第33話 帝都写真館
鵺喰家の朝は、息を潜めていた。
祈祷部屋の死から一夜が明け、屋敷の廊下にはまだ古い香の匂いと、紙の乾いた匂いが残っている。鳴瀬玄磊が死んだ部屋は封じられ、山本五郎左衛門の家紋が掲げられていた奥の祈祷部屋へは、蓮台と砂笙、篝火家の者以外は近づけなくなっていた。
床に散らばっていた記録は押収され、破れた紙片は一枚ずつ並べられている。
宵待澄子。
入家の儀。
胎内。
器ではなく鍵。
白き客人。
篝火への報せ、禁ず。
深雪乃の中には、その言葉がまだ沈んでいた。沈んでいるのに、消えない。水底に落ちた小石のように、胸の底で静かに重さを増している。
赫臣は、すべてを話してはいない。
それも、深雪乃には分かっている。
彼は隠し事をしている。全部を知らないとしても、何も知らないわけではない。白い髪のことも、母を愛した男のことも、篝火へ報せるなと記された理由も、彼の中には断片がある。
深雪乃は、それを責めた。
赫臣は、怖いからだと言った。
深雪乃が知って、自分から離れることが怖いと。
それは嘘ではなかった。
嘘ではないからこそ、深雪乃はさらに困っている。嘘なら切り捨てればいい。けれど、そこに愛情と恐怖と隠し事が絡んでいると、人の心は簡単には切れない。感情というものは、本当に厄介な糸でできている。絡めた者が責任を取るべきだが、誰も責任を取らない。
深雪乃は、自分の膝に置いた母の鏡を見つめていた。
沈丁花文様の懐中鏡は、今は何も映さない。ただ薄い光を受けて、静かに鈍く光っている。母の声も聞こえない。遺響もない。鏡はただ、深雪乃の指の冷たさだけを受け止めていた。
その時、障子の向こうから赫臣の声がした。
「深雪」
「はい」
「出るぞ」
深雪乃は顔を上げた。
障子が開く。
赫臣は、いつもの崩した和装ではあったが、今日は羽織が少し軽い。金の髪を後ろへ流し、耳には相変わらず多数のピアスが光っている。首飾り、指輪、腕輪、足首飾り。派手で、どこに出ても人目を引く姿だった。隠れる気配が一切ない。隠密という概念が泣いている。
深雪乃は眉を寄せた。
「出る、とは」
「帝都へ」
「調査ですか」
「違う」
「蓮台様から呼び出しが?」
「違う」
「では、何をしに」
「恋人らしいことをしに」
深雪乃は、しばらく赫臣を見た。
「……今、この状況で?」
「今、この状況だからだ」
赫臣は、部屋へ入ってきた。
深雪乃の前へ座る。膝の上の鏡へ一度視線を落とし、それから深雪乃の顔を見る。
「お前、昨日からずっと記録と鏡と自分の手ばっか見てる」
「調べるべきことが多いので」
「そうだな」
「なら」
「だから出る」
赫臣の声は、いつもより少し低かった。
「深雪。お前は事件だけでできてるわけじゃねえ。母親の過去だけでも、不死の謎だけでも、鵺喰家の罪だけでもねえ。俺の恋人だ」
「また便利に使いましたね」
「便利でも本当だ」
「それで帝都へ?」
「写真を撮る」
深雪乃は、瞬きをした。
「写真」
「ああ」
「私の?」
「俺とお前の」
赫臣の口元が少し上がる。
「恋人らしく、二人で撮る」
深雪乃は、母の鏡を見下ろした。
写真。
形に残るもの。
鏡の遺響とは違う。誰かの記憶や霊的な残り香ではなく、今この瞬間を紙に焼きつけるもの。深雪乃の姿が、そこに残る。赫臣と並んで。恋人として。
胸が、妙に落ち着かなくなった。
「私は、写真を撮られたことがありません」
「だろうな」
「鵺喰家の家族写真にも、入ったことはありません」
「だろうな」
赫臣の声が低くなる。
「だから撮る」
「理由が強引です」
「俺は強引だ」
「自覚があるなら」
「直さねえ」
「でしょうね」
赫臣は手を差し出した。
深雪乃はその手を見た。
昨日、喧嘩をした。
隠し事を責めた。
そうやって口で塞げば済むと思わないでください、と言った。
それでも、襟を掴んだ。
離れたくなかった。
今も、赫臣の手はそこにある。
深雪乃は、母の鏡を布に包んで懐へ入れた。
「写真だけですか」
「カフェーも行く」
「かふぇー」
「ああ。甘いものがある」
「甘いものにつられると思っていらっしゃる?」
「少し」
「正直ですね」
「お前、甘いもの食う顔が可愛い」
「やめてください」
「写真にも残すか」
「絶対にやめてください」
赫臣は笑った。
深雪乃はため息をつき、彼の手を取った。
赫臣の顔が、途端に柔らかくなる。
「調子に乗らないでください」
「もう乗ってる」
「早すぎます」
「深雪が手を取った」
「出るためです」
「俺と出るためだ」
「言い方」
「事実だろ」
言い返せない。
深雪乃は目を伏せた。
赫臣はその手を握ったまま立ち上がる。強引だが、引く力は乱暴ではない。深雪乃が立ち上がる速さに合わせてくれる。そういうところだけは、悔しいほど丁寧だった。
帝都へ向かう車の中で、深雪乃は窓の外を見ていた。
鵺喰家の門を出ると、屋敷の湿った重さが少し遠ざかる。石畳の道を抜け、馬車や人力車が行き交う通りへ出る。洋館風の建物、瓦屋根の店、電線、街灯、袴姿の女学生、背広姿の男たち。帝都は相変わらず騒がしかった。
人々は、鵺喰家の中で誰が死んだかなど知らない。
深雪乃の母の遺品が死体のそばに置かれていることも、祈祷部屋で「器ではなく鍵」と言われたことも、深雪乃の身体が死を押し戻されるように生きていることも、誰も知らない。
通りの角では、焼き栗の匂いがしていた。
子どもが母親の袖を引き、店先の菓子をねだっている。新聞売りの少年が声を張り上げ、路面電車の鐘が遠くで鳴る。行き交う人々の声が重なり、街は生きていた。
深雪乃は、その当たり前の騒がしさに少し目を細めた。
「眩しいか」
赫臣が聞いた。
「少し」
「屋敷が陰気すぎるからな」
「否定はしません」
「あの家、空気まで陰湿だ」
「家の空気に罪は」
「ある」
「あるのですか」
「ある。深雪をいじめた家だからな」
「建物にまで怒らないでください」
「柱にも腹が立つ」
「重症ですね」
「お前のことだと重症になる」
深雪乃は窓の外へ視線を戻した。
「便利な言い方です」
「事実だ」
赫臣の手が、深雪乃の手に重なる。
車内でまで手を繋ぐ必要があるのかと一瞬思ったが、引かなかった。外の明るさに少し圧倒されていたこともある。鵺喰家の中では冷静でいられても、普通の街の中に出ると、逆に自分がひどく不自然な存在に思えた。
赫臣は、それを察したようだった。
「今日は事件の話は少し休め」
「休めと言われて休めるものではありません」
「知ってる。だから俺が邪魔する」
「宣言しないでください」
「邪魔する」
「聞こえています」
「深雪」
「はい」
「今日は、俺だけ見てろ」
深雪乃は彼を見た。
その言葉は、以前とは少し違って聞こえた。
桜の根元で、赫臣は疑いそうになった自分を嫌悪しながら「愛してる。俺だけ見てろ」と言った。深雪乃はそれを刺した。疑っている顔で愛を囁くのは器用ですね、と。
今の赫臣の顔には、疑いはなかった。
不安はある。
隠し事も、きっとある。
けれど、今日だけは深雪乃を屋敷の闇から引き離そうとしている顔だった。
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「少しだけなら」
赫臣が笑う。
「少しじゃ足りねえ」
「調子に乗らないでください」
「無理だ」
写真館は、銀座に近い通りの一角にあった。
洋風の窓を持つ二階建ての建物で、入口には「帝都霞写真館」と金の文字が掲げられている。硝子戸の向こうには、撮影用の椅子や背景布が見えた。店内からは、薬品と古い布と木の匂いがする。
深雪乃は、入口の前で少し足を止めた。
赫臣が気づく。
「嫌か」
「嫌ではありません」
「怖いか」
「……少し」
正直に言うと、赫臣の目が柔らかくなる。
「じゃあ、俺が隣にいる」
「写真では、隣にしかいられないでしょう」
「撮る前も、撮った後も隣にいる」
「当然のように重いですね」
「恋人だからな」
「その言葉の使い道が増えすぎです」
赫臣は笑って、深雪乃を中へ連れて入った。
写真師は中年の男だった。赫臣を見るなり、少し目を見開いた。金髪、蒼い瞳、耳に並ぶ装身具、崩した和装。街中でも充分目立つ男が写真館に入ってきたのだから、驚かない方が難しい。人間の視線というものは正直だ。礼儀より先に目玉が動く。
だが、赫臣が名乗ると、写真師の顔色はさらに変わった。
「篝火様でいらっしゃいましたか。これは、失礼を」
「堅苦しいのはいい。二人で撮る」
写真師の視線が深雪乃へ移る。
深雪乃は少しだけ背筋を伸ばした。
視線に値踏みはなかった。驚きと興味はあったが、鵺喰家の者たちのような侮りはない。それだけで少し不思議だった。自分を見て、何かを測られないことに慣れていない。
「お二人で、記念のお写真で?」
写真師が穏やかに尋ねる。
赫臣は当然のように答えた。
「恋人の写真だ」
深雪乃の頬が一瞬で熱くなった。
「赫臣様」
「何だ」
「言い方」
「事実だ」
「写真師様が困っています」
「困ってねえだろ」
写真師は、職業的な微笑みを浮かべていた。困っているかどうかは微妙だ。少なくとも聞かなかったふりをする訓練は行き届いている。帝都の商売人は強い。
「では、こちらへどうぞ」
撮影室には、重厚な椅子と背景布があった。背景には西洋風の柱とカーテンが描かれている。横には花瓶が置かれ、造花が挿されていた。窓から入る光を調整するため、白い布が掛けられている。
深雪乃は、そこに立ってさらに落ち着かなくなった。
自分が形に残る。
それが、急に怖くなった。
今まで、深雪乃は鵺喰家の記録にまともに残されてこなかった。家族写真にも、親族の席にも、祝いの記録にもいない。父の葬儀でも座敷の外だった。相続会議でも、障子の外だった。母の遺品目録には母の名が削られ、深雪乃自身の出生記録も、祈祷部屋の破れた紙片の中にしかない。
残されないことに、慣れすぎていた。
残ることが、怖い。
写真に自分の姿が残れば、そこにいたことが消せなくなる。赫臣の隣にいたことも、恋人として撮られたことも、紙の上に残る。嬉しいより先に、戸惑いが来た。
赫臣は、それに気づいた。
写真師が椅子の位置を調整している間に、深雪乃の耳元で低く言う。
「深雪」
「はい」
「逃げたくなったか」
「……少し」
「逃げてもいい」
深雪乃は、驚いて赫臣を見た。
彼が逃げてもいいと言うのは珍しい。いつもなら「俺の隣にいろ」と言うだろうに。
赫臣は、真剣な目で深雪乃を見ていた。
「嫌なら撮らねえ」
「あなたが撮りたいのでは」
「撮りたい。でも、嫌がるお前を残したいわけじゃねえ」
その言葉に、胸が少し揺れた。
深雪乃は撮影用の椅子を見た。
自分が形に残ることは怖い。
だが、残らないまま消されることも、もう嫌だった。
母の名が削られた記録。
破られた紙片。
鵺喰家が都合の悪いものを消してきた跡。
その中で、赫臣は深雪乃を残そうとしている。
消されないように。
見つけられるように。
何度でも見るために。
「……形に残るのは、慣れません」
深雪乃は、ぽつりと言った。
赫臣は黙って聞いている。
「私は、残されるものではなかったので。家の記録にも、写真にも、祝いの席にも。母の名も、削られていました。だから、自分の姿が写真に残るのが、少し怖いです」
赫臣の顔から笑みが消えた。
怒りに似た影が差す。
だが、その怒りは深雪乃へ向いていない。
「残せ」
彼は低く言った。
「俺が何度でも見る」
深雪乃の胸が、強く鳴った。
「……何度も?」
「ああ。朝でも夜でも、腹が立った日でも、事件で頭がぐちゃぐちゃになった日でも、お前が隣にいない時でも見る。深雪がここにいたって、何度でも見る」
深雪乃は、言葉を失った。
赫臣は続ける。
「鵺喰家が残さなかったなら、俺が残す。消したなら、俺が拾う。隠したなら、俺が暴く。お前は残っていい。残せ」
深雪乃は目を伏せた。
胸の奥が熱い。
怖いままだ。
けれど、怖さの中に別のものが混じった。
「写真を見て、変な顔だと笑わないでください」
「可愛いって言う」
「それも困ります」
「じゃあ、綺麗だって言う」
「もっと困ります」
「大好きだって言う」
「写真に言わないでください」
「言う」
「怖いです」
「恋人だからな」
「写真にまで恋人を適用しないでください」
赫臣は笑った。
それから、深雪乃の手を取った。
「撮るか」
深雪乃は、小さく頷いた。
「はい」
写真師に促され、赫臣は椅子に座り、深雪乃はその隣に立つ形になった。
だが、赫臣はすぐ不満そうにした。
「遠い」
写真師が困った顔をする。
「いえ、構図としては」
「遠い」
深雪乃が小声で言う。
「赫臣様」
「何だ」
「写真師様を困らせないでください」
「近くに来い」
「命令口調です」
「お願いだ。近くに来てくれ」
「言い直しが早いですね」
「学んでる」
「たまに」
深雪乃は少しだけ椅子に近づいた。
赫臣の手が、当然のように彼女の手を取る。
「手は」
写真師が言いかけて、赫臣の目を見て黙った。
深雪乃は恥ずかしさで頬が熱くなる。
「写真に残ります」
「だから握る」
「そういう問題では」
「残せ」
その言葉に、深雪乃はもう何も言えなかった。
撮影の準備が整う。
写真師が黒い布をかぶり、機械の向こうから声をかける。
「しばらく動かず、そのままで」
動かず。
そのまま。
深雪乃は背筋を伸ばす。
赫臣の手が、彼女の手を包んでいる。
撮影の瞬間、深雪乃はカメラではなく、少しだけ赫臣の方を意識した。隣にいる。手を握っている。形に残る。自分がここにいることが、消えないものになる。
写真師の合図で撮影が終わった。
深雪乃は、思わず息を吐いた。
「緊張したか」
赫臣が聞く。
「少し」
「可愛かった」
「撮影後すぐに言わないでください」
「写真も可愛い」
「まだ見ていません」
「分かる」
「根拠がない」
「深雪だからな」
「万能ですね」
「万能だ」
写真館を出る時、赫臣は焼き増しも頼んだ。
深雪乃は、また目を丸くした。
「一枚でよろしいのでは」
「俺の分、深雪の分、篝火家の俺の部屋に置く分、持ち歩く分」
「持ち歩く?」
「ああ」
「持ち歩くのですか」
「見るために」
「……本気ですね」
「本気だ」
写真師が職業的な笑顔の奥で、かなり必死に平静を保っていた。気の毒である。恋人の写真を持ち歩く鬼に対応する商売人など、帝都にもそう多くないだろう。
写真館を出ると、外の光は少し柔らかくなっていた。
赫臣はそのまま深雪乃をカフェーへ連れていった。
通りに面した洋風の店で、赤い庇と硝子窓がある。中には丸いテーブルと椅子が並び、女給が軽やかに動いていた。珈琲の香り、焼き菓子の甘い匂い、バターの香り。鵺喰家の湿った匂いとはまったく違う。
深雪乃は席に座り、少し落ち着かなかった。
周囲の客たちが赫臣を見る。
当然だ。
見ない方が難しい。
だが、赫臣は気にしない。深雪乃の正面ではなく、隣に座った。店内でも近い。
「向かいではないのですか」
「遠い」
「写真館でも同じことをおっしゃいました」
「遠いものは遠い」
「距離感が壊れています」
「恋人だからな」
「便利すぎます」
女給が注文を取りに来ると、赫臣は珈琲と菓子をいくつか頼んだ。深雪乃が止める前に、苺の乗ったケーキ、カステラ、プディング、クリームの添えられた焼き菓子まで並ぶことになった。
深雪乃は、運ばれてきた皿を見た。
「多いです」
「食えそうなものを食えばいい」
「残すのは」
「俺が食う」
「あなたが?」
「お前が食った残りならな」
「言い方が」
「恋人だからな」
「その言葉を禁止したいです」
「無理だ」
深雪乃は、小さく切ったカステラを口に運んだ。
卵の香りと砂糖の甘さが、舌に広がる。思ったより柔らかい。ふわりとして、少ししっとりしている。赫臣がじっと見ていることに気づき、深雪乃は眉を寄せた。
「見ないでください」
「食ってる顔が好きだ」
「それも以前聞きました」
「何度でも言う」
「食べづらいです」
「可愛い」
「食べづらいです」
赫臣は笑い、珈琲を飲んだ。
深雪乃は、少しだけプディングにも手を伸ばした。
滑らかな甘さ。
ほろ苦いカラメル。
それが思いのほかおいしくて、深雪乃は一瞬だけ目を見開いた。
赫臣がすぐに気づく。
「気に入ったか」
「……少し」
「もう一つ頼むか」
「いりません」
「本当か」
「本当です」
「持って帰るか」
「持ち帰れるのですか」
「できるようにさせる」
「店に無理を言わないでください」
赫臣は、また笑った。
カフェーの中で、二人はしばらく事件の話をしなかった。
それは不思議な時間だった。
深雪乃の頭の中には、祈祷部屋の記録も、不死の謎も、白絹の警告も残っている。消えたわけではない。けれど、目の前には珈琲の湯気があり、皿の上には甘い菓子がある。隣には赫臣がいて、時折、深雪乃の手の甲を撫でる。
普通の恋人。
その言葉が、少しだけ胸に浮かんだ。
普通とは何か、深雪乃にはよく分からない。
だが、今だけは、誰かの死体も、母の遺品も、破れた記録もない。赫臣が深雪乃を見て、深雪乃が少し文句を返し、甘いものを食べる。それだけの時間だった。
それだけのことが、こんなに難しいとは知らなかった。
店を出る頃には、陽が西へ傾き始めていた。
赫臣は、橋の方へ深雪乃を連れていった。
帝都の川には、夕方の光が揺れている。橋の上を人々が行き交い、人力車が通り、川面には舟がゆっくり進んでいた。遠くの洋館の窓が夕陽を受けて光り、空は薄い橙色に染まっている。
深雪乃は、橋の欄干に手を置いた。
風が吹く。
少し冷たい。
鵺喰家の庭の湿った風とは違う、川の匂いを含んだ風だった。
「寒いか」
赫臣が聞く。
「少し」
答えると、赫臣はすぐに羽織を肩へ掛けた。
「赫臣様」
「何だ」
「ご自分は」
「寒くねえ」
「本当ですか」
「鬼だぞ」
「便利に使わないでください」
「本当だ」
羽織には赫臣の煙管の香りがした。
深雪乃はそれを肩に掛けたまま、川を見た。
写真を撮った。
カフェーで甘いものを食べた。
橋の上に立っている。
これだけなら、普通の恋人の一日だ。
そのことが、胸を少し痛くする。
もし、自分たちがただの人間だったら。
もし、鵺喰家も、篝火家も、先祖返りも、山本五郎左衛門の家紋も、白い髪も、不死の身体もなかったら。
普通に写真を撮り、普通に甘いものを食べ、普通に橋の上で夕陽を見て、家に帰ったのだろうか。
深雪乃は、その想像を途中で止めた。
願いに近いものは、考えすぎると痛くなる。
赫臣が、隣で静かに言った。
「写真、できたら篝火家に飾る」
「飾るのですか」
「飾る」
「人目につくのでは」
「見せる」
「なぜ」
「俺の恋人だから」
「また」
「便利でも本当だ」
深雪乃は、少しだけ笑いそうになった。
笑ったつもりはなかった。
だが、赫臣がすぐに気づいた。
「笑ったな」
「笑っていません」
「少し」
「気のせいです」
「可愛い」
「すぐそれです」
「本当だからな」
赫臣は、深雪乃の頬に手を添えた。
橋の上である。
人が行き交っている。
夕陽の中とはいえ、隠れているわけではない。
深雪乃は、嫌な予感を覚えた。
「赫臣様」
「何だ」
「ここは橋の上です」
「知ってる」
「人目があります」
「あるな」
「では」
唇に、口づけが落ちた。
ちゅ、と短く。
深雪乃は目を見開いた。
赫臣は少しも悪びれず、もう一度、今度は少し長く口づける。川の風が二人の髪を揺らす。橋を渡っていた誰かが、驚いたように足を止める気配がした。深雪乃の頬が熱くなる。
唇が離れる。
深雪乃は、少し息を乱しながら彼を睨んだ。
「あなたは本当に、隙あらば口づけますね」
赫臣は、当然のように返した。
「隙があるお前が悪い」
深雪乃は呆れた。
「責任転嫁です」
「恋人の特権だ」
「万能にしないでください」
「万能だ」
「橋の上です」
「知ってる」
「人が見ています」
「見せてる」
「写真館から何も学んでいませんね」
「深雪が可愛いことは学んだ」
「それは以前から言っています」
「じゃあ復習だ」
「学問に謝ってください」
赫臣は笑い、深雪乃の髪を撫でた。
深雪乃は抗議しようとしたが、言葉は途中で止まった。
赫臣が、ひどく優しい目をしていたからだ。
写真館で「残せ」と言った時の目。
鵺喰家が残さなかったなら、俺が残すと言った目。
その目で見られると、文句が少し弱くなる。
ずるい。
とてもずるい。
「深雪」
「はい」
「今日のことも残せ」
「写真以外にも?」
「ああ。写真館に行ったこと。カフェーでプディングを食ったこと。橋の上で風が冷たかったこと。俺がキスしたこと」
「最後は忘れてもよろしいですか」
「駄目だ」
「なぜ」
「俺が覚えてるから」
「あなたが覚えているなら、私が忘れても」
「駄目だ」
「横暴です」
「恋人だからな」
深雪乃は、ため息をついた。
だが、赫臣の羽織の前をそっと掴んだ。
赫臣がそれに気づき、嬉しそうに目を細める。
「寒いか」
「少し」
「抱くか」
「橋の上です」
「知ってる」
「駄目です」
「じゃあ手」
赫臣は深雪乃の手を取った。
指を絡める。
深雪乃は引かなかった。
川面に夕陽が揺れている。
人々の足音と話し声が通り過ぎていく。
写真館の薬品の匂いも、カフェーの甘い香りも、まだ少し服に残っている気がした。赫臣の羽織は温かく、手はもっと温かい。
普通の恋人のような一日。
完全に普通ではない。
赫臣は百鬼夜行の頭で、深雪乃は不死身の謎を抱えた娘だ。屋敷へ戻れば、祈祷部屋の記録が待っている。母の過去も、白い髪も、白き客人も、何一つ終わっていない。
けれど、この橋の上の時間は本物だった。
写真に写る二人も、本物だ。
深雪乃は、川を見ながら小さく言った。
「写真ができたら」
「うん」
「……私にも、一枚ください」
赫臣の手が、少し強くなる。
「何枚でもやる」
「一枚でいいです」
「何枚でも」
「飾る場所がありません」
「俺の部屋に置けばいい」
「それはあなたの分です」
「深雪の場所を作る」
深雪乃は赫臣を見た。
「篝火家に?」
「俺の部屋にも、篝火家にも、どこにでも。お前の場所を作る」
胸が、また熱くなる。
赫臣は簡単に言う。
だが、深雪乃にとって場所を持つことは簡単ではない。鵺喰家では、部屋があっても居場所はなかった。母の遺品すら隠され、壊され、記録から名前が削られた。自分の存在も、いつも隅へ追いやられていた。
場所を作る。
写真を置く。
何度でも見る。
それは、深雪乃が消されないということだった。
深雪乃は、目を伏せた。
「……調子に乗らないでください」
声が、少し弱かった。
赫臣は笑った。
「無理だ」
「でしょうね」
「好きだ」
「橋の上です」
「知ってる」
「またですか」
「言うだけならいいだろ」
「言うだけなら」
「大好きだ」
「増やしましたね」
「愛してる」
「さらに増やしましたね」
赫臣は、深雪乃の手を握ったまま、川を見た。
「残せよ、深雪」
低い声だった。
「今日、お前はここにいた。俺の隣にいた。写真にも残る。俺の記憶にも残る。お前の中にも残せ」
深雪乃は、夕陽に光る川面を見つめた。
形に残ることは、まだ怖い。
けれど、残りたいと思った。
自分がここにいたことを。
赫臣の隣に立っていたことを。
普通の恋人のように、写真を撮り、甘いものを食べ、橋の上で口づけられたことを。
深雪乃は、小さく頷いた。
「はい」
赫臣が、深雪乃を見た。
また口づけようとする顔だった。
深雪乃はすぐに片手で彼の胸元を押さえる。
「隙はありません」
赫臣は笑う。
「作る」
「作らないでください」
「無理だ」
「本当に、あなたは」
「隙があるお前が悪い」
「今、ないと言いました」
「ある」
「どこに」
「俺の前にいるところ」
深雪乃は、呆れすぎて一瞬言葉を失った。
その隙に、赫臣は彼女の手の甲へ口づけた。
唇ではなかった。
けれど、深雪乃の頬は結局熱くなる。
「……ずるいです」
「恋人だからな」
「それで何でも済むと思わないでください」
「今日は済ませる」
「今日だけです」
「今日だけな」
赫臣は満足そうに笑った。
深雪乃は、彼の羽織を肩に掛けたまま、もう一度川を見た。
夕陽は少しずつ沈んでいく。
街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。
写真ができるのは後日だと、写真師は言っていた。けれど深雪乃の中には、もう今日の像が少し残り始めている。
赫臣の隣で立った撮影室。
カフェーの甘いプディング。
橋の上の冷たい風。
唇に残る熱。
それらは、事件の記録ではない。
死の証拠でもない。
母の過去でも、鵺喰家の罪でもない。
深雪乃自身の一日だった。
それを残していいのだと、少しだけ思えた。
赫臣が、手を握ったまま言う。
「帰るか」
「はい」
「疲れたか」
「少し」
「車で寝てもいい」
「寝ません」
「俺の肩なら貸す」
「調子に乗らないでください」
「もう乗ってる」
「降りてください」
「無理だ」
いつものやり取りだった。
けれど、深雪乃は少しだけ口元を緩めた。
赫臣がそれを見逃すはずもない。
「笑った」
「笑っていません」
「笑った」
「気のせいです」
「可愛い」
「すぐそれです」
「写真ができたら、これも思い出す」
「写真には今の顔は写っていません」
「俺が覚えてる」
深雪乃は、言い返せなかった。
赫臣は、握った手を離さない。
二人は橋を渡り、帝都の夕暮れの中へ歩き出した。
普通の恋人のように。
けれど、普通ではない二人として。
それでも、今日だけは、それでよかった。




