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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第32話 不死の謎


 祈祷部屋の記録は、翌朝から篝火家の従者と蓮台の部下によって仕分けられた。


 破れた和紙、裂かれた帳面、墨の薄れた札、半分だけ残った巻物。どれも古く、紙の端は湿気で波打ち、触れ方を誤ればさらに崩れそうだった。砂笙はそれらを白布の上に並べ、筆跡、紙質、墨の濃さ、破れ方を照合している。蓮台は横で無言のまま、紙片の番号を控えていた。


 祈祷師、鳴瀬玄磊は死んだ。


 自分が長年使っていた護符を反転させられ、守りの力を内側へ返されて、喉と霊力の流れを締め上げられた。自分の護符に殺された、と蓮台は言った。護符を反転できるのは、護符の構造を知る者か、護符を上回る破魔の力を持つ者。


 深雪乃は、その言葉を胸の奥で何度も噛んでいた。


 護符を上回る破魔の力。


 白絹が「今のあなたには無理ですわ」と言った。


 今のあなたには。


 その言葉の余白が、どうしても頭から離れない。


 祈祷部屋の記録からは、母の名が出た。


 宵待澄子。


 入家の儀。


 北蔵封じ。


 胎内。


 器。


 鍵。


 白き客人。


 篝火への報せ、禁ず。


 百鬼の頭、近づけるべからず。


 白き客人の誓い、鬼に触れれば破れる。


 そして、玄磊が死の直前に残した言葉。


 深雪を返すな。鵺喰に返すな。


 それは、深雪乃自身の出生へ向けられたものだった。これまで、彼女は自分が鵺喰斎臣の妾腹の娘だと思っていた。母は人間の妾だと扱われ、深雪乃は妖の特徴が薄い、人間臭い娘だと蔑まれた。そういうものとして生きてきた。


 けれど、祈祷部屋の記録は、その足元を崩し始めている。


 鵺喰家は母に何かをした。


 母の胎内に関わる術を行った。


 深雪乃は器ではなく鍵と呼ばれた。


 そして、篝火には知らせるなと記されていた。


 赫臣は、その記録の一部を隠そうとした。


 深雪乃は、それを見た。


 その記憶は、赫臣の口づけよりもずっと長く胸に残っている。


 午前の光は、離れの一室に淡く差していた。


 部屋の中には、赫臣、深雪乃、砂笙、白絹がいた。蓮台は祈祷部屋で記録の確認を続けている。今回この部屋へ集められたのは、死体ではない。深雪乃自身について調べるためだった。


 深雪乃は、畳の上に座っている。


 膝の上には、母の鏡がある。櫛の欠片と白藤色の端切れも、布に包んで横へ置いていた。赫臣は深雪乃の隣に座り、いつものように近い。だが今日は、いつもの甘さだけではない。彼の表情には張り詰めたものがある。


 調べる対象が深雪乃だからだ。


 自分の身体。


 自分の傷。


 自分の死ななさ。


 それを他人の前で調べられるというのは、奇妙な感覚だった。


 深雪乃はこれまで、自分の不死身を深く考えないようにしてきた。考えれば怖くなる。傷は塞がる。骨は戻る。毒を盛られても死にきれない。熱を出しても翌朝には息をしている。痛みはある。血も出る。意識も遠のく。けれど、最後のところで死なない。


 それを便利だと周囲は言った。


 丈夫でよろしゅうございますね、と祢々は笑った。


 死なないなら平気でしょう、と使用人たちは笑った。


 深雪乃自身も、そう扱われるうちに、自分の身体をどこか物のように見てきた。痛む身体。壊れても戻る身体。自分のものでありながら、自分の意志ではどうにもならない身体。


 赫臣は、それを嫌がる。


 自分の心を物みたいに扱うな、と言った男は、今、深雪乃の身体の謎を調べようとしている。


 皮肉なものだった。


 白絹が、深雪乃の手首を見た。


「脈は、普通の人間と変わりませんわね」


 彼女の指は、深雪乃の手首へ直接触れていない。薄い絹布越しだ。赫臣が触れさせなかったからである。白絹も、それに反論しなかった。以前ならからかう一言くらい出たかもしれないが、今は真剣だった。


 砂笙は横で記録を取っている。


「体温も通常。妖気の流れは極めて薄い。霊力の表面反応も弱い。少なくとも、一般的な先祖返りの反応ではございません」


 赫臣が低く言う。


「妖の再生とも違う」


「はい」


 砂笙は頷いた。


「妖の再生であれば、傷が塞がる時に妖気が患部へ集まります。肉を繋ぎ、骨を補い、場合によっては妖核が脈打つ。ですが深雪乃様の場合、そうした流れが見えません」


 深雪乃は、自分の手を見下ろした。


 細い手。


 白い指。


 水桶を持ち、雑巾を絞り、母の櫛の欠片を拾い、赫臣の襟を掴んだ手。


 傷を負えば血が出る。


 冷えれば白くなる。


 赫臣に触れられれば熱くなる。


 普通の手に見える。


 それなのに、普通ではない。


「私の身体は、治っているのではないのですか」


 深雪乃が問うと、砂笙は少し言葉を選んだ。


「治癒とは、少し違うように見えます」


「違う」


「はい。治るというより、死へ進む流れが途中で押し戻されているような印象です」


 部屋の空気が静かになる。


 死へ進む流れが押し戻される。


 深雪乃は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 ぴたりと合うようで、恐ろしい言葉だった。


 深雪乃は死なない。


 けれど、それは生きる力が強いからではないのかもしれない。


 死ぬはずの場所から、無理に戻されている。


 何度も。


 何度も。


 誰かの手で。


 何かの力で。


 赫臣の表情が、険しくなる。


「押し戻す力の出どころは」


 砂笙は首を横に振った。


「分かりません。少なくとも、深雪乃様の表面に見える霊力でも妖気でもありません。もっと奥です。通常の測り方では届かない場所にある」


 白絹が、静かに付け加える。


「奥に沈んでいるものが、死を拒んでいるのかもしれませんわね」


 深雪乃の胸が、冷えた。


「私が拒んでいるのではなく?」


 白絹は、すぐには答えなかった。


 琥珀色の瞳が、深雪乃を見ている。


「あなたの意志とは別に、です」


 深雪乃は、息を止めた。


 自分の意志とは別に。


 だから、どれだけ痛くても死なないのか。


 死にたいと思ったことはない。


 けれど、幼い頃、蔵に閉じ込められた夜、朝が来るのが怖かったことはある。毒を盛られて吐き続けた時、眠ったまま起きなければ楽なのかもしれないと思ったこともある。水桶を倒され、冬の廊下で濡れた着物のまま震えていた時、このまま凍えれば終わるのかもしれないと思ったことも。


 それでも、朝には生きていた。


 傷は塞がっていた。


 身体は戻っていた。


 自分が望んだからではない。


 何かが、戻した。


 深雪乃は、膝の上の鏡を握った。


 赫臣がそれに気づき、すぐに彼女の手へ自分の手を重ねる。


「深雪」


「私は、自分の身体を何も分かっていなかったのですね」


 声は静かだった。


 赫臣の手が強くなる。


「誰もお前に教えなかった」


「教えられる人が、いたのでしょうか」


「いた」


 赫臣の答えは、早かった。


 深雪乃は彼を見る。


「いたのですね」


 赫臣は黙った。


 その沈黙で、また胸の奥が冷えた。


 砂笙が、横で言葉を続ける。


「祈祷部屋の記録にも、深雪乃様の身体に関わる可能性のある断片がございます。『胎内封じ』『器にあらず』『鍵』『戻り』『死門』『白き客人の誓い』。すべてが繋がっているとは断定できませんが、鵺喰家が澄子様へ行った術と、深雪乃様の不死身には関係があると見るべきでしょう」


 深雪乃は、静かに息を吸った。


「母の身体に術をかけた結果、私がこうなったということですか」


「可能性の一つでございます」


 砂笙は断定しない。


 それが誠実だと分かっていても、深雪乃には苦しかった。


 可能性。


 断片。


 まだ分からない。


 今は言えない。


 後で話す。


 そういう言葉ばかりが増えていく。


 白絹が言った。


「あなたの不死は、単なる再生ではありません。死を拒む力と、何かを待っている力が混じっているように見えますわ」


「待っている?」


「鍵は、鍵穴があって初めて意味を持ちます」


 深雪乃の背筋が冷える。


 赫臣が白絹を睨む。


「余計なことを言うな」


「余計ではありませんわ」


「不安を煽ってる」


「不安に蓋をして、口づけで塞ぐよりは建設的です」


 赫臣の目が鋭くなる。


 砂笙が小さく息を吐いた。


「白絹様、火薬を畳の上へ撒くような物言いはご遠慮ください。旦那様はよく燃えますので」


「存じておりますわ」


「知っていて撒くのは悪質です」


「必要な火もありますもの」


「その火の始末をするのは、主に私でございます」


 白絹は、わずかに肩をすくめた。


 赫臣は笑わない。


 深雪乃も笑えなかった。


 鍵。


 鍵穴。


 何かを待っている不死。


 死なない身体は、自分を守るためだけではないのかもしれない。何かの時まで深雪乃を生かし続けるためのもの。そう考えると、今までの痛みが別の色を帯びる。


 彼女は、生かされていた。


 誰かの目的のために。


 深雪乃は、鏡を見下ろした。


「母は、それを知っていたのでしょうか」


 砂笙は答えられない。


 白絹も黙る。


 赫臣は、深雪乃を見ている。


 その目に、また隠し事が見えた。


 深雪乃は、その顔を見て、胸の奥が冷たく硬くなるのを感じた。


「赫臣様」


「……何だ」


「ご存じなのですか」


 赫臣の喉が動いた。


「全部じゃねえ」


「その言い方は、少しはご存じということですね」


「断片だけだ」


「では、その断片をください」


 赫臣はすぐには答えない。


 また沈黙。


 深雪乃は、母の鏡を置いた。


 丁寧に。


 それから赫臣へ身体を向ける。


「私は、先ほどから自分の身体について話されています。私の不死が、ただの先祖返りでも妖の再生能力でもないと聞かされました。死へ進む流れが押し戻されている、鍵は鍵穴があって初めて意味を持つ、母への術と関わりがあるかもしれない。そこまで聞いて、赫臣様はまだ断片だけだとおっしゃるのですか」


 赫臣の顔が苦くなる。


「間違ったことを言いたくねえ」


「間違っていてもいいので、隠さないでください」


「間違って刺さる言葉がある」


「隠されても刺さります」


 深雪乃の声は、少しずつ硬くなっていた。


「あなたは私を守りたいのかもしれません。けれど、私から私の身体のことを隠すのは、守ることですか」


「違う」


「では、なぜ」


「怖いからだ」


 赫臣は、低く言った。


 深雪乃は言葉を止めた。


 赫臣の蒼い瞳が、真っ直ぐ深雪乃を見ていた。


「俺が怖い。お前が何かを知って、俺から離れることが怖い。お前の中のものが目覚めることも怖い。お前が俺を壊すかもしれねえって白絹に言われたことも、腹が立つくらい怖い」


 白絹が目を伏せた。


 砂笙も沈黙する。


 赫臣は続ける。


「俺はお前を離したくねえ。だから、言葉を選んでるふりをして、止めてる。分かってる」


 深雪乃の胸が痛んだ。


 赫臣が自分で認めた。


 隠していることを。


 恐れていることを。


 それでも、深雪乃の怒りは消えなかった。


 むしろ、痛みと混ざって余計にややこしくなる。感情というものは、なぜ一種類ずつ並んでくれないのか。人間はもっと単純に設計されるべきだった。設計者がいたなら苦情を出したい。


「怖いから、私に言わないのですか」


「言う」


「今、言っていません」


「深雪」


「私の身体です」


 深雪乃の声が震えた。


 怒りで。


 怖さで。


 ようやく震えたことに、赫臣が気づいた。


 彼の目が揺れる。


「私の痛みです。私の傷です。私の死ねなさです。母の身体に何かをされたのなら、それも私に関わることです。あなたが怖いからといって、私から取り上げないでください」


 部屋の中が静まり返る。


 赫臣は、深雪乃の言葉を真正面から受けた。


 逃げない。


 だが、まだ言えない。


 その顔だった。


 深雪乃は、それが分かってしまった。


「……まだ、言わないのですね」


 赫臣は唇を噛むようにして息を吐いた。


「今は、言えねえ」


「理由は」


「白い髪の主と、白き客人が同じかどうかがまだ分からねえ。先代から聞いた話も、記録の断片も、繋がるには足りねえ。ここで言えば、お前は自分の出生を間違った形で疑う」


「もう疑っています」


「俺が言えば、もっと刺さる」


「刺さらないように隠される方が、腹立たしいです」


「分かってる」


「分かっているのに」


「言えねえ」


 短い言葉だった。


 その短さが、深雪乃をさらに怒らせた。


 彼は言えないのではない。


 言わないのだ。


 理由があるにしても、選んでいる。


 深雪乃は、膝の上の手を握りしめた。


「では、私も言います」


「何を」


「あなたの隠し事は、もう口づけでは許しません」


 赫臣の顔が硬くなる。


 深雪乃は続けた。


「隠し事をしている時のあなたは、口づけが多いと申し上げました。昨日も、祈祷部屋でも。今も、きっとそうなさるのでしょう。言えない、怖い、分かっている。そうおっしゃった後で、抱き寄せて、口づけて、私が黙るのを待つ」


「待ってねえ」


「では、何をしているのですか」


「お前が遠くへ行かねえようにしてる」


「それを、私の言葉を止める形でなさるのですね」


 赫臣の目が痛む。


 深雪乃も痛かった。


 言いながら、自分でも胸が痛い。


 赫臣の口づけを嫌だと思ったことはない。むしろ、何度も救われた。青い顔をしている時、冷えた時、震えない自分が怖い時、彼の熱は深雪乃を現実へ戻した。


 だが、それが隠し事の蓋になるなら話は別だった。


 赫臣は、ゆっくり立ち上がった。


 深雪乃も身構える。


 砂笙が何か言おうとしたが、赫臣はそれより早く深雪乃の腕を取った。


 乱暴ではない。


 しかし、強い。


 彼は深雪乃を引き寄せた。


 深雪乃の身体が、赫臣の胸へ収まる。背の傷を避ける手つきは、どれほど感情が乱れていても変わらない。そのことがまた腹立たしい。大事にしているのは分かる。分かるのに、隠す。


「赫臣様」


「分かってる」


「何を」


「口で塞げば済むと思うなって言うんだろ」


 深雪乃は、彼を見上げた。


 赫臣の顔は、苦しそうだった。


 けれど、彼は深雪乃を離さない。


「分かってる。けど、今離したら、お前が俺から離れる気がする」


「離れるかどうかを決めるのは、私です」


「そうだな」


「分かっているなら」


「分かってても、怖いもんは怖い」


 赫臣の声が低くなる。


「深雪が俺を嫌うのも、怖がるのも、疑うのも、全部怖い。だが、手を離す方がもっと怖い」


 深雪乃の喉が詰まる。


 怒りが、少しだけ揺らいだ。


 赫臣は、いつも強い。横暴で、甘く、言葉が多く、距離が近い。けれど今、彼は怖いと言っている。何度も。深雪乃を失うことを、子どものように怖がっている。


 だからといって、許されるわけではない。


 深雪乃は、それを自分に言い聞かせた。


 赫臣が顔を近づける。


 唇が触れそうになる。


 深雪乃は、彼の胸元を押さえた。


「そうやって口で塞げば済むと思わないでください」


 声は震えなかった。


 だが、手は。


 赫臣の襟を掴んでいた。


 押し返すためではない。


 離れないために。


 それに気づいた瞬間、深雪乃の頬が熱くなる。


 赫臣も気づいた。


 彼の蒼い目が、少しだけ揺れる。


「掴んでる」


「……離れないようにです」


「俺が?」


「私が」


 赫臣の息が止まった。


 深雪乃は目を伏せた。


「腹は立っています。隠し事も許していません。口づけで済むとも思っていません。でも、今ここで離れたいわけではありません」


 言葉にして、自分で少し驚いた。


 それが本音だった。


 怒っている。


 傷ついている。


 怖い。


 それでも、赫臣から離れたいわけではない。


 矛盾している。


 人間は、本当に面倒なものだ。


 赫臣は、深雪乃を抱きしめた。


 今度は強引ではあるが、先ほどよりも静かだった。彼女の言葉を押し潰すためではなく、受け止めるように。背中を避け、肩を包み、深雪乃の頭を自分の胸へ寄せる。


「悪い」


 赫臣が言った。


「謝罪は答えではありません」


「分かってる」


「分かっていることが多いのに、なぜ改善が遅いのでしょう」


「鬼だからな」


「便利に使わないでください」


「悪い」


 深雪乃は、赫臣の襟を掴んだまま、小さく息を吐いた。


 砂笙が、非常に気を遣った声で言う。


「旦那様、深雪乃様。調査は一度ここで区切りましょう。これ以上は、記録の復元が進んでからでなければ、憶測が増えます」


 白絹も頷いた。


「深雪乃さんの身体について、今言えるのは三つですわ。単なる先祖返りではない。妖の再生能力でもない。そして、鵺喰家とお母様の過去が深く関わっている。これ以上は、名前を与えるには早すぎます」


 深雪乃は赫臣の胸元から顔を上げた。


「名前を与えるには早い」


「ええ」


 白絹の声は静かだった。


「けれど、いずれ向き合うことになりますわ。あなたの不死は、あなたを守る祝福だけではありません。誰かの術、誰かの誓い、誰かの願い、誰かの罪。それらが絡んでいる」


 深雪乃は、目を伏せた。


 祝福だけではない。


 願いだけでもない。


 罪。


 その言葉が、いちばん重かった。


 母の身体に何かをした鵺喰家。


 深雪乃の死ななさ。


 祈祷師の記録。


 白い髪。


 白き客人。


 鬼に渡すな。


 すべてが同じ闇の中にある。


 赫臣が、深雪乃の髪に口づけた。


 今度は短く。


 慎重に。


 深雪乃は、すぐに言った。


「今のも、隠し事の口づけですか」


 赫臣は、少しだけ黙った。


 それから、正直に言った。


「少し」


 深雪乃は、彼を睨んだ。


「正直なら許されると思わないでください」


「思ってねえ」


「では」


「したかった」


 深雪乃は言葉を失った。


 赫臣は続ける。


「隠してるからでも、不安だからでもある。けど、それだけじゃねえ。お前がここにいるって確かめたかった。腹立ててても、俺の襟を掴んでるお前が、ここにいるって」


 深雪乃は、手元を見た。


 まだ赫臣の襟を掴んでいる。


 離そうとした。


 赫臣の手が、その上に重なる。


「離すな」


「命令口調です」


「お願いだ。今は離すな」


 深雪乃は、少しだけ迷った。


 そして、離さなかった。


「今だけです」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってる。けど、嬉しい」


「調子に乗らないでください」


「もう乗ってる」


「降りてください」


「無理だ」


 深雪乃は、呆れたように息を吐いた。


 喧嘩は終わっていない。


 何も解決していない。


 赫臣がすべてを話したわけではないし、深雪乃の不死身の謎もまだ形になっていない。ただ、単なる先祖返りでも妖の再生でもなく、母と鵺喰家の過去が深く関わっていることだけが、ようやく見えてきた。


 それは答えではなく、深い穴の縁だった。


 深雪乃は、その穴を覗き込むことになる。


 赫臣はきっと、何度も手を伸ばす。


 隠そうとする。


 抱きしめる。


 口づける。


 深雪乃は何度も刺すだろう。


 それでも、今は赫臣の襟を掴んでいる。


 離れたいわけではないから。


 赫臣は、深雪乃を抱きしめたまま、低く言った。


「愛してる」


「今は、答えになっていません」


「知ってる」


「でも、聞こえています」


 赫臣の腕が、わずかに強くなった。


 深雪乃は目を閉じなかった。


 自分の身体の謎からも、母の過去からも、赫臣の隠し事からも、もう目を逸らしたくなかった。


 それでも、彼の襟を掴む指だけは、しばらく離せなかった。


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