第34話 夜岐の告白
帝都から戻った夜、鵺喰家はまた別の沈黙に沈んでいた。
昼間、深雪乃は赫臣と写真館へ行った。カフェーで甘いものを食べ、橋の上で夕陽を見た。赫臣は写真を残せと言い、俺が何度でも見ると言った。深雪乃は、自分が形に残ることに戸惑った。だが、少しだけ思った。
残ってもいいのかもしれない、と。
その小さな温かさは、鵺喰家の門をくぐった瞬間、湿った夜気に触れて揺らいだ。
屋敷は、やはり屋敷だった。
古い柱。
暗い廊下。
障子の奥で息を潜める使用人。
祈祷部屋の方角から漂ってくる、まだ消えない香と紙の匂い。
母の記録。
不死の謎。
祈祷師の死。
夜岐へ向けられた疑い。
写真館の白い光も、カフェーの甘さも、橋の上の風も、ここでは遠い出来事のように思えた。けれど、赫臣が深雪乃の手を離さなかったので、それらが夢ではなかったことだけは分かった。
夜の呼び出しは、蓮台からだった。
場所は、鵺喰家の奥座敷。
以前、相続会議が開かれ、深雪乃が障子の外に立たされた場所に近い。今は畳の上に低い机が置かれ、行灯が二つ灯されている。部屋の空気は重く、壁際には蓮台の部下と篝火家の従者が控えていた。
中央に座らされているのは、夜岐だった。
鵺喰夜岐。
深雪乃の異母姉。
化け猫の先祖返り。
かつて人前では妹想いの姉を演じ、陰では深雪乃を人間臭いと笑った女。母の櫛を折り、使用人を使って押さえつけ、食事抜きや蔵閉じ込めを見て笑った女。深雪乃が床に落ちた櫛の欠片を拾おうとするたび、爪先でそれを遠ざけた女。
その夜岐が、今はひどく青い顔をしていた。
美しい顔は、やつれて見える。髪は整えられているが、いつもの艶やかさがない。唇は乾き、指先は袖の中で強く握られていた。爪は人の形に戻っている。けれど、感情が乱れるたび、指の先にわずかな鋭さが滲む。
蓮台は、夜岐の正面に座っていた。
赫臣は深雪乃の隣にいる。座敷の中でも近い。肩が触れるほどではないが、彼の手はすぐ深雪乃の指へ届く位置にあった。深雪乃の手が震えていないことを確かめる癖は、もう彼の中で半ば習慣になっているらしい。過保護もここまでくると職人技である。ありがたいような、腹立たしいような、やはり腹立たしい。
砂笙は蓮台の斜め後ろで記録を持っている。
白絹も来ていた。少し離れた場所に座り、琥珀色の瞳で夜岐を見ている。今夜の白絹は挑発的ではなかった。むしろ慎重だった。夜岐の言葉だけでなく、声の揺れや妖気の乱れを見ているのだろう。
使用人たちも呼ばれていた。
小鈴、佐助、お咲、ほか数名。
彼らは奥座敷の端に膝をつき、頭を下げている。だが、その肩はひどく強張っていた。深雪乃が視線を向けると、小鈴はすぐに目を逸らした。佐助は唇を噛み、お咲は震える手を膝の上で握り込んでいる。
彼らも、今夜は逃げられない。
蓮台が口を開いた。
「夜岐。確認する。頼成の客間密室について、お前は関与を否定しているな」
夜岐は小さく頷いた。
「はい」
「喜周、祢々、頼成、兼継、玄磊。五人の死についても」
「私は、殺していません」
声は震えていた。
けれど、はっきりしていた。
蓮台は表情を変えない。
「だが、お前には動機がある。相続争い、深雪乃への敵意、母親の遺品への関与、使用人への命令。頼成の事件では、化け猫の爪痕を模した偽装まであった」
夜岐の顔が歪む。
「あれは私ではありません」
「偽装だということは分かっている」
「なら」
「偽装だからこそ、お前が自分から疑いを外すために作った可能性も残る」
夜岐は息を呑んだ。
蓮台は淡々と続ける。
「お前が本当にやっていないなら、知っていることを言え。隠していることもだ。今さら綺麗な姉の顔を作っても無駄だ」
その言葉に、夜岐の肩が震えた。
深雪乃は、夜岐を見ていた。
昔なら、夜岐はここで泣いただろう。人前で美しく涙を浮かべ、妹のために心を痛めているような顔をしたはずだ。声を震わせ、私は何も知らないわ、深雪乃が心配で、と言ったかもしれない。
だが、今の夜岐は泣けていなかった。
泣く余裕もないように見えた。
蓮台の視線、赫臣の妖気、白絹の観察、砂笙の記録、使用人たちの沈黙。すべてが夜岐を囲んでいる。彼女は、美しい姉の仮面を保つより先に、目の前の恐怖を抑えるだけで精いっぱいだった。
「……私は」
夜岐は、唇を震わせた。
「私は、深雪乃にしたことを、全部は否定しません」
座敷の端で、小鈴がびくりと震えた。
深雪乃は、呼吸を浅くした。
夜岐が、視線を畳に落とす。
「母上の櫛を壊したのは、私です」
赫臣の妖気が、低く揺れた。
深雪乃は、それを感じながらも夜岐から目を逸らさなかった。
夜岐の声は細い。
「文箱から出しました。祢々に探させて、小鈴にも手伝わせた。深雪乃の前で折りました。一本ずつ。深雪乃が拾おうとしたから、押さえなさいと命じたのも私です」
小鈴が、かすかに息を漏らした。
夜岐は続ける。
「食事を下げさせたこともあります。掃除をやり直させたことも。蔵へ閉じ込めたことも。佐助に命じて、外から閂をかけさせました。夜になっても開けるなと」
佐助の肩が跳ねる。
彼はすぐに顔を上げた。
「ち、違います。私は、祢々様から」
蓮台の目が佐助へ向く。
「黙っていろ。後で聞く」
佐助は口を閉じた。
夜岐は、自分の爪を見つめるように手元を見た。
「母上の着物を、わざと傷つけたこともあります。私が直接裂いたわけではない時も、止めませんでした。兼継叔父様が笑っておられた時、私も笑っていました。母上の鏡を捨てればいいと言ったのも、私です」
深雪乃の胸の奥が、静かに冷えた。
知っている。
そんなことは、知っている。
けれど、本人の口から聞くと、古い傷の上に新しい刃が当たるようだった。
赫臣が、深雪乃の手を取ろうとする。
深雪乃は少しだけ指を動かし、自分からその手へ触れた。赫臣の指がすぐに包む。熱い。怒りで熱いのか、深雪乃を支えようとして熱いのか、どちらもだろう。
夜岐は、深雪乃を見なかった。
見られないのだ。
「使用人たちに、深雪乃は丈夫だから少しくらい構わないと言いました。死なないから平気だと。人間臭い妾腹の娘だから、家の中で立場をわきまえさせなければならないと」
言葉が、畳に落ちていく。
ひとつずつ。
深雪乃は、泣かなかった。
手も震えなかった。
だが、胸の奥にあるものは、冷えというより痛みに近くなっていた。
夜岐は続ける。
「相続のことも……しました」
蓮台が目を細める。
「具体的に」
「父上が亡くなった後、深雪乃に遺品を渡さないよう祢々へ言いました。遺言書に深雪乃の名があると困るから、もし見つかってもすぐには出すなと。親族の方々には、深雪乃は家に置いておけば災いになると話しました。深雪乃を屋敷から出す方が、鵺喰家のためだと」
「遺言書を隠したのか」
「私は直接隠していません」
「誰が隠した」
夜岐は首を横に振った。
「分かりません。ただ、祢々が何か知っていると思っていました。頼成叔父様も、喜周叔父様も、北蔵や目録のことを話していました。私は、深雪乃に渡るものを少しでも減らしたかった。それだけです」
「それだけ」
蓮台の声は冷たい。
「そのために虐待を命じ、遺品を壊し、屋敷から追い出す工作をしたと」
夜岐は顔を歪めた。
「はい」
その肯定は、座敷の空気を重くした。
夜岐が自分の罪を認めた。
だが、深雪乃には奇妙な違和感があった。
夜岐は、自分に不利なことを認めている。母の櫛を折ったこと。使用人に命じたこと。蔵へ閉じ込めさせたこと。食事を抜いたこと。遺品を隠そうとしたこと。相続工作の一部に関わったこと。
これだけ認めれば、夜岐の美しい姉の仮面は完全に壊れる。
それでも彼女は、言った。
殺していない、と。
深雪乃は、夜岐の顔を見た。
嘘をつく顔なら、知っている。
夜岐は嘘をつく時、もっと綺麗だった。眉尻を少し下げ、唇に悲しげな形を作り、声を柔らかくする。人前で妹を気遣うふりをする時の顔。深雪乃を虐げた後、来客の前で「深雪乃は少し体が弱くて」と言った時の顔。
今の夜岐には、それがない。
恐怖が剥き出しだった。
醜いほどに。
だからこそ、演技に見えなかった。
赫臣も、何かを感じたのだろう。
深雪乃の手を握る指が、わずかに動く。
彼は夜岐を睨んでいる。怒りは当然ある。だが、それだけではない。見極めようとしている顔だった。
蓮台が言った。
「連続殺人については、改めて否定するか」
夜岐は顔を上げた。
目に涙が滲んでいる。
「私は殺していません」
「喜周も」
「違います」
「祢々も」
「違います」
「頼成も」
「違います。本当に違います」
「兼継も」
「違います」
「玄磊も」
「違います!」
最後だけ、声が高くなった。
夜岐は自分の声に怯えたように口を押さえた。
白絹の瞳が、わずかに細くなる。
蓮台は表情を変えない。
「なぜ、そこまで怯える」
夜岐の肩が震える。
「……見られているから」
座敷の空気が変わった。
蓮台が聞く。
「誰に」
夜岐は唇を震わせた。
「分かりません。でも、見られている。ずっと。頼成叔父様の事件の後からではありません。もっと前から。父上が亡くなって、遺言書の話が出て、深雪乃を屋敷から出すことが決まった頃から」
深雪乃は息を止めた。
もっと前から。
夜岐は、畳の一点を見つめている。
「廊下の角に、誰もいないのに視線を感じました。北蔵の方から、紙を破るような音が聞こえたこともある。祢々に聞いても、聞こえないと言われました。小鈴にも笑われた。けれど、私は聞いたんです」
紙を破る音。
深雪乃の胸が冷える。
井戸端でも聞いた。
祈祷部屋でも紙が破れていた。
夜岐も、聞いていたのか。
「それはいつだ」
蓮台が問う。
「父上が亡くなって二日後の夜です。北蔵へ行ったわけではありません。でも、廊下の奥から、ぴり、ぴり、と。紙を破るような音がしました。それから、誰かが笑ったような気がして」
「誰かとは」
「分かりません」
夜岐は首を横に振った。
「女の声にも、男の声にも聞こえた。母上ではない。深雪乃でもない。祢々でもない。私は、怖くて、自室へ戻りました」
親族たちがざわめいた。
夜岐は震える声で続ける。
「その後、喜周叔父様が死にました。祢々も。頼成叔父様も。兼継叔父様も。玄磊様まで。皆、母上の遺品に関わっていた。私も関わっています。だから、次は私だと思いました」
赫臣の目が鋭くなる。
蓮台が静かに言う。
「だから、自分は殺人をしていないと?」
「違います。本当に違います!」
夜岐は、初めて深雪乃を見た。
その目は、これまで深雪乃に向けられてきたものとは違っていた。侮りも、優越も、演じた優しさもない。
恐怖。
そして、浅ましいほどの懇願。
「深雪乃、私はあなたを憎んでいたわ」
夜岐の声が震える。
「人間臭いくせに、いつも死ななくて、母上の遺品ばかり大切にして、父上の視線が少しでもあなたに向くのが嫌だった。あなたがいるだけで、家の中が落ち着かなくなる気がした。だから、ひどいことをした。櫛を折った。笑った。使用人にも命じた。あなたが傷つく顔を見て、気が晴れたこともある」
深雪乃は、静かに聞いていた。
赫臣の妖気が冷たくなる。
だが、深雪乃は手を少し握り返して止めた。
夜岐は泣きそうな顔で続ける。
「でも、殺していない。殺していないのよ。私は、人を殺していない。私はあなたを追い出したかった。相続を奪いたかった。母上のものをあなたから取り上げたかった。でも、あんなふうに人を殺していない」
声は醜く震えていた。
綺麗な告白ではなかった。
罪を悔いているというより、殺人の恐怖から逃れたい必死さが勝っていた。深雪乃への謝罪ですらない。自分が殺人犯ではないと証明したいがための吐露だった。
だからこそ、嘘に見えにくかった。
人は、自分を守る時に一番醜くなる。
夜岐は今、その醜さを隠せていない。
深雪乃は、ゆっくり口を開いた。
「姉上」
夜岐がびくりと震える。
「私は、あなたを許したわけではありません」
夜岐の顔が歪んだ。
「分かって」
「分かっている、で済むなら、母の櫛は折れていません」
夜岐は黙った。
深雪乃の声は静かだった。
「けれど、今のあなたが怯えていることは分かります」
夜岐の目が、大きく開く。
深雪乃は続けた。
「それが演技には、見えません」
部屋の空気がわずかに揺れた。
赫臣が深雪乃を見る。
蓮台も。
白絹は、静かに目を細めた。
夜岐の唇が震える。
「深雪乃」
「だからといって、あなたを信じるとは申し上げません。あなたは嘘をつく方ですから」
赫臣が、ほんの少しだけ口元を動かした。
この状況で笑うな、と思った。いや、笑ってはいない。ただ、深雪乃の毒が戻ったことに安心したのだろう。ほんとうに扱いが難しい鬼である。
夜岐は、言い返せなかった。
蓮台が小鈴たちの方を見る。
「次は使用人だ」
小鈴が顔を上げる。
「わ、私は」
「夜岐に命じられて、深雪乃を押さえたか」
小鈴は口を開き、閉じた。
視線が夜岐と深雪乃の間で揺れる。
「私は、ただ、その場にいただけで」
深雪乃は小鈴を見た。
小鈴の肩が震える。
「その場にいただけ、ですか」
声をかけると、小鈴の顔が真っ白になった。
「い、いえ、私は、夜岐様が」
「命じたのは私よ」
夜岐が言った。
小鈴はほっとしたように息を吐きかけた。
だが、夜岐は続けた。
「でも、あなたは笑っていたわ」
小鈴の顔が凍る。
夜岐は、もう仮面を作る余裕もなく言った。
「私が命じた。祢々も命じた。でも、あなたたちは楽しそうに笑った。深雪乃が水をかぶった時も、食事を下げた時も、櫛を拾おうとした時も。命令されたから押さえたとしても、笑ったのはあなたたちよ」
使用人たちが一斉に青ざめた。
深雪乃は、夜岐を見た。
これは謝罪ではない。
責任の押しつけ合いだ。
夜岐は自分だけが罪を負うのが嫌で、使用人たちも引きずり込もうとしている。美しい姉の仮面が壊れた後に残ったのは、醜い保身だった。
けれど、その中には事実がある。
小鈴が震える声で言った。
「私は……祢々様に逆らえなくて」
佐助が続ける。
「私もです。蔵の件は、女中頭が」
お咲が涙声で言う。
「夜岐様が怖かったんです。私たちは、下の者ですから」
蓮台の目が冷える。
「都合の悪いことは死んだ祢々と夜岐へ押しつけるつもりか」
佐助が黙る。
小鈴は必死に言った。
「違います。ただ、私は本当に何も知らなくて。母君様の遺品のことも、事件のことも、祢々様が」
「祢々は死んだ」
蓮台は切り捨てる。
「死んだ者のせいにするのは簡単だな」
使用人たちは、さらに顔を伏せた。
深雪乃は、彼らを見ていた。
これまでの加害を隠そうとしている。
命じられただけだ。
その場にいただけだ。
覚えていない。
知らなかった。
死んだ祢々が命じた。
夜岐が命じた。
そうやって、自分の手だけを綺麗にしようとしている。
だが、深雪乃は覚えている。
水桶を倒した手。
泥水を撒いた手。
冷えた白湯を置いた手。
蔵の戸を閉めた手。
母の櫛を拾おうとする深雪乃の肩を押さえた手。
命令された手があるのだろう。
けれど、楽しんだ顔まで命じられたものではない。
以前、井戸端で言った言葉が胸に戻る。
赫臣が、深雪乃の手を握った。
「よく覚えてるな」
小さな声だった。
深雪乃は彼を見ずに答える。
「覚えたくなくても、覚えています」
赫臣の手が、少し強くなる。
蓮台は使用人たちを一人ずつ見た。
「加害の証言をまとめる。隠したことが後で出れば、その分だけ立場が悪くなると思え。連続殺人に関わっていなくても、証拠隠しや虚偽証言は別だ」
使用人たちは、青ざめたまま頭を下げた。
夜岐は、畳の上で震えていた。
蓮台は再び夜岐へ向き直る。
「夜岐。お前の告白は記録する。虐待、遺品破壊、使用人への命令、相続工作の一部。連続殺人については、現時点では否定。だが、まだ疑いが晴れたわけではない」
夜岐は、かすかに頷いた。
「分かっています」
「今夜は部屋から出るな。篝火家の従者と俺の部下をつける」
「監視ですか」
「保護でもある」
夜岐の顔が歪む。
「次は私だから?」
蓮台は答えなかった。
それが答えだった。
夜岐は小さく笑った。
笑いというより、喉が壊れた音に近かった。
「私、深雪乃にしたことの罰で殺されるのかしら」
深雪乃は、夜岐を見た。
「罰という言葉は、便利ですね」
夜岐の目が揺れる。
「深雪乃」
「罰と言えば、誰かがあなたを裁いてくれるように聞こえます。けれど、あなたがしたことは、あなたがしたことです。誰かに殺されれば消えるものではありません」
夜岐は、唇を噛んだ。
「……あなた、本当に変わったわ」
「そうでしょうか」
「前は、そんな目で私を見なかった」
「前は、見ることも許されませんでしたから」
夜岐は何も言えなかった。
赫臣が、静かに深雪乃の髪へ手を伸ばしかけ、やめた。
人前だからではない。
今の深雪乃の言葉を遮らないためだろう。
その慎重さに、深雪乃は気づいた。
少しだけ、胸が痛んだ。
隠し事をしている男でも、こういう時の彼は深雪乃を待つ。
だから厄介だ。
蓮台が話を締めた。
「今日はここまでだ。夜岐を部屋へ戻せ」
蓮台の部下と篝火家の従者が動く。
夜岐は立ち上がろうとして、足元をふらつかせた。小鈴が反射的に支えようとしたが、夜岐はその手を払った。
「触らないで」
小鈴の顔が傷ついたように歪む。
だが、夜岐は見なかった。
深雪乃は、その様子も見ていた。
共犯のように笑っていた者たちが、今は互いに責任を押しつけ合い、触れられることすら拒む。醜い。けれど、それがこの屋敷の本当の姿なのかもしれない。
夜岐は、従者に囲まれて座敷を出た。
深雪乃は、その背中を見送った。
白い廊下の向こうへ、夜岐の影が揺れる。
その時、深雪乃の胸の奥に、ふと冷たいものが走った。
母の鏡が、懐の中で微かに熱を持った気がした。
深雪乃は手を当てる。
赫臣がすぐに気づく。
「深雪」
「鏡が」
言い終える前に、廊下の奥で音がした。
鈴が鳴るような、細い音。
次に、短い悲鳴。
夜岐の声だった。
全員が振り向く。
赫臣が深雪乃の前へ出る。
蓮台が駆け出す。
砂笙も、白絹も続いた。
深雪乃も立ち上がろうとする。
赫臣が振り返る。
「深雪、後ろに」
「行きます」
「分かってる。俺の後ろだ」
赫臣はそれ以上止めなかった。
二人は廊下へ出る。
夜岐の部屋へ向かう角の手前で、篝火家の従者が一人倒れていた。血は出ていない。だが、意識を失っている。蓮台の部下も壁際で膝をつき、首元を押さえて呻いていた。
廊下の灯りが、奇妙に揺れている。
行灯の火が青白い。
夜岐は、廊下の中央に倒れていた。
首元に、細い黒い糸のようなものが絡んでいる。
いや、糸ではない。
影のようなものだった。
夜岐の喉から、かすれた声が漏れる。
「いや……いや、来ないで……」
彼女は、何もない空間を見上げていた。
目を見開き、涙を流し、喉を押さえようとしている。だが、手首にも黒い影が絡み、動きを奪っていた。化け猫の先祖返りである夜岐の爪が、恐怖で鋭く伸びる。けれど、何も切れない。
深雪乃は、息を呑んだ。
廊下の奥に、誰かがいた。
ほんの一瞬。
白い髪のようなものが、灯りの端をかすめた。
黒い組紐の気配。
銀の輪の光。
見えた、と思った瞬間には消えていた。
赫臣が、低く唸る。
「退がれ」
彼の霊糸が走った。
見えない刃が廊下を裂く。
夜岐の首へ絡んでいた黒い影が、弾けるように切れた。
夜岐が激しく咳き込み、畳ではなく廊下の板へ爪を立てる。
蓮台が駆け寄る。
「夜岐!」
夜岐は、涙と涎で顔を濡らしながら、深雪乃の方を見た。
そして、震える声で言った。
「……見た……」
深雪乃の胸が冷える。
夜岐は、喉を震わせた。
「白い、髪……」
その言葉を最後に、夜岐は意識を失った。
廊下に、青白い行灯の火だけが揺れている。
深雪乃は、懐の上から母の鏡を押さえた。
鏡は、確かに熱を持っていた。




