術ではございません。ですが、母君の遺品と似た気配を辿れる者であれば、この糸を道標にできたかもしれません」
蓮台は眉を寄せる。
「つまり、二通りある。犯人が夜岐の猫道を知っていた。あるいは、知らなかったが霊的な導きで進んだ」
「はい」
砂笙は頷く。
「前者なら、鵺喰家内部の者か、夜岐様の行動を長く見ていた者。後者なら、母君の遺品、あるいは白い髪の主に関わる力を辿れる者」
深雪乃は、隠し廊下の奥を見た。
暗い道。
夜岐だけが知っていたはずの道。
そこを白い影が通ったのか。
人が通ったのか。
霊的な導きに従って、誰かが迷わず進んだのか。
廊下の奥から、冷たい空気が流れてくる。
まるで、屋敷の内側に隠れていた喉が、今になって息を吐いたようだった。
蓮台が部下へ合図する。
「奥を調べる。灯りを増やせ。板を踏み抜くな」
部下たちが慎重に隠し廊下へ入っていく。
しばらくして、奥から声がした。
「蓮台様、こちらに抜け口があります」
「どこだ」
「夜岐様のお部屋の押し入れの裏です」
夜岐の部屋。
深雪乃は、思わず赫臣を見た。
赫臣の顔も硬い。
夜岐の部屋の押し入れ裏へ抜ける猫道。
犯人は、そこから出入りできた。
つまり、夜岐の部屋へも、廊下へも、監視の目を避けて近づけたことになる。
蓮台は低く言った。
「監視がいても、表の廊下を通る必要がないわけか」
砂笙が眉をひそめる。
「篝火家の従者が倒された位置も、隠し廊下の出口に近い。つまり犯人は、出口から現れ、従者と蓮台様の部下をほぼ同時に無力化し、夜岐様を襲った」
白絹が言う。
「そして、再び猫道へ逃げた。白い女の姿を見せ、鈴の音を残し、沈丁花の香りを残して」
蓮台が、壁際の細い傷を見つめた。
「うまくできすぎている」
「ええ」
白絹は静かに頷く。
「本当に霊なら、ここまで人間の恐怖を計算したように動く必要はありませんもの」
深雪乃は、白絹を見た。
「では、人の仕業だと?」
「断定はしません」
白絹の返事は慎重だった。
「この屋敷の事件は、人為的な偽装と本物の霊的な気配が混ざっています。夜岐さんを襲ったものも、すべてが人の仕業とも、すべてが霊の仕業とも言えません」
蓮台も頷く。
「隠し廊下の発見で、人為的な侵入経路は説明できる。だが、白い影、蒼い目、鈴の音、沈丁花の香り、糸の遺響はまだ残る。犯人が演出したのか、本当に何かを伴っているのかは別だ」
蒼い目。
深雪乃は、その言葉に眉を寄せた。
「蒼い目?」
蓮台がこちらを見る。
「夜岐が意識を戻した。まだ短いが、少し聞けた。昨夜は白い髪と言ったが、今朝はもう少し具体的に話した」
深雪乃の胸が鳴る。
「姉上は、何と」
蓮台は、静かに言った。
「蒼い目の白い女を見た、と」
蒼い目。
白い女。
深雪乃の身体の奥が、冷たく脈打った。
母の目は、深雪乃の記憶の中では暗い色だった。黒に近い、柔らかな瞳。病に痩せた遺響の中でも、母の目は深く沈んだ暗色だった。
蒼い目ではない。
赫臣の目は蒼い。
深雪乃の右目はスノーブルーではない。いや、この作品の深雪乃は赤みを帯びた瞳だ。母にも蒼い目の印象はない。
では、蒼い目の白い女とは誰なのか。
白絹が、深雪乃の表情を読んだように言った。
「母君の霊と断定するには、目の色が合いませんわね」
砂笙も頷く。
「白い髪、白い着物、沈丁花の香りは母君へ連想させます。しかし蒼い目は、澄子様のものとは一致しない」
赫臣の顔が、わずかに強張った。
深雪乃は、それを見逃さなかった。
「赫臣様」
呼ぶと、赫臣はすぐには答えない。
その沈黙だけで、深雪乃はまた胸の奥に冷えを感じた。
「蒼い目に、心当たりがおありですか」
「……あるような、ねえような」
曖昧な答えだった。
深雪乃は目を細める。
「たいへん珍しい答え方ですね」
「確証がねえ」
「白い髪の時も、同じようなことをおっしゃいました」
「今回はもっと曖昧だ」
「では、曖昧なまま教えてください」
赫臣は、深雪乃を見た。
その目は迷っている。
言うべきか、伏せるべきか。
深雪乃は、彼のその顔をもう何度も見ていた。
「また隠しますか」
赫臣の顔が苦くなる。
「隠したくねえ」
「では」
「蒼い目の白い女そのものに心当たりがあるわけじゃねえ。ただ、白い髪と蒼い目は、鵺喰でも宵待でもねえ。白き客人と呼ばれた存在の伝承に、似た断片がある」
白き客人。
祈祷部屋の記録にあった言葉。
白い髪の主。
母を愛した男に関わるかもしれない白い髪。
そこへ今、蒼い目の白い女が加わる。
深雪乃は、静かに息を吸った。
「白き客人は、女なのですか」
赫臣は首を横に振った。
「伝承によって違う。男とも女とも言われる。白い髪、蒼い目、あるいは銀の輪。人ではなく、妖でもなく、神の使いでもない。境に立つもの、って言い方をされることもある」
白絹が、静かに目を細めた。
「その話は、蘆野火にも残っておりますわ。けれど、あまり口にしない方がよろしい類の名です」
「なぜですか」
深雪乃が問うと、白絹は答える前に少しだけ間を置いた。
「名前に近づくと、こちらを見返すものがあるからです」
部屋ではない。
廊下の空気が、急に冷えたように感じた。
深雪乃は、母の鏡を懐の上から押さえる。
鏡は熱を持っていない。
それなのに、指先が冷えた。
蓮台が低く言う。
「今は伝承の話を広げすぎるな。現場の話に戻す。夜岐は蒼い目の白い女を見た。隠し廊下と猫道が使われた。母親の遺品に関わる痕跡が置かれた。犯人は夜岐しか知らない道を通ったか、霊的な導きで進んだ。少なくとも、夜岐を殺さず、生かして証言させた」
赫臣が、深雪乃の肩に触れた。
その手は静かだ。
だが、指先に少しだけ力がある。
夜岐が見た蒼い目の白い女。
母の霊なのか。
別の存在なのか。
それはまだ断定できない。
けれど、母の過去、白き客人、深雪乃の不死、鵺喰家の術、そのすべてが一つの場所へ向かっているように思えた。
隠し廊下の奥を調べていた部下が戻ってきた。
「猫道の途中に、古い札がありました」
蓮台が受け取る。
札は半分黒ずみ、文字はほとんど読めない。だが、中央にある印だけは見えた。
山本五郎左衛門の家紋。
そして、その横に小さく、白藤の花の印。
深雪乃の胸が冷えた。
砂笙が息を呑む。
「宵待の印です」
「猫道に?」
蓮台が眉を寄せる。
白絹が言う。
「鵺喰家の内部に、宵待の印を使って道を封じた跡がある。つまり、この猫道はただ夜岐さんのための抜け道ではなかったのかもしれませんわね」
深雪乃は、隠し廊下の暗がりを見る。
母は、この道を知っていたのだろうか。
白藤の印は、母のものなのか。
それとも、母に術をかけた者たちが使ったものなのか。
何も分からない。
だが、母の気配はまたここにあった。
赫臣の手が、深雪乃の肩から背へ回った。
深雪乃は、少し驚いて彼を見る。
彼の顔が近い。
怒っているわけではない。
ただ、深雪乃がどこかへ消えてしまわないように、目で確かめている。
「赫臣様」
声を出した瞬間、彼は深雪乃を抱きしめた。
強い。
深雪乃の身体が、彼の胸へ押しつけられる。
背の傷を避けているのは分かる。けれど、腕の力がいつもより強い。確認するような抱擁だった。ここにいるか。消えていないか。自分の腕の中に確かにいるか。そう確かめるための抱きしめ方。
周囲の視線が集まる。
蓮台が少し呆れた顔をした。
砂笙はため息を飲み込んだ顔をしている。
白絹は何も言わなかった。
深雪乃は、赫臣の胸元で息を詰めた。
「痛いです」
赫臣の腕が、はっとしたように少し緩む。
「悪い」
けれど、完全には離れない。
深雪乃も、離れなかった。
むしろ、赫臣の着物を指で掴んだ。
痛い。
確かに痛かった。
だが、その痛みは、深雪乃を今この場所へ繋ぎとめるものでもあった。蒼い目の白い女。白き客人。宵待の印。猫道。霊的な導き。自分の足元がまた崩れそうになる中で、赫臣の腕だけが確かな重さを持っていた。
「痛いなら離せ」
蓮台が当然のように言った。
赫臣は低く返す。
「離してる」
「離してない」
「緩めた」
「同じではない」
砂笙が静かに言う。
「旦那様、深雪乃様の骨格は華奢でいらっしゃいます。確認行為にしては力加減がやや乱暴でございます」
「分かってる」
赫臣の声は苦い。
深雪乃は、胸元から顔を上げた。
「分かっていることが多いのに、改善が」
「遅いんだろ」
「はい」
「悪い」
「謝罪も多いです」
「それは本当に悪いと思ってる」
深雪乃は、少しだけ息を吐いた。
赫臣の腕はまだ深い。
しかし、今度は痛くない。
「なぜ、そんなに確かめるのですか」
深雪乃が問うと、赫臣はすぐには答えなかった。
廊下の暗がり、隠し廊下の入口、白藤色の糸、宵待の印。それらを見てから、低く言う。
「お前が、あの道に呼ばれそうで怖い」
深雪乃の胸が、静かに冷えた。
「あの道に?」
「ああ。夜岐が襲われた道だ。けど、あれは夜岐だけの道じゃねえかもしれねえ。宵待の印がある。白藤の糸がある。白い女の証言がある。白き客人の話も絡んでる」
赫臣の腕が、わずかに強くなる。
「深雪、お前を呼ぶための道にも見える」
深雪乃は、隠し廊下の暗がりを見た。
確かに、奥から冷たい空気が流れている。
白藤色の糸。
宵待の印。
母の気配。
深雪乃に関わるものが、そこにはある。
夜岐を襲った事件は、夜岐だけのものではない。
深雪乃をその道へ向かわせるためのものかもしれない。
その考えに、喉が乾いた。
「呼ばれたら、行くと思いますか」
深雪乃が問うと、赫臣は彼女を見た。
「行くだろ」
即答だった。
深雪乃は少しむっとする。
「決めつけです」
「違うか」
違わなかった。
母の気配があるなら、深雪乃は行くだろう。
自分の出生に繋がるなら、行く。
不死の謎に触れるなら、怖くても行く。
赫臣の手を振り払ってでも行くかどうかは、今は分からない。だが、見ないふりはできない。
深雪乃は黙った。
赫臣は、その沈黙を答えとして受け取ったらしい。
「だから怖い」
声が低い。
「お前は、自分が壊れるかもしれねえ場所にも行く。真相があるなら、血の上でも、祈祷部屋でも、猫道でも行く。俺が止めても、たぶん行く」
「止め方によります」
「止められるか?」
「分かりません」
「正直だな」
「嘘をついても、あなたには顔で分かるのでしょう」
「分かる」
赫臣は、深雪乃の髪へ顔を寄せた。
「だから、抱く。ここにいるって確かめる」
「痛いほど?」
「痛くしない」
「先ほど痛かったです」
「悪い」
「次は、先に言ってください」
「何を」
「確認します、と」
赫臣は、少しだけ目を見開いた。
深雪乃は、彼の胸元を掴んだまま続ける。
「そうしたら、こちらも身構えます」
赫臣の顔が、ゆっくり苦く崩れる。
「逃げるんじゃなくて?」
「今のところは」
「今のところか」
「調子に乗らないでください」
「乗れねえよ」
赫臣は、本当に苦しそうに笑った。
それから、深雪乃の耳元で低く言った。
「確認する」
深雪乃は、息を止めた。
赫臣の腕が、もう一度深くなる。
今度は痛くない。
けれど、しっかりと包まれる。背中を避け、肩を包み、深雪乃の頭を自分の胸元へ寄せる。周囲の目も、蓮台の呆れも、砂笙の胃痛も、白絹の静かな視線も、今の赫臣は気にしていない。
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「人前です」
「知ってる」
「また、それです」
「今は許せ」
「許すとは言っていません」
「じゃあ、拒むか」
深雪乃は、赫臣の着物を掴む指に少しだけ力を込めた。
「……痛くなければ」
赫臣の息が、わずかに止まる。
次の瞬間、彼の腕から余計な力が抜けた。
ただ、深く抱く力だけが残る。
深雪乃は、その腕の中で隠し廊下の暗がりを見た。
蒼い目の白い女。
母の霊なのか、別の存在なのか。
まだ分からない。
ただ、その存在は夜岐を殺さず、生きた証人にした。
夜岐しか知らないはずの猫道を通り、あるいは霊的な導きで進み、母の遺品を思わせる痕跡を残した。
そして、深雪乃を呼ぶような道を開いた。
深雪乃は、赫臣の胸に額を寄せた。
怖い。
けれど、見なければならない。
その二つは、今日も同時に胸の中にあった。
蓮台が、隠し廊下の入口を見ながら言った。
「猫道は封鎖する。だが、調査は続ける。夜岐の証言も取り直す。白い女、蒼い目、鈴の音、白藤の糸、宵待の印。どれも祈祷部屋の記録と繋がる可能性がある」
白絹が静かに言った。
「母君の霊か、別の存在か。今はまだ断定できませんわね」
深雪乃は、赫臣の腕の中で頷いた。
断定できない。
それでも、近づいている。
母の過去へ。
白き客人へ。
深雪乃の不死の謎へ。
そして、蒼い目の白い女が見ている場所へ。
赫臣の腕が、またわずかに深くなる。
今度は痛くなかった。
深雪乃は離れようとしなかった。
ただ、隠し廊下の暗がりから目を逸らさなかった。




