第35話 殺されなかった姉
夜岐は、死ななかった。
その事実は、鵺喰家の夜に奇妙な穴を開けた。
喜周は死んだ。
祢々も死んだ。
頼成も、兼継も、玄磊も死んだ。
死体はいつも、意味を持つ場所に置かれていた。北蔵、井戸端、客間、桜の根元、祈祷部屋。母の遺品と、鵺喰家の古い罪と、深雪乃の過去に関わる場所ばかりだった。
だから、夜岐が廊下で黒い影に絡め取られた時、誰もが一瞬、次の死を覚悟した。
深雪乃もそうだった。
夜岐が母の櫛を折ったことを認めた直後だった。使用人へ命じたこと、食事抜き、蔵閉じ込め、遺品破壊、相続工作の一部。夜岐は多くを認め、けれど連続殺人は本気で否定した。深雪乃は、夜岐の怯えが演技ではないことに気づきかけていた。
その直後、夜岐は襲われた。
首に黒い影のようなものが絡み、手首も動きを奪われ、廊下の行灯が青白く揺れた。彼女は何もない空間を見上げ、「白い髪」と言い残して意識を失った。
普通なら、死んでいたはずだった。
これまでの流れなら。
だが、夜岐は生きていた。
篝火家の従者と蓮台の部下が運び込んだ部屋で、夜岐は布団に寝かされていた。首元には黒く細い痕が残り、手首には影が絡んだような青黒い痣がある。呼吸は浅く、熱もある。意識は途切れがちだった。
けれど、生きている。
それだけで、屋敷の空気はさらに歪んだ。
死者が出ることに慣れ始めていた者たちは、今度は死ななかったことに怯えている。まったく忙しいことである。人は死んでも怯え、生き残っても怯える。恐怖の勤勉さだけは褒めてもいい。
深雪乃は、夜岐の寝かされた部屋の入口に立っていた。
部屋の中には薬湯の匂いと、血ではない苦い薬草の匂いが漂っている。行灯の火は通常の色に戻っていたが、廊下で見た青白い揺らぎが目の奥にまだ残っていた。畳の上には、治療に使った布と水桶が置かれている。篝火家の者が用意した清めの水には、微量の塩が混ぜられていた。
夜岐の首元を見た時、深雪乃の胸は奇妙に冷えた。
姉。
深雪乃を虐げた人。
母の遺品を壊した人。
人前で美しい姉を演じ、陰で深雪乃を笑った人。
その夜岐が、今は弱々しく布団の中で息をしている。顔は血の気を失い、髪は乱れ、いつもの艶やかな美しさはほとんど残っていない。化け猫の先祖返りとしての気配も弱っていた。指先にわずかに伸びかけた爪が、怯えたまま戻りきらずに震えている。
深雪乃は、夜岐を憎んでいる。
それは、消えない。
櫛を折られた日の音も、母の着物を笑われた日の声も、蔵の中で聞いた外の足音も、全部覚えている。夜岐が笑った顔も、母のものを踏みにじった手も、覚えている。
それなのに。
死ななくてよかった。
そう思ってしまった。
その感情が、深雪乃の胸を一番戸惑わせた。
許したわけではない。
許せるはずがない。
夜岐が死ねばよかったと思っていないことと、夜岐を許すことは違う。その違いを、自分の中で何度も確認しなければならなかった。人の心は本当に面倒だ。同じ場所に憎しみと安堵を同居させる。畳一枚に二世帯同居でもさせるつもりなのか。無理がある。
赫臣は、深雪乃のすぐ隣にいた。
彼は夜岐を見ていない。
深雪乃を見ている。
正確には、深雪乃が夜岐を見ている顔を見ている。
最近の赫臣は、深雪乃の顔を見すぎる。顔色、目の動き、手の震え、呼吸、指先の冷たさ。まるで深雪乃の不安を自分の目で拾い集めようとしているようだった。
深雪乃は、その視線に気づきながらも、夜岐から目を離せなかった。
蓮台が、部屋の中で低く言った。
「命に別状はない。だが、危なかった」
彼は医師ではないが、怪異事件の検分に慣れている。篝火家の術師が夜岐の身体を確認し、蓮台がその結果をまとめていた。
「首の痕は、玄磊の護符反転による締め上げとは違う。もっと外から絡めた痕だ。糸とも縄とも違うが、痕の形は細い」
砂笙が首元を確認しながら頷く。
「影を糸のように使ったもの、または霊糸に似せた呪的拘束でしょう。ただし旦那様の霊糸とはまったく異なります。退魔耀の焼けも、篝火家の妖気残滓もございません」
赫臣は低く言った。
「俺の糸なら、あんな中途半端な痕にはならねえ」
「威張るところではございません」
砂笙が即座に言う。
「威張ってねえ」
「旦那様の語調は、たいてい威張っております」
「今言うことか」
「今だからこそ、落ち着いていただくために申し上げております」
蓮台が無視して続けた。
「夜岐を絞め殺すつもりなら、殺せたはずだ。従者が倒され、俺の部下も一時的に動きを封じられた。あの一瞬、犯人には余裕があった」
深雪乃は、夜岐の首元を見た。
殺せた。
けれど、殺さなかった。
その言葉が、胸に落ちる。
赫臣の目が鋭くなる。
「襲った奴が途中で邪魔されたからじゃねえのか」
「可能性はある」
蓮台は認めた。
「だが、首の痕を見る限り、締め上げは途中で止まっている。赫臣が霊糸で影を切る前に、すでに力のかかり方が変わっていた。殺す直前まで締めたのではなく、意識を奪うところで止めたようにも見える」
砂笙が、夜岐の手首を指した。
「手首の痣も同じです。拘束は強かったが、骨を折るほどではない。化け猫の先祖返りを無力化するには十分ですが、殺意だけであれば首を狙うだけでよかった。手首まで封じたのは、暴れさせないため、あるいは何かを見せるためでしょう」
「何かを見せる?」
深雪乃が聞く。
砂笙は、少しだけ目を細めた。
「夜岐様は、何かを見たとおっしゃいました」
白い髪。
深雪乃の胸に、その言葉が戻る。
夜岐は倒れながら言った。
白い髪、と。
今、夜岐は浅く眠っている。額には汗が滲み、息は時折詰まる。悪夢を見ているように眉が寄る。手が布団の上で何かを掴もうとして、すぐに力を失った。
白絹は、部屋の隅で静かに見ていた。
彼女は夜岐へ同情しているようには見えない。けれど、無関心でもなかった。琥珀色の瞳が、夜岐の首の痕と、部屋の隅に置かれた小さな証拠包みを行き来している。
証拠包みの中には、廊下から拾われたものがあった。
白藤色の細い糸。
沈丁花の香りがわずかに残る紙片。
そして、櫛の歯に似た黒檀の小片。
母の遺品に関わる痕跡だった。
深雪乃は、それらを見た時、息を止めた。
白藤色の糸は、母の着物に似ている。桜の根元にもあった。沈丁花は、母の鏡の文様であり、折れた櫛から声がした時にも香った。黒檀の小片は、母の櫛を思わせる。すでに折られた櫛の欠片は深雪乃が持っているが、鵺喰家の中にはまだ別の破片が残っていたとしてもおかしくない。
夜岐を襲った者は、また母の痕跡を置いた。
けれど、夜岐は殺されていない。
蓮台が証拠包みを見ながら言った。
「これまでと同じく、母親の遺品へ連想させる痕跡がある。だが今回は死体ではなく、生存者のそばに置かれた」
白絹が静かに言う。
「生きて証言させるためかもしれませんわね」
赫臣が白絹を見る。
「白い髪を見たって証言をか」
「ええ。母君の霊や、白い影への恐怖を屋敷中に広げるには、生き残った夜岐さんの怯えは効果的です」
白絹の言葉は冷静だった。
冷静すぎて、部屋の中にいる使用人たちがさらに青ざめた。
小鈴は夜岐の部屋の外で膝をついている。
佐助も、お咲もいる。
彼らは治療の補助をさせられていたわけではない。蓮台がわざと近くに置いたのだ。夜岐が襲われた後、使用人たちの証言をすぐに取るためだった。
小鈴は、震える声で言った。
「わ、私は見ていません」
蓮台が振り返る。
「聞いていない」
「でも、本当に何も」
「まだ何も聞いていない」
小鈴は口を閉ざした。
蓮台の声は冷たい。
「今の時点で先に否定するということは、何か見たか聞いたか、隠したいことがあるということだな」
小鈴の顔がさらに白くなる。
「違います。ただ、私は」
深雪乃は、小鈴を見た。
小鈴はすぐに目を逸らした。
これまでの加害を隠そうとしていた使用人たちは、夜岐が襲われたことでますます怯えていた。夜岐が罪を認めたことで、自分たちの加害も表に出る。しかも、母の遺品に関わった者が次々に死に、あるいは襲われている。次は自分かもしれないと、彼らは恐れている。
恐れて、また隠す。
隠すことで、さらに絡まる。
救いようのない縄である。自分で首に巻いておいて、苦しくなってから騒ぐのだから、こちらとしても呆れるしかない。
蓮台は小鈴へ近づいた。
「夜岐が襲われる前、お前は廊下にいたな」
「……はい」
「何を見た」
「何も」
「足音は」
「聞いていません」
「本当に?」
「……鈴の音が」
小鈴は、そこで口を押さえた。
蓮台の目が鋭くなる。
「鈴の音」
小鈴は震えた。
「小さな音です。祈祷部屋の鈴みたいな。でも、廊下には何もなくて。夜岐様が部屋へ戻られる時、角の方から、ちり、と一度だけ」
祈祷部屋の鈴。
深雪乃は、玄磊の死んだ部屋を思い出した。
天井から垂れていた煤けた鈴。
鳴るはずのない鈴。
夜岐が襲われた時も、深雪乃は細い音を聞いた。
鈴が鳴るような音。
小鈴も聞いたのだ。
佐助が、恐る恐る口を開いた。
「私も、音は聞きました」
蓮台が視線を向ける。
「なぜ最初に言わなかった」
「気のせいだと」
「この屋敷で気のせいという言葉が役に立ったことはあるのか」
佐助は黙った。
お咲が泣きそうな声で言う。
「白い影を見たという者もいます」
部屋の中が静まる。
赫臣の目が鋭くなった。
「誰だ」
お咲は肩を震わせる。
「若い下女です。名は、お千代。夜岐様の部屋の方へ替えの湯を運んでいた時、廊下の角に白い着物のようなものが見えたと」
「白い着物」
深雪乃の声が、自分でも驚くほど低く出た。
お咲は深雪乃を見て、すぐに目を逸らした。
「はい。けれど、一瞬だったと。白い髪のようなものも見えたと言っていました。でも、顔は見ていないそうです」
白い着物。
白い髪。
鈴の音。
母の遺品に関わる痕跡。
夜岐の怯え。
すべてが、母の霊や白い影へ向かうように整えられている。
けれど、夜岐は死ななかった。
赫臣が、深雪乃の肩に手を置いた。
その手が、少し冷えている。
いや、違う。
震えていた。
ほんのわずかに。
深雪乃は、赫臣を見た。
彼の表情は硬い。怒りと警戒と、何かに気づきかけた顔だった。
「赫臣様」
深雪乃が呼ぶと、彼は答えなかった。
視線は夜岐と証拠包みの間を行き来している。
蓮台が、赫臣の方を見た。
「何か気づいたか」
赫臣は、しばらく黙った。
それから低く言う。
「復讐だけじゃねえ」
部屋の空気が、少し変わった。
深雪乃は、赫臣を見上げる。
「復讐だけではない」
「ああ」
赫臣の声は硬かった。
「母親の遺品を壊した奴、深雪を虐げた奴を順番に殺してるように見せてる。そう見せるには、夜岐は殺されるべきだった」
夜岐が、布団の中でかすかに呻いた。
赫臣は続ける。
「こいつは、深雪を直接虐げた中心だ。櫛を折り、着物を傷つけ、使用人に命じ、相続から追い出そうとした。単純な復讐なら、殺す理由は十分すぎる」
深雪乃の胸が痛んだ。
十分すぎる。
それは事実だった。
夜岐は、母の遺品に関わった。深雪乃を傷つけた。復讐の対象としては、むしろ最も分かりやすい。
なのに、生きている。
「殺せなかったのではなく、殺さなかった」
赫臣は言った。
「そう見る方が自然だ」
蓮台が頷く。
「俺も同感だ。犯人は夜岐を殺す能力があった。従者を無力化し、部下も倒した。夜岐の首を締め、手首も封じた。だが止めた。赫臣が影を切る前に、殺す流れではなかった」
砂笙が静かに付け加える。
「夜岐様を生き残らせる必要があった、ということですね」
白絹が言う。
「恐怖を語らせるため。白い影を見たと証言させるため。あるいは、夜岐さんにはまだ死なれては困る理由がある」
まだ死なれては困る。
深雪乃は、夜岐を見る。
夜岐は布団の中でうなされている。
罪はある。
深雪乃は忘れない。
許していない。
それでも、彼女が死なずに済んだことに、胸の奥で小さな安堵がある。
その安堵が、さらに深雪乃を混乱させた。
「私は」
深雪乃は、ぽつりと言った。
赫臣がすぐに彼女を見る。
「私は、姉上を憎んでいます」
「知ってる」
赫臣の声は低い。
「けれど」
言葉が詰まる。
深雪乃は、夜岐の青白い顔を見た。
「死ななくてよかったと、思ってしまいました」
部屋の中が静かになる。
小鈴たちも、息を潜めた。
夜岐を憎んでいる深雪乃が、死ななくてよかったと言う。
それは、この屋敷の者たちには理解しづらいことなのかもしれない。彼らは相手を見下せば傷つけ、都合が悪くなれば押しつけ、恐れれば隠す。憎しみと安堵を同時に持つ心など、無駄で面倒だと思うのだろう。
だが、深雪乃にはそれが本当だった。
夜岐が死ねば、すべてが終わるわけではない。
深雪乃の痛みが消えるわけでもない。
母の櫛が戻るわけでもない。
蔵の夜がなかったことになるわけでもない。
むしろ、夜岐が死ねば、深雪乃はこの感情の行き場を失う。憎む相手が死んだ時、人はすっきりするのだろうか。少なくとも深雪乃は、そうは思えなかった。
赫臣の手が、深雪乃の肩から背へ回る。
その手が震えていた。
ほんの少し。
深雪乃は、それを感じた。
「赫臣様」
彼は答えない。
ただ、深雪乃を抱きしめた。
強くない。
けれど、深く。
背の傷を避けるいつもの手つきで、肩を包む。だが、その指先に震えがある。赫臣が震えている。深雪乃ではなく、赫臣が。
「なぜ、震えているのですか」
深雪乃が問うと、赫臣は低く息を吐いた。
「お前が、そう言うからだ」
「死ななくてよかった、と?」
「ああ」
「おかしいですか」
「おかしくねえ」
赫臣の腕が、少しだけ強くなる。
「おかしくねえから、怖い」
「怖い?」
「お前は、あいつを憎んでる。許してねえ。それでも死ななくてよかったって思う。そういうところを、犯人は利用するかもしれねえ」
深雪乃の胸が冷える。
赫臣は続ける。
「夜岐を殺さなかったことで、お前の心を揺らしてる。加害者が生き残る。お前が安堵する。そんな自分に戸惑う。犯人がそこまで読んでるなら、ただの復讐じゃねえ。深雪、お前の心を見てる」
深雪乃は、息を止めた。
お前の心を見てる。
その言葉が、廊下の暗がりのように背筋へ流れ込んだ。
母の遺品。
母の過去。
白い髪。
深雪乃の不死。
そして、深雪乃の心。
犯人は、どこまで見ているのか。
夜岐を殺さなかったことが、ただの失敗ではなく、深雪乃へ向けられた揺さぶりなのだとしたら。
深雪乃は、赫臣の着物を掴んだ。
「私は、そんなに分かりやすいのでしょうか」
「俺には分かる」
「犯人にも?」
赫臣は、すぐには答えなかった。
その沈黙が答えに近かった。
深雪乃の胸が、さらに冷える。
白絹が静かに言った。
「深雪乃さんの反応を読める者、あるいは、深雪乃さんのお母様の心をよく知っている者。どちらにしても、距離が近すぎますわね」
蓮台が頷く。
「単純な恨みで殺しているなら、夜岐を生かす理由が薄い。だが、事件の目的が別にあるなら話は変わる。たとえば、深雪乃に何かを見せること。鵺喰家の者たちを段階的に恐れさせること。特定の証言を引き出すこと。あるいは、まだ必要な駒を残していること」
「駒」
深雪乃は、夜岐を見た。
姉を駒と呼ぶことに、何かがわずかに痛んだ。
だが、事件を起こしている者にとっては、そうなのかもしれない。
死んだ者も。
生き残った者も。
母の遺品も。
深雪乃自身も。
すべて配置されている。
白絹は、夜岐の寝顔を見ながら言った。
「夜岐さんは、自分が次だと思っていました。犯人はその恐怖を知っていた。だから殺さず、襲うだけに留めた。白い女を見たと怯える証人にした」
「白い女」
その時、夜岐がうなされた。
全員の視線が布団へ向かう。
夜岐の瞼が震え、唇が動く。
「……いや……白い……」
深雪乃は、思わず一歩近づいた。
赫臣が支えるように隣へ動く。
夜岐の目が薄く開いた。
焦点は合っていない。
だが、恐怖だけがはっきり浮かんでいる。
「姉上」
深雪乃が呼ぶと、夜岐の瞳が少し動いた。
「……深雪乃……?」
「はい」
夜岐は、深雪乃を見た瞬間、泣きそうな顔になった。
それは謝罪ではない。
救いを求める顔だった。
夜岐はかすれた声で言う。
「白い、女が……いたの」
部屋の中が静まる。
蓮台が低く聞く。
「白い女?」
夜岐は震えながら頷いた。
「廊下の角に……白い着物で……髪が、白くて……長くて……顔は、見えないのに……見られているのが分かった」
深雪乃の胸が締めつけられる。
白い着物。
白い髪。
顔は見えない。
見られている。
「母上ではありませんか」
小鈴が震える声で言ってしまった。
赫臣の妖気が一瞬で冷える。
小鈴は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません」
夜岐は首を横に振る。
「違う……分からない……母上じゃ、ない。でも、母上の匂いがした。沈丁花の匂い。あの人の着物の色みたいな、白藤色の糸が揺れて……鈴が鳴って……」
夜岐はそこで激しく咳き込んだ。
深雪乃は、胸元の鏡を押さえる。
沈丁花の匂い。
白藤色の糸。
鈴。
すべてが母へ繋がる。
けれど、夜岐は母ではないと言った。
その違いが、妙に重要に思えた。
蓮台が問う。
「襲われた時、その白い女は何か言ったか」
夜岐は怯えた目で天井を見る。
「聞こえた……でも、声じゃなかった。頭の中で……」
「何と」
夜岐の唇が震える。
「……まだ、返さない」
深雪乃の呼吸が止まった。
赫臣の腕が、反射的に深雪乃を抱き寄せる。
夜岐は、涙をこぼした。
「まだ返さないって……私に言ったのか、深雪乃に言ったのか、分からない。でも、聞こえたの。まだ返さない、って」
返す。
鵺喰に返すな。
玄磊の死の直前の言葉が蘇る。
深雪を返すな。
鵺喰に返すな。
夜岐が聞いた言葉は、それに繋がっている。
まだ返さない。
誰を。
どこへ。
深雪乃か。
夜岐か。
母の何かか。
赫臣の手が、深雪乃の肩を包む。
震えが、先ほどよりはっきりしていた。
深雪乃は、その手へ自分の手を重ねた。
「赫臣様」
赫臣は答えない。
視線は夜岐へ向いている。
けれど、意識は別のところにも向いているようだった。
白い女。
白い髪。
まだ返さない。
白き客人。
白い髪の主。
母を愛した男。
すべてが、少しずつ絡んでいく。
夜岐は再び意識を失いかけた。
蓮台が医師を呼ぶよう命じ、篝火家の術師が夜岐の呼吸を整える。小鈴たちは震えながらも、今度は逃げなかった。逃げれば疑われると分かっているのだろう。
深雪乃は、夜岐の布団の端を見つめていた。
死ななかった姉。
殺されなかった姉。
犯人に、生かされた姉。
深雪乃を虐げた罪は消えない。
けれど、夜岐が生きていることに安堵した自分も消えない。
赫臣が、深雪乃を部屋の外へ連れ出した。
無理やりではない。
けれど、有無を言わせない力だった。
廊下へ出ると、夜の空気が少し冷たかった。
行灯の火は普通の色に戻っている。それなのに、深雪乃にはまだ青白く揺れて見える気がした。
赫臣は廊下の陰で、深雪乃を抱きしめた。
今度は強く。
彼の手が、はっきり震えている。
深雪乃は、胸に頬を押しつけられながら言った。
「震えています」
「ああ」
赫臣は否定しなかった。
「なぜ」
「怖い」
短い答えだった。
深雪乃の胸が痛む。
赫臣は続ける。
「事件の基準が、深雪への復讐でも、澄子の遺品を壊した奴への単純な罰でもねえ。もっと別のものがある。お前を中心にして、何かが動いてる」
「私を」
「夜岐を殺さなかったのは、お前を揺らすためかもしれねえ。白い女を証言させるためかもしれねえ。まだ返さないって言葉を、お前に聞かせるためかもしれねえ」
赫臣の手が、深雪乃の背を包む。
「俺は、それが怖い。お前の心まで、事件の道具にされるのが」
深雪乃は、何も言えなかった。
赫臣の震えが、背中から伝わる。
彼は深雪乃を守りたい。
だが、守る相手の心そのものが狙われているなら、どう守ればいいのか分からないのだろう。
深雪乃も分からない。
自分の心は、自分でも扱いに困るものだ。それを誰かに読まれ、動かされ、事件の中へ置かれているのだとしたら、ぞっとする。
それでも、深雪乃は静かに言った。
「私は、姉上を許してはいません」
「知ってる」
「けれど、死ななくてよかったと思いました」
「知ってる」
「そのことを、恥じるべきでしょうか」
赫臣は、すぐに答えなかった。
しばらくして、深雪乃の髪へ顔を埋めるようにして言った。
「恥じるな」
「いいのですか」
「いい」
「憎んでいるのに」
「憎んでても、生きててよかったと思うことはある」
深雪乃は目を伏せた。
赫臣の声は、低く、少し荒れていた。
「それを犯人に使われても、お前のその気持ちまで汚れるわけじゃねえ」
胸の奥が、少し揺れた。
深雪乃は、赫臣の着物を掴んだ。
「答えとしては、少し足りません」
「悪い」
「でも」
言葉を探す。
赫臣は待った。
深雪乃は、彼の震える手へ自分の手を重ねた。
「今は、聞いておきます」
赫臣の腕が深くなる。
「深雪」
「はい」
「離れるな」
「命令口調です」
「お願いだ。離れるな」
深雪乃は、少しだけ息を吐いた。
「今は、離れません」
「今だけか」
「調子に乗らないでください」
「乗れねえよ」
赫臣の声は苦かった。
深雪乃は、彼の胸に額を寄せた。
廊下の向こうでは、夜岐の部屋の戸が静かに閉められている。医師と術師の気配が行き来し、蓮台が部下へ低く指示を出している。白絹の足音も遠ざかる。
事件は、また形を変えた。
死ななかったことで。
殺されなかったことで。
夜岐は、白い女という恐怖を残した。
まだ返さない、という言葉を残した。
それは、深雪乃の不死の謎と、母の過去と、鵺喰家の術と、白い髪の主へ繋がっている。
深雪乃は、赫臣の腕の中で目を閉じた。
姉を憎んでいる。
姉が生きていてよかったと思っている。
その二つは、同時に胸の中にある。
犯人がそれを読んでいるのだとしても。
深雪乃は、それをなかったことにはしない。
赫臣の震える手が、彼女の背を包んでいる。
その震えもまた、確かにここにあった。




