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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第31話 祈祷部屋殺人のトリック解説


 祈祷部屋の戸は、朝になっても開かれたままだった。


 古い木戸の内側には煤けた注連縄が垂れ、風もないのに紙垂がかすかに揺れている。昨夜、鳴瀬玄磊が倒れていた祭壇の前には白い布が掛けられ、血の染みた板床はまだ拭われていない。蓮台の指示で、誰も触れることを許されていなかった。


 山本五郎左衛門の家紋は、奥の壁から部屋を見下ろしている。


 黒地に浮かぶ古い紋。


 怪異を試し、集め、支配する家の印。


 鵺喰家が誇ってきたその紋の下で、古い祈祷師は死んだ。床には破れた記録が散らばり、玄磊は死の直前、深雪乃へ言葉を残した。


 あの子は、鵺喰の器ではない。


 鍵。


 鬼に渡すな。


 白き御方の誓い。


 深雪を返すな。鵺喰に返すな。


 言葉の断片は、夜が明けても深雪乃の中でばらばらに転がっていた。どれも意味を持つはずなのに、まだ繋がらない。繋がらないまま、胸の奥で冷たい音を立てている。


 さらに、赫臣は記録の一部を隠そうとした。


 深雪乃は、それを見た。


 篝火への報せ、禁ず。


 百鬼の頭、近づけるべからず。


 白き客人の誓い、鬼に触れれば破れる。


 その紙片を、赫臣は袖の内へ隠そうとした。


 守るためだと言うのかもしれない。


 今見せるべきではないと思った、と彼は言った。


 けれど、深雪乃の胸には冷えが残っている。好きだと言った男。恋人だと宣言した男。抱きしめ、口づけ、俺だけ見てろと言った男。その男が、自分の出生に関わるかもしれない記録を隠そうとした。


 疑いは、胸の中に細い棘のように残る。


 深雪乃は、祈祷部屋の入口に立っていた。


 赫臣は、すぐ隣にいる。


 近い。


 昨夜より、さらに近い。


 彼は深雪乃の手を握っていた。指を包むように。逃がさないためというより、自分が離れたくないからそうしている手だった。だが、その手の熱を感じるほど、深雪乃の胸の棘もまた意識される。


 好きだ。


 愛してる。


 俺の女だ。


 その言葉と、隠された紙片が、同じ男から出ている。


 人間の心は便利に分けられない。鬼の心も、どうやら似たようなものらしい。厄介さだけは種族を越えて平等である。


 蓮台累は、祈祷部屋の中央にいた。


 彼は板床に膝をつき、玄磊の遺体があった位置を確認している。遺体は一時的に別室へ移され、検分を受けていた。床に残る血痕、祭壇の配置、破れた記録、壁の護符、天井から垂れる鈴と紙垂。ひとつずつ、蓮台は目で追っている。


 砂笙は、破れた記録を並べていた。


 大きな白布の上に、和紙や帳面の切れ端を置き、文字の繋がりを確かめている。彼の指は慎重だった。祈祷部屋の記録は古く、紙が弱っている。少し力を入れれば、それだけでさらに裂けてしまいそうだった。


 白絹は、部屋の端に立っている。


 昨日、赫臣へ「あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない」と告げた女。深雪乃の中に、通常の霊力とも妖気とも違うものを感じ取っている女。今も琥珀色の瞳で、護符と家紋と深雪乃を順に見ていた。


 夜岐も廊下の奥にいる。


 彼女は部屋へ入ることを許されていない。だが、遠巻きにこちらを見ている。その顔には、恐怖と苛立ちと疲労が混じっていた。頼成の事件で疑われ、兼継の死で母の呪いが囁かれ、今度は深雪乃の出生に関わる言葉が出た。夜岐の世界もまた、少しずつ崩れているのだろう。


 親族たちは、さらに遠い。


 彼らは深雪乃を見なくなった。


 正確には、見たいのに見られない。


 目を向ければ怖い。目を逸らしても怖い。そんな顔をしている。人間臭いと蔑んできた娘が、古い祈祷師に「器ではない」「鍵」と呼ばれた。その瞬間から、彼らの中で深雪乃はただの妾腹ではなくなった。


 得体の知れないもの。


 そういう目になりつつある。


 深雪乃は、その視線を感じても表情を変えなかった。


 手は震えていない。


 赫臣が、それに気づいている。


 彼の手が、時折少しだけ力を増す。震えない深雪乃を、かわりに自分の熱で揺らそうとするように。


 蓮台が、祭壇の前に貼られた護符を指した。


「死因は、単純な刃物じゃない」


 皆の視線が集まる。


 蓮台は、壁と祭壇、そして玄磊が倒れていた場所を順に示した。


「玄磊の首には細い黒い痕があった。胸元にも血はあったが、致命傷はそちらだけじゃない。護符による反転だ」


 御厨数馬が、廊下の奥から震える声を出した。


「護符の、反転?」


 蓮台は頷いた。


「この祈祷部屋には、玄磊自身が管理していた護符が大量に貼られている。悪しきものを封じ、外からの妖気や霊障を弾くためのものだ。だが、護符は向きと流れを逆にされると、守る力が内側へ返る」


 白絹が静かに補った。


「井戸の水が外へ流れず、器の中で渦を巻くようなものですわ。護符が本来外へ払う力を、使用者自身へ戻してしまう」


 砂笙が、祭壇の左側から剥がした護符を白布の上へ置いた。


 護符は古い。


 墨で細かい文字が書かれているが、中央の印だけが妙に新しく見える。そこに、裏から薄い墨を透かしたような、反対向きの印が重なっていた。


「玄磊殿の護符は、本人が長年使っていたものです。構造は複雑ですが、核となる流れは三つ。外からの穢れを弾く流れ、内部の霊力を鎮める流れ、そして山本五郎左衛門の家紋へ繋ぐ流れ」


 砂笙は、指で護符の端を示す。


「その三つのうち、鎮める流れだけが反転しております。つまり、玄磊殿の内側の力を鎮めるはずの護符が、逆に玄磊殿の霊力と呼吸を締め上げた」


 深雪乃は、玄磊の首にあった黒い痕を思い出した。


 細い痕。


 まるで目に見えない縄で締められたようだった。


 蓮台は続ける。


「玄磊は自分の護符に殺された。いや、正確には、自分の護符を反転させられて殺された」


 部屋の空気が重くなる。


 自分を守るためのものが、自分を殺す。


 深雪乃は、白絹の警告を思い出した。


 あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない。


 それは赫臣と深雪乃の話だけではないのかもしれない。守りは、向きを変えれば枷になる。護符も、愛も、家も、血筋も。人間は本当に、守るという名で縛るのが好きだ。好きというより、癖だ。救いようがない。


 赫臣の手が、深雪乃の手を包み直した。


 彼も同じことを思ったのかもしれない。


 蓮台が、部屋の護符を見回す。


「問題は、誰が反転させたかだ」


 白絹が答える。


「護符の構造を知る者か、護符を上回る破魔の力を持つ者ですわね」


 砂笙が頷いた。


「構造を知る者であれば、玄磊殿の近くにいた者、祈祷部屋に出入りしていた者、あるいは記録を見られる者に限られます。護符を上回る破魔の力を持つ者であれば、構造を完全に知らずとも力で流れを反転させられる可能性があります」


 親族たちの視線が、わずかに深雪乃へ向かいかけた。


 破魔の力。


 母の古弓。


 破魔矢。


 母の遺品に反応する深雪乃。


 その連想が、彼らの目に浮かんだのが分かった。


 赫臣の声が落ちる。


「今、誰を見た」


 親族たちは一斉に目を伏せた。


 蓮台が、冷たく言う。


「深雪乃が護符を反転させた痕跡はない。祈祷部屋に近づいた記録もない。勝手に怯えるのは自由だが、捜査の邪魔をするな」


 白絹は深雪乃を見た。


 その目は、親族たちとは違う。


 恐怖だけではない。警戒と、探るような光。深雪乃の中にあるものを、また測ろうとしている。


 深雪乃は、静かに問い返した。


「白絹様は、私なら可能だと思われますか」


 赫臣の手に力が入る。


「深雪」


「聞きたいのです」


 白絹は少し黙った。


 それから、曖昧に笑うことなく答えた。


「今のあなたには無理ですわ」


 深雪乃は息を止める。


 今のあなたには。


 ならば、いつかは。


 その続きを、白絹は言わなかった。


 言わなくても、部屋にいた者たちは受け取った。


 赫臣の妖気が、低く震える。


「白絹」


「言葉を選んでおります」


「それでも不愉快だ」


「事実は、たいてい不愉快なものですわ」


「黙れ」


「黙りません」


 白絹は、赫臣ではなく深雪乃を見た。


「深雪乃さん。あなたの中のものが目覚めていない今は、護符を力で反転させることは難しいでしょう。ですが、あなたの母君に関わる破魔術、宵待の術、そしてあなた自身の中にあるものが結びつけば、話は変わります」


 深雪乃の胸が冷える。


「それは、私が危険だという意味ですか」


「危険にも、救いにもなるという意味です」


「どちらですか」


「どちらにもなり得ます」


「答えになっておりません」


「答えが一つで済むなら、ここまで面倒な家にはなっておりませんわ」


 白絹は、鵺喰家の家紋を見上げた。


「鵺喰家は、あなたのお母様に何かを行った。その記録が、ここにあります」


 深雪乃の呼吸が止まる。


 赫臣が、わずかに身じろぎした。


 蓮台が砂笙を見る。


 砂笙は白布の上に並べた紙片を、さらにいくつか寄せた。


「記録の断片から読める範囲ですが、宵待澄子様が鵺喰家へ入った後、祈祷部屋で複数回の儀式が行われております」


 深雪乃は、声を出せなかった。


 母が。


 この部屋で。


 山本五郎左衛門の家紋の下で。


 何かの術を受けた。


 砂笙は慎重に言葉を選ぶ。


「『入家の儀』という表現がありますが、通常の婚姻や妾入りの儀とは異なるようです。『北蔵封じ』『胎内』『器』『鍵』『白き客人』という断片が繰り返し出ております。宵待の破魔術と、鵺喰家の山本五郎左衛門の印を合わせようとした可能性がございます」


「合わせようとした」


 深雪乃は、ようやく声を出した。


 自分の声が、ひどく遠く聞こえる。


「母に、何をしたのですか」


 誰もすぐに答えなかった。


 蓮台でさえ、すぐには言わない。


 砂笙は紙片を見つめ、白絹は目を伏せ、赫臣は深雪乃の手を強く握っている。


 その沈黙が、深雪乃の胸をさらに冷やした。


「詳細は、まだ読めません」


 砂笙が言った。


 嘘ではない声だった。


「紙片が破られており、欠けている部分が多い。意図的に抜き取られた頁もあります。玄磊殿が隠していたのか、犯人が持ち去ったのか、あるいは鵺喰家が以前から削っていたのかは、まだ分かりません」


 蓮台が続ける。


「今ここで言えるのは、鵺喰家が澄子に対して何らかの術を行っていた可能性が高いということだけだ。胎内という文字がある以上、お前の出生に関わる可能性もある。だが、具体的に何をしたのかは、記録を復元しない限り断定しない」


 断定しない。


 その言葉は正しい。


 蓮台らしい。


 けれど、深雪乃の胸は正しさで温かくならない。


 母に何かをした。


 自分の出生に関わるかもしれない。


 器ではなく鍵。


 鵺喰に返すな。


 鬼に渡すな。


 篝火への報せ、禁ず。


 白き客人の誓い。


 どれも、深雪乃の足元を削っていく。


 自分は何なのか。


 母は何をされたのか。


 父は本当に父なのか。


 赫臣は何を知っているのか。


 考えれば、胸の奥が冷えすぎて痛い。


 赫臣が、深雪乃を見た。


 その目には、また隠し事があった。


 深雪乃は、はっきりと感じ取った。


 彼はすべてを知らないのかもしれない。


 だが、何も知らないわけではない。


 少なくとも、記録の断片を見て、思い当たるものがある。昨夜、紙片を隠そうとした時と同じ顔だ。


 深雪乃は、静かに彼へ言った。


「赫臣様」


「……何だ」


「隠し事をしている時のあなたは、口づけが多い」


 祈祷部屋の空気が、また止まった。


 砂笙が、非常に見事に目を伏せた。


 蓮台が眉間を押さえる。


 白絹は少しだけ目を細めた。


 赫臣は、深雪乃を見たまま固まった。


 深雪乃は続ける。


「怒っている時も多い。不安な時も多い。疑いそうになった時も、多かったです。けれど、隠し事をしている時の口づけは、特に多い」


 声は淡々としていた。


 淡々としすぎて、自分でも少し冷たいと思った。


 だが、言わずにはいられなかった。


 赫臣は、昨日から何度も深雪乃を抱きしめた。廊下で、昼の部屋で、白絹の警告の後も。愛してる、大好きだ、俺の女だと囁き、口づけで不安を塞いだ。深雪乃は拒まなかった。拒めなかった。だが、今なら分かる。


 それは愛情であると同時に、隠し事の蓋でもあった。


 赫臣は答えなかった。


 答えないまま、深雪乃を抱き寄せた。


 強く。


 けれど、背の傷には触れないように。


 その慎重さまでが、深雪乃の胸を痛める。彼は本当に深雪乃を大事にしている。傷を避ける。顔色を見る。食事を取らせる。震えない手を心配する。


 それでも、隠す。


 守るという名前で、隠す。


 深雪乃は、赫臣の胸に抱き寄せられたまま、言った。


「答えないのですね」


 赫臣は何も言わない。


 腕だけが、深くなる。


 深雪乃は、赫臣の着物を掴んだ。


「また、口づけで塞ぎますか」


 赫臣は、かすかに息を呑んだ。


 それでも、彼は深雪乃の頬へ手を添えた。


 触るぞ、と言わなかった。


 深雪乃は、それを指摘しようとした。


 けれど、赫臣の顔があまりにも苦しそうだったので、言葉が喉で止まる。


 唇が近づく。


 短い口づけだった。


 ちゅ、と触れて、すぐ離れる。


 それだけで済むはずがないと、深雪乃はもう知っていた。


 赫臣は、もう一度口づけた。


 今度は少し長い。


 頬へ。


 額へ。


 髪へ。


 唇へ。


 深雪乃の言葉を追いかけるように、彼は口づけを重ねる。隠し事を指摘されたことへの答えの代わりに。謝罪の代わりに。守りたいという感情の代わりに。


 深雪乃は拒まなかった。


 けれど、目を閉じなかった。


 唇が離れた時、彼女は赫臣を見た。


「答えになっていません」


 低い声で言う。


 赫臣は、ようやくかすれた声を出した。


「知ってる」


「知っていることが多いですね」


「悪い」


「謝罪も、答えではありません」


「分かってる」


「分かっているなら、なぜ」


 赫臣は深雪乃の言葉を遮らなかった。


 ただ、抱きしめたままだ。


 蓮台が静かに言った。


「この場で言えないことがあるなら、少なくとも捜査に関わる部分は俺に話せ。お前の恋愛事情までは知らんが、証拠隠しは許さない」


 赫臣が蓮台を見る。


「隠す気はねえ」


 深雪乃は、彼の胸元から顔を上げた。


「昨夜、隠そうとなさいました」


「……あれは」


「隠す気があったから、隠そうとなさったのでしょう」


 赫臣は言葉を失った。


 深雪乃の言葉は、また刺さった。


 自分でも分かった。


 しかし、刺さるべき場所だった。


 蓮台が低く続ける。


「記録の一部を隠せば、お前自身も疑われる。篝火家へ報せるなという記録、百鬼の頭を近づけるなという断片。お前がそれを隠そうとした意味は重い」


 砂笙も、控えめだがはっきりと言った。


「旦那様。深雪乃様を守ることと、深雪乃様の知る権利を奪うことは同じではございません」


 赫臣の顔が、さらに苦く歪む。


 砂笙にまで言われたことが響いたのだろう。


 白絹は、赫臣ではなく深雪乃に言った。


「彼は、あなたを失うことを恐れすぎていますわ」


「恐れると、隠すのですか」


「ええ。愚かなことに」


 赫臣が白絹を睨む。


「お前に言われたくねえ」


「私も愚かなことをしましたから、言う資格くらいはありますわ。幻術の件で」


 白絹は目を伏せた。


「恐れや愛情を理由に相手の意思を踏むと、後で必ず返ってくる。深雪乃さんは、踏まれたことを忘れる方ではありませんもの」


 深雪乃は、白絹を見た。


 その言葉には、以前の幻術への反省が含まれていた。


 完全に許したわけではない。


 だが、白絹は自分がしたことを分かっている。


 赫臣も、分かっているはずだ。


 深雪乃は、彼を見上げた。


「赫臣様」


「……ああ」


「私を守りたいのは、分かります」


 赫臣の目が揺れる。


「嬉しくないわけではありません。あなたの腕も、言葉も、口づけも、嫌ではありません」


 言っていて、頬が熱くなる。


 こんな場所で言うことではない。


 祈祷部屋である。


 殺人現場である。


 蓮台も砂笙も白絹もいる。山本五郎左衛門の家紋の前で、何を言っているのか。人間の羞恥心というものは、肝心な時に遅刻する。たいへん困る。


 それでも、続けた。


「けれど、隠されるのは嫌です」


 赫臣は、目を伏せた。


「私の母のことです。私の出生のことです。私が何なのかに関わることです。あなたが怖くても、私から取り上げないでください」


 赫臣の腕が、少しだけ震えた。


 深雪乃は、それを感じ取った。


 彼の震えは、怒りではない。


 恐怖だ。


 深雪乃を失う恐怖。


 真実を知った深雪乃が、自分から離れるかもしれない恐怖。


 あるいは、深雪乃の中のものが何かを壊すかもしれない恐怖。


 それでも、深雪乃には譲れない。


 赫臣は、ようやく言った。


「……分かった」


「本当にですか」


「分かった。全部は、まだ言えねえ。俺も全部知ってるわけじゃねえ。けど、隠さねえ。少なくとも、今出てきた記録は隠さねえ」


「少なくとも、ですか」


「深雪」


「はい」


「俺は、嘘をつきたくねえ。だから、今言える限界を言う」


 深雪乃は黙った。


 赫臣は、深く息を吸った。


「お前の母、澄子が鵺喰家で何らかの術を受けたのは、ほぼ間違いねえ。宵待の破魔術と、鵺喰の山本五郎左衛門の印を合わせようとした。だが、その術には篝火を近づけるなという禁忌があった」


「篝火を」


「ああ。百鬼の頭。鬼。俺の家だ」


「なぜですか」


「そこは、まだ言えねえ」


 深雪乃の眉がわずかに動く。


 赫臣はすぐに続けた。


「隠すためじゃねえ。記録の裏が取れてねえ。俺が知ってるのは、先代から聞いた話と、白い髪に関わる古い噂だけだ。ここで断定すれば、お前に間違った形で刺さる」


 深雪乃は、彼を見つめた。


 先ほどよりは、言葉が違う。


 ただ隠すのではなく、なぜ言えないのかを説明している。


 完全ではない。


 まだ足りない。


 けれど、隠し続けるための沈黙ではなかった。


 深雪乃は、小さく頷いた。


「では、記録を復元してください」


 蓮台が答える。


「する。祈祷部屋の記録はすべて押さえる。欠けた頁の所在も調べる。玄磊が殺された理由も、その記録にあるはずだ」


 砂笙が言う。


「護符を反転させた者は、玄磊殿の護符を知る者、またはそれを上回る破魔の力を持つ者です。記録を破った者と同一とは限りませんが、重なる可能性は高いでしょう」


 白絹が静かに付け足した。


「そして、深雪乃さんのお母様に行われた術を知られたくない者ですわね」


 部屋の空気が沈む。


 鵺喰家が母へ行った術。


 その詳細は、まだ明かされない。


 しかし、影だけははっきり見え始めている。


 深雪乃は、山本五郎左衛門の家紋を見上げた。


 黒い紋は黙っている。


 母は、この紋の下で何をされたのか。


 自分は、その結果として生まれたのか。


 鍵とは何なのか。


 深雪乃は、胸の奥の冷えを感じながら、赫臣の腕から少しだけ離れた。


 赫臣の目が揺れる。


「深雪」


「離れるわけではありません」


 そう言うと、赫臣の表情が少しだけ緩んだ。


 深雪乃は続ける。


「ただ、今は自分の足で立ちたいのです」


 赫臣は、何か言いたそうにした。


 けれど、飲み込んだ。


 そして、手だけを差し出した。


 深雪乃は、その手を見た。


 少し迷い、取る。


 赫臣の顔が、また少し緩む。


「調子に乗らないでください」


「まだ何も言ってねえ」


「顔が言っています」


「顔か」


「あなたも、顔に出ます」


「深雪にだけだ」


「便利な言い訳です」


「本当だ」


 赫臣は、深雪乃の手を握ったまま、そっと引き寄せた。


 抱きしめる寸前で止まる。


 深雪乃を見る。


 待っている。


 深雪乃は、ほんの少しだけ息を吐いた。


「少しだけなら」


 赫臣は、すぐに抱きしめた。


 強すぎない。


 けれど、確かに。


 深雪乃は、その腕の中で目を閉じた。


「また口づけますか」


 低く聞く。


 赫臣は、少しだけ黙った。


 それから、髪に口づけた。


「多いって言われたばかりだ」


「しましたね」


「でも、したい」


「正直ですね」


「隠さねえって言った」


「それをここで適用しないでください」


 赫臣は、深雪乃の額へ短く口づけた。


「これくらいで我慢する」


「十分多いです」


「我慢してる」


「本当に?」


「かなり」


 深雪乃は、呆れたように目を伏せた。


 だが、拒まなかった。


 拒まない自分も、もう分かっている。


 彼の口づけは、答えにはならない。


 隠し事の代わりにもならない。


 それでも、今の赫臣がただ逃げるために触れているのではないことも、少しだけ分かった。


 祈祷部屋の古い空気の中、床には破れた記録が並べられている。


 護符は反転され、祈祷師は自分の守りに殺された。


 母は、鵺喰家で何らかの術を受けた。


 深雪乃の出生には、器ではなく鍵という言葉が関わっている。


 詳細はまだ闇の中だ。


 だが、闇はもう完全な闇ではない。


 紙片の裂け目から、細い光が漏れ始めている。


 深雪乃は、赫臣の胸元に額を預けながら、目を開いた。


 山本五郎左衛門の家紋が、奥の壁からこちらを見下ろしている。


 恐ろしくはあった。


 けれど、もう目を逸らす気はなかった。


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