第30話 祈祷部屋の死
白絹の警告は、夜になっても深雪乃の中から消えなかった。
あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない。
その言葉は、赫臣へ向けられたものだった。けれど、刃の先は深雪乃の胸にも届いていた。自分の中にあるという、通常の霊力とも妖気とも違うもの。神気に近く、けれどそれだけではないもの。断つことも、縛ることも、戻すことも、壊すこともできるかもしれないもの。
私は何なのですか。
そう問うた深雪乃へ、白絹は答えなかった。
答えられない、と言った。
言葉にすれば、深雪乃の中のものが反応するかもしれないからだと。
名前は力を呼ぶ。
正体に近い言葉ほど、縛りにも鍵にもなる。
その説明を聞いてから、深雪乃は自分の名すら少し違って聞こえるようになっていた。
深雪乃。
母が呼んでくれた名。
赫臣が何度も呼ぶ名。
鵺喰家の者たちが、長いあいだ侮りとともに呼んできた名。
その名は、自分を繋ぎとめるものなのか。それとも、何かを封じるためのものなのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が冷える。
赫臣は、その不安を見抜いていた。
昼の部屋で何度も口づけ、廊下でも抱きしめ、答えになっていませんと深雪乃が言っても、彼は「知ってる」と返しながら唇を重ねた。答えではない。それでも、深雪乃が自分を遠くへ切り離さないための熱にはなった。
だが、口づけで塞げる不安には限りがある。
夜の鵺喰家は、また静かすぎた。
死が続く屋敷は、音を失う。喜周、祢々、頼成、兼継。親族も使用人も、皆が自分の足音を恐れるように歩いている。廊下を渡る草履の音も、襖を閉める音も、いつもより浅い。まるで、次に死ぬ者の名を屋敷そのものが聞き逃さないよう、全員が息を潜めているようだった。
深雪乃は、赫臣の部屋で母の鏡を抱いて座っていた。
膝の上には、櫛の欠片と白藤色の端切れもある。白い髪は蓮台と砂笙が保管している。桜の根元で見つかったそれは、母本人のものではなく、母を愛した男に関わる可能性があると赫臣は言った。けれど、その先はまだ話していない。
後で。
必ず。
約束は増えていく。
増えるばかりで、まだ解かれない。
赫臣は深雪乃の隣に座り、彼女の髪を指で梳いていた。夜の行灯の光が、彼の金の髪と耳飾りを淡く照らす。煙管の香りは薄い。今日は彼も、いつものようにゆっくり煙を味わう気分ではないのだろう。
「深雪」
「はい」
「眠れそうか」
「眠れません」
即答すると、赫臣は苦く笑った。
「正直でいい」
「嘘をついても見抜かれるでしょう」
「見抜く」
「たいへん厄介です」
「恋人だからな」
「その言葉も、たいへん厄介です」
赫臣は、深雪乃の髪へ口づけた。
「便利だろ」
「便利に使いすぎです」
「好きだ」
「話を逸らしましたね」
「逸らしてねえ」
「逸らしています」
「好きなのは本当だ」
「知っています」
そう返した瞬間、深雪乃は自分で少し驚いた。
知っています。
自然に出た。
赫臣も気づいたのだろう。彼の指が、髪の中で一瞬止まった。
「もう一回言え」
「嫌です」
「知ってるって」
「調子に乗らないでください」
「もう乗ってる」
「降りてください」
「無理だ」
言い合いはいつもの形に戻りかけた。
その時、廊下の向こうで悲鳴が上がった。
まただ。
深雪乃は、思った。
怖いより先に、そう思った。
また誰かが死んだのだ、と。
赫臣の手が、深雪乃の肩を包む。
「深雪」
「行きます」
「まだ何も分からねえ」
「分かります」
声は、低く出た。
「この屋敷で、あの声が上がる時は、もう誰かが死んでいます」
赫臣の顔が歪んだ。
痛みを見るような顔だった。
深雪乃が、死を予測することに慣れ始めている。そのことを、彼は嫌がっている。けれど、今は止めなかった。
「俺の後ろだ」
「はい」
「手、離すな」
「はい」
深雪乃は、母の鏡を小さな布に包んで懐へ入れた。櫛と端切れも包む。赫臣は何も言わない。止めない。これらが深雪乃にとってただの形見ではないことを、彼はもう知っている。
二人は廊下へ出た。
悲鳴は北側からだった。
北蔵よりさらに奥、母屋の陰に隠れるように建つ古い祈祷部屋。深雪乃は、その場所をよく知らない。幼い頃から近づくなと言われていた。山本五郎左衛門の家紋を祀る、鵺喰家の古い祈祷師だけが出入りを許された部屋だと聞かされていた。
そこにいるのは、鳴瀬玄磊。
鵺喰家に長く仕えた祈祷師だった。
年は七十を越えていたはずだ。深雪乃が幼い頃、母屋の廊下で一度だけすれ違ったことがある。灰色の髪を後ろで束ね、骨ばった手に数珠を持ち、深雪乃を見た瞬間、目を伏せた老人。その目には侮りではなく、恐れに似たものがあった。
深雪乃は、なぜかその目を覚えていた。
当時は分からなかった。
けれど今なら、違う見方ができる。
彼は深雪乃を見下していたのではない。
何かを知っていて、見ないふりをしたのかもしれない。
廊下を曲がるたび、空気が古くなる。
灯りは少なく、壁には退色した札が貼られている。床板は湿気で暗く、歩くたびにきしんだ。使用人たちが遠巻きに立っている。誰も祈祷部屋へ近づこうとしない。小鈴は顔を真っ青にし、佐助は唇を固く結んでいる。夜岐もいた。彼女の顔は、事件が続くたびに少しずつ美しさの下の余裕を失っている。
親族たちは、互いに距離を取っていた。
深雪乃を見る目が、さらに変わっている。
恐れている。
赫臣の恋人になった娘としてではない。
死なない娘として。
母の遺品に反応する娘として。
白絹が何かを感じ取った娘として。
彼らは、深雪乃を人間の娘として見ることを、少しずつやめ始めている。
その視線に、赫臣の妖気が冷たく反応した。
親族たちは一斉に目を逸らす。
それでも、恐怖は消えない。
むしろ、深雪乃への恐れと赫臣への恐れが混ざり、屋敷全体がさらに歪んでいくようだった。
祈祷部屋の前には、蓮台と砂笙がすでにいた。
白絹も、少し遅れて来ている。
部屋の戸は開いていた。古い木戸の内側には、黒く煤けた注連縄が垂れている。その奥から、香の匂いと血の匂いが混ざって流れ出ていた。
蓮台が深雪乃を見る。
「来たか」
「はい」
「今回も、見ない方がいいと言っても見るんだろうな」
「はい」
「だろうな」
蓮台は短く息を吐いた。
赫臣が深雪乃の前に出る。
「俺のそばから離すな」
「お前に言われなくても、離さねえよ」
蓮台が返す。
赫臣は気に入らなそうだったが、言い返さなかった。
深雪乃は、祈祷部屋を見た。
室内は、ひどく古かった。
床は板張りで、中央に低い祭壇がある。壁には古い札と呪符が幾重にも貼られ、天井からは煤けた鈴と紙垂が垂れていた。奥の壁には、鵺喰家の家紋が掲げられている。山本五郎左衛門の系譜を示す紋。黒地に、怪異を従えるような複雑な意匠。古く、重く、見るだけで胸が押されるような紋だった。
その家紋の下で、鳴瀬玄磊は死んでいた。
祭壇に寄りかかるように倒れている。
白い狩衣は胸元から赤く染まり、片手は床に広がった紙束へ伸びていた。首には細い黒い痕があり、口元には乾いた血がついている。目は開いていた。何かを見たまま固まった目だった。
床には、古い記録が破れて散らばっていた。
和紙。
帳面。
巻物の切れ端。
札の裏書き。
墨で書かれた文字が、床の上にばらばらに広がっている。雨上がりの湿気を吸って、紙の端は少し波打っていた。破られた箇所は新しい。紙の繊維がまだ白く、乱暴に裂かれたことが分かる。
紙を破る音。
井戸端の石から聞こえた、あの音が深雪乃の耳の奥で蘇った。
ぴり。
ぴり、と。
深雪乃の指が、赫臣の手を握る。
赫臣はすぐに握り返した。
「聞こえるか」
「まだ、音ではありません」
「まだ?」
「思い出しています。井戸端の音を」
蓮台が床の紙を見た。
「祢々の死の時と繋がるか」
「分かりません。でも、破れた紙の音が似ています」
蓮台は頷いた。
「触るな。紙はこっちで拾う」
砂笙がすでに膝をつき、紙片を一枚ずつ確認している。白手袋のような布を指に巻き、紙の端を丁寧に持ち上げていた。彼の表情はいつもより硬い。
「旦那様」
砂笙の声が低くなった。
赫臣がそちらを見る。
「何だ」
「記録に、宵待澄子様の名がございます」
深雪乃の心臓が、静かに跳ねた。
母の名。
また。
赫臣の手に力が入る。
蓮台が砂笙の手元を覗く。
「読めるか」
「断片です。『宵待澄子、入家の儀』。その下に『北蔵封じ』『胎内』の文字。こちらには『山本五郎左衛門の印を一時借り受け』とあります」
胎内。
深雪乃の胸が、冷えた。
白絹の目が細くなる。
赫臣の顔が変わった。
今度は、はっきりと。
深雪乃は、それを見逃さなかった。
「赫臣様」
「読むな」
赫臣の声は、低く鋭かった。
深雪乃は彼を見る。
「なぜですか」
「今は読むな」
「私の母の記録です」
「だからだ」
「だから、読みます」
赫臣は、言葉を詰まらせた。
その一瞬の隙に、砂笙が別の紙片を拾う。
文字は欠けている。
だが、いくつか読めた。
『胎内封じ、失敗の恐れ』
『深雪、器にあらず』
『白き髪の客人、再来』
『五郎左衛門の紋にて縛るべからず』
深雪乃の耳が、遠くなる。
深雪。
器にあらず。
白き髪の客人。
五郎左衛門の紋にて縛るべからず。
赫臣が、ほとんど反射的に動いた。
彼は床に落ちていた紙片の一部へ手を伸ばし、素早く拾い上げる。深雪乃の視界から隠すように、袖の内側へ滑らせようとした。
深雪乃は、見た。
はっきりと。
赫臣が記録の一部を隠そうとしたことを。
胸の奥が、静かに冷える。
怒りより先に、冷えが来た。
「赫臣様」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
赫臣の手が止まる。
「今、何をなさいましたか」
部屋の空気が止まった。
蓮台の目が赫臣へ向く。
砂笙が息を呑む。
白絹は、黙っている。
赫臣は、深雪乃を見た。
その目に、苦痛があった。
「深雪」
「答えてください」
「これは」
「答えてください」
深雪乃は、同じ声で繰り返した。
赫臣の手の中には、細い紙片がある。
古い記録の一部。
深雪乃には、最後の一行だけが見えた。
『篝火への報せ、禁ず』
篝火。
赫臣の家。
その文字を見た瞬間、深雪乃の胸がまた冷えた。
赫臣は、その紙片を隠そうとした。
深雪乃に見せないために。
あるいは、蓮台や白絹に見せないために。
どちらにしても、隠そうとした。
「返してください」
深雪乃が言った。
赫臣は動かない。
「赫臣様」
「今は」
「今です」
深雪乃の声は、震えなかった。
「私の母の記録です。私の出生に関わるかもしれないものです。あなたが隠す理由が、私には分かりません」
赫臣は、唇を噛むようにして息を吐いた。
それから、ゆっくり紙片を差し出した。
深雪乃が受け取る前に、蓮台が紙を挟む道具でそれを取った。
「証拠だ。素手で持つな」
その声で、深雪乃は少しだけ現実へ戻った。
蓮台は紙片を白い紙の上へ置く。
文字が読める。
『篝火への報せ、禁ず』
『百鬼の頭、近づけるべからず』
『白き客人の誓い、鬼に触れれば破れる』
深雪乃は息を止めた。
百鬼の頭。
鬼。
篝火。
白き客人の誓い。
赫臣の顔が、苦しげに歪む。
白絹が静かに言った。
「なるほど」
赫臣が白絹を睨む。
「黙れ」
「黙っても、文字は消えませんわ」
蓮台が低く言う。
「赫臣。なぜ隠そうとした」
「深雪に、今見せるべきじゃねえと思った」
「それだけか」
赫臣は答えない。
深雪乃は、彼を見つめた。
「それだけではありませんね」
赫臣の目が揺れる。
「赫臣様は、この記録に心当たりがある」
「……ある」
「白い髪と、母を愛した男にも」
「ああ」
「篝火への報せを禁じる記録にも」
赫臣は、しばらく沈黙した。
深雪乃は、彼の沈黙が苦しかった。
恋人になった。
好きだと言った。
好きだと言われた。
何度も抱きしめられ、口づけられた。
昼でも夜でも、赫臣は距離を近づけ、深雪乃を自分の女だと宣言した。
それなのに、彼は今、深雪乃の出生に関わるかもしれない記録を隠そうとした。
守るためか。
恐れたからか。
それとも、赫臣自身にとって都合が悪いからか。
分からない。
分からないことが、胸に痛かった。
その時、鳴瀬玄磊の喉から、ごぼ、と小さな音がした。
全員が振り向く。
死んだはずの老人の身体が、わずかに動いた。
蓮台がすぐに駆け寄る。
「生きているのか」
玄磊の目は、ほとんど焦点が合っていなかった。
だが、唇だけが震えている。
首の黒い痕は深く、胸の血も多い。長くはない。誰が見ても分かった。老人は死にかけている。いや、ほとんど死の向こう側へ行きながら、言葉だけがこちらへ残ろうとしていた。
深雪乃は、赫臣の手を離した。
赫臣が止めようとする。
「深雪」
「聞きます」
短く言って、深雪乃は玄磊へ近づいた。
蓮台が一瞬ためらい、それから場所を空ける。
「近づきすぎるな。血に触れるな」
「はい」
深雪乃は、玄磊のそばへ膝をついた。
老人の目が、ゆっくり動く。
深雪乃を見た。
その瞬間、玄磊の濁った瞳に恐怖が浮かんだ。
深雪乃自身への恐怖ではない。
もっと古い何かを見た恐怖。
彼は、喉を震わせた。
「……み、ゆき……」
深雪乃の胸が鳴る。
「私です」
玄磊の唇が、血で濡れる。
「……澄子、さま……の……」
「母を、ご存じなのですね」
玄磊は、答える代わりに苦しげに息を吸った。
蓮台が、低く言う。
「無理に喋らせるな」
だが、玄磊自身が喋ろうとしていた。
最後の力を、言葉へ変えようとしている。
「……あの子は……鵺喰の、器では……」
深雪乃の呼吸が止まる。
玄磊は、続ける。
「器では、ない……鍵……」
鍵。
白絹の言葉が蘇る。
名前は、縛りにも鍵にもなる。
深雪乃は、震えそうになる手を膝の上で握った。
「鍵とは、何の鍵ですか」
玄磊の目が、赫臣の方へ動いた。
赫臣を見た。
いや、赫臣の向こうにある何かを見たようだった。
「鬼に……渡すな……」
赫臣の顔が硬くなる。
深雪乃の胸が冷える。
「鬼とは、赫臣様のことですか」
玄磊は答えない。
喉がひゅう、と鳴った。
砂笙が、青ざめた顔で記録を拾っている。
白絹は、深雪乃をじっと見ている。
玄磊は、最後にもう一度唇を動かした。
「白き……御方の……誓い……破れれば……百鬼が……」
声が消えかける。
深雪乃は、思わず身を乗り出した。
「百鬼が、何ですか」
玄磊の目が見開かれた。
恐怖が、そこに浮かぶ。
「深雪を……返すな……鵺喰に……返すな……」
その言葉を最後に、玄磊の身体から力が抜けた。
沈黙。
祈祷部屋の中に、ひどく重い沈黙が落ちた。
深雪乃は、動けなかった。
深雪を返すな。
鵺喰に返すな。
鬼に渡すな。
器ではない。
鍵。
白き御方の誓い。
百鬼が。
言葉の断片が、胸の中でばらばらに散らばる。
どれも意味を持ちそうで、どれもまだ繋がらない。
ただ一つだけ、分かることがある。
玄磊は、深雪乃の出生に関わる何かを知っていた。
母が鵺喰家にいた頃の事情を知っていた。
そして、死の直前にそれを深雪乃へ残そうとした。
蓮台が、玄磊の脈を確認する。
「死亡」
その一言で、部屋の空気が現実へ戻った。
親族たちの間から、低い悲鳴のようなざわめきが漏れる。
「鍵」
「器ではない」
「鵺喰に返すなとは」
「深雪乃は、いったい」
視線が、深雪乃へ集まる。
以前とは違う。
侮りではない。
嫌悪だけでもない。
恐怖。
親族たちは、深雪乃を恐れ始めていた。
死なない娘。
母の遺品に選ばれる娘。
山本五郎左衛門の家紋の前で、古い祈祷師が「器ではなく鍵」と言い残した娘。
鵺喰に返すな、と言われた娘。
彼らの目が、深雪乃を人ではないものを見る目へ変わっていく。
赫臣が、深雪乃の前へ立った。
その背中は大きい。
怒りを帯びた妖気が、祈祷部屋の空気を押し返す。
「見るな」
低い声だった。
「その目で深雪を見るな」
親族たちは、息を呑んで目を逸らした。
だが、恐怖は消えない。
深雪乃自身も、消せなかった。
私は何なのですか。
白絹に問うた言葉が、また胸の中で鳴る。
答えはまだない。
ただ、鍵という言葉が増えた。
赫臣は深雪乃を振り返った。
彼の顔には、いくつもの感情が混じっていた。
怒り。
恐れ。
後悔。
そして、何かを隠しきれなくなった者の苦しさ。
深雪乃は、彼の手元を見た。
先ほど隠そうとした紙片は、もう蓮台の手元にある。
けれど、赫臣の袖の中にまだ何かあるのではないかという疑いが、胸の奥で生まれてしまう。
それが悲しかった。
疑うのは、赫臣だけではない。
深雪乃もまた、赫臣を疑い始めている。
「赫臣様」
声は静かだった。
赫臣は、痛そうな顔をした。
「後で」
「今ではないのですね」
「今ここでは、言えねえ」
「またですか」
「……悪い」
深雪乃は、目を伏せた。
謝罪は受け取れる。
だが、答えの代わりにはならない。
何度もそう思った。
今日もまた、そうだった。
蓮台が、破れた記録を拾いながら言う。
「この部屋の記録はすべて押収する。誰が何を破ったか、元の順番、欠けた部分を調べる。玄磊が殺された理由は、この記録を見られたからか、喋ろうとしたからか、どちらかだろう」
砂笙が、床の紙片を見ながら低く言った。
「山本五郎左衛門の家紋、宵待澄子様、胎内封じ、白き客人、篝火への報せを禁ず。すべて、深雪乃様の出生に関わっている可能性が高うございます」
白絹が深雪乃を見た。
その目には、先ほどよりもはっきりした警戒と哀れみがあった。
哀れみ。
深雪乃は、その目が少し嫌だった。
けれど、白絹は何も言わなかった。
言えば名前が力を呼ぶと言った女は、今も慎重に言葉を選んでいる。
深雪乃は、山本五郎左衛門の家紋を見上げた。
黒地に浮かぶ古い紋。
怪異を試し、集め、支配する家の印。
鵺喰家は、その紋を誇ってきた。
その紋の下で、祈祷師は死んだ。
そして、深雪乃を鵺喰に返すなと言い残した。
では、深雪乃は誰に属するのか。
鵺喰ではないのなら。
母の娘であることは確かだ。
だが、父の娘なのか。
山本五郎左衛門の器ではなく鍵とは何なのか。
鬼に渡すなとは、赫臣から引き離す意味なのか。
それとも、赫臣へ近づけるなという古い警告なのか。
胸の奥で、何かが微かに脈打った。
深雪乃は、思わず母の鏡を懐の上から押さえる。
鏡は熱を持っていない。
けれど、沈丁花の香りがほんのわずかにした気がした。
母様。
心の中で呼んだ。
返事はなかった。
赫臣が、深雪乃の肩を抱いた。
慎重に。
けれど、離さない力で。
「ここを出る」
「まだ」
「これ以上は駄目だ」
「命令ですか」
「お願いにしたいが、今は命令でも連れていく」
深雪乃は、赫臣を見た。
その顔がひどく苦しそうだったので、言葉が止まった。
怒りたい。
隠そうとしたことを責めたい。
今こそ話せと言いたい。
けれど、赫臣は今にも自分の中の何かで裂けそうな顔をしていた。深雪乃を守りたい気持ちと、隠してきたものが崩れ始めた恐怖と、先ほど隠そうとした罪悪感が、彼の中でぶつかっている。
深雪乃は、小さく頷いた。
「今だけです」
「分かってる」
「後で、お話しいただきます」
「ああ」
「隠した紙のことも」
「ああ」
「白い髪のことも」
「ああ」
「母を愛した男のことも」
赫臣の手が、一瞬だけ止まる。
それから、彼は頷いた。
「ああ」
深雪乃は、彼の袖を軽く掴んだ。
「逃げないでください」
赫臣の蒼い瞳が、深雪乃を見る。
「逃げねえ」
「約束です」
「約束する」
深雪乃は、祈祷部屋をもう一度見た。
山本五郎左衛門の家紋。
死んだ祈祷師。
破れた記録。
血の匂い。
床に散らばった紙。
そのすべてが、深雪乃の出生へ向けて、暗い扉を開こうとしている。
部屋を出る時、親族たちの視線がまた深雪乃へ向いた。
今度は誰も、すぐには目を逸らさなかった。
恐怖に固まった目。
得体の知れないものを見る目。
人間臭いと蔑んできた娘が、実は自分たちの知らない何かだったのではないかと怯える目。
深雪乃は、その視線の中を歩いた。
赫臣の腕に支えられながら。
手は震えていなかった。
そのことに気づき、深雪乃は自分の指を見下ろした。
震えていない。
まただ。
胸は冷えているのに。
怖いのに。
怒りたいのに。
手は震えない。
赫臣も、それに気づいた。
彼の腕が、静かに深雪乃を抱き寄せる。
「後で震えろ」
低い声だった。
深雪乃は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「命令口調は嫌いです」
「お願いだ。後で震えろ。俺の前で」
深雪乃は答えなかった。
けれど、彼の袖を掴む指には少しだけ力を込めた。
祈祷部屋の戸が、背後でゆっくり閉められる。
古い木が軋む音が、紙を破る音に少し似ていた。




