第29話 白絹の警告
桜の根元で見つかった白い髪は、白い紙の上に置かれていた。
庭から引き上げられたそれは、雨に濡れていたはずなのに、不思議と水を含んだ様子が薄かった。細く、長く、銀にも白にも見える。髪の一本にすぎないはずなのに、部屋の中へ運び込まれた途端、その場の空気をわずかに変えた。
冷たくなる。
けれど、穢れではない。
深雪乃には、うまく言葉にできなかった。
桜の根元で兼継が死に、胸には矢で射抜かれたような傷があった。だが矢はない。傷は、本物の矢ではなく、破魔術を模した霊具で作られたものだと蓮台が見立てた。桜に結ばれていた母の白藤色の着物の糸は、兼継を呼び寄せる道標だった。足跡は途中で消えており、妖か霊の仕業に見えるよう作られていた。
母の霊。
母の呪い。
鵺喰家の者たちが、そう怯えるには十分な現場だった。
けれど、蓮台と砂笙は人為的な偽装の痕跡を拾った。土を均した跡、踏み板の痕、弱い幻術の気配。すべてが、母の祟りに見せるために配置されている。
それでも、白い髪だけは違った。
赫臣は、その白い髪を見た瞬間に表情を強張らせた。
白絹もまた、いつもの余裕をわずかに失った。
そして赫臣は言った。
その髪は、母を愛した男に関わる可能性がある、と。
深雪乃は、その言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
母を愛した男。
母に鏡を渡した手。
母の髪を櫛で梳いた手。
白藤色の着物の遺響の中で、母を逃がそうとしていた手。
手首に黒い組紐と銀の輪をつけた誰か。
その人物に、白い髪が関わる。
そして、兼継の死体のそばに、その白い髪が落ちていた。
何もかもが、少しずつ近づいている。
母の過去へ。
鵺喰家の罪へ。
そして、深雪乃自身の不死身の理由へ。
桜の現場検証がひとまず終わり、白い髪は蓮台と砂笙の立ち会いのもと、離れの一室へ運び込まれた。鵺喰家の者たちは遠ざけられている。部屋にいるのは、蓮台、砂笙、赫臣、深雪乃、そして白絹だけだった。
行灯は灯されていない。
昼の名残の光が、障子越しに薄く差している。雨上がりの庭はまだ濡れており、緑の匂いが室内まで入り込んでいた。白い髪は、低い文机の上に置かれた白紙の中央にある。たった一本の髪が、まるで小さな刃のように見えた。
蓮台は腕を組んでいる。
砂笙は眼鏡の奥で白い髪を見つめていた。
赫臣は深雪乃の隣に立ち、片手で彼女の手を握っている。強くはない。けれど、離す気はない手だった。桜の現場で一瞬、深雪乃を疑いそうになった自分を彼はまだ許せていないのだろう。あの後から、彼の手は何度も深雪乃の指を確かめるように包んだ。
深雪乃は、その手を振り払わなかった。
刺した言葉は、まだ胸に残っている。
疑っている顔で愛を囁くのは、器用ですね。
自分で言っておきながら、あれは確かに鋭かったと思う。赫臣の顔が歪んだ。だが、撤回する気はなかった。愛の言葉で疑いを塞がれれば、深雪乃は何を信じればいいのか分からなくなる。
赫臣は謝った。
疑いそうになったことも、それを愛で押し潰そうとしたことも認めた。
その正直さが、深雪乃をさらに苦しくさせている。
嘘をつかない人は、時に残酷だ。
だが、嘘で守られるよりはいい。
深雪乃は、そう思うことにした。
白絹は、文机の前へ静かに座った。
白地に金糸の着物が、薄暗い部屋の中で淡く浮かぶ。腰まで届く淡い金茶の髪は、いつもより少し乱れていた。幻術を操り、言葉で人を刺し、余裕を崩さない玉藻前の先祖返り。その彼女が、今は明らかに慎重だった。
白絹は、白い髪へ指を近づけた。
触れない。
寸前で止める。
琥珀色の瞳が、細くなる。
「……やはり、妙ですわね」
蓮台が聞いた。
「何が分かる」
「人の髪ではあります。少なくとも、形は」
「形は?」
「気配が、髪一本にしては重すぎます。死者の怨念とも違う。妖の抜け毛でもない。退魔具に使う依代とも少し違う」
砂笙が、低く言う。
「霊力ですか」
「霊力に近いものはありますわ。けれど、通常の霊力ではありません。妖気でもない。清めの気配もありますが、神社の御神体に残るような整ったものとも違う」
白絹は、そこで少し黙った。
深雪乃は、その横顔を見る。
白絹が言葉を選んでいる。
それ自体が、すでに不穏だった。
彼女は普段、言葉で相手を追い詰める時に迷わない。深雪乃へ幻術をかけた時も、母に見捨てられる幻を見せた時も、赫臣を挑発した時も、言葉は滑らかだった。だが今は、違う。
言葉にした瞬間、何かが壊れることを恐れているようだった。
赫臣が低く言った。
「はっきり言え」
白絹は、赫臣を見た。
「はっきり言えば、あなたは怒りますわ」
「今も怒ってる」
「でしょうね」
「なら同じだ」
「同じではありません」
白絹の声には、珍しく棘よりも重さがあった。
「赫臣様。あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない」
室内の空気が凍った。
深雪乃の指が、赫臣の手の中でわずかに動く。
赫臣の妖気が、一瞬で膨れ上がった。
行灯の火もない部屋なのに、影が濃くなったように見える。彼の耳飾りが小さく鳴る。指輪が、首飾りが、腕輪が、静かに霊糸の気配を宿す。空気の中に見えない線が張られていく。
蓮台が舌打ちした。
「赫臣」
砂笙が即座に一歩前に出る。
「旦那様」
だが赫臣は、白絹から目を離さなかった。
「誰が、何を壊すって?」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、その声だけで十分だった。
白絹の髪の先が、わずかに揺れる。霊糸が近いのだろう。以前、白絹の髪は赫臣の怒りで切られた。あの時、彼は白絹へ本気の警告をした。謝る相手を間違えるな、と。
今も、その時と同じ温度がある。
いや、もっと悪い。
深雪乃に関わる言葉で、赫臣はさらに危険になっている。
白絹は、恐れていないわけではなかった。
それでも、引かなかった。
「深雪乃さんのことですわ」
赫臣の霊糸が鳴った。
深雪乃は、赫臣の手を握り返した。
「赫臣様」
その一言で、赫臣の気配がほんの少し揺らぐ。
深雪乃は静かに言った。
「白絹様のお話を聞きます」
「深雪」
「聞かなければ、何も分かりません」
赫臣は、歯を噛みしめた。
それでも、霊糸の気配をわずかに抑えた。
白絹は、それを見て小さく息を吐いた。
「深雪乃さん。あなたは、本当に危うい子です」
「以前もおっしゃいましたね」
「ええ。最初に見た時から、そう思っておりました」
白絹は深雪乃を見る。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに向けられる。
「あなたの中には、通常の霊力とも妖気とも違うものがあります。霊力が薄いように見えるのに、深いところに、まったく別のものが眠っている。私はそれを、最初は神気に近いものだと思いました」
神気。
その言葉に、砂笙の表情がわずかに変わった。
蓮台も黙る。
赫臣は、白絹を睨んだままだ。
深雪乃は、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
「神気とは」
「霊力よりも上位の清浄な力、と言えば簡単ですわ。ですが、あなたの中のものはそれほど単純ではない。清浄でありながら、ひどく深い。人を癒すだけのものではない。断つことも、縛ることも、戻すことも、場合によっては壊すこともできる」
「壊す」
深雪乃は、言葉を繰り返した。
赫臣の手が強くなる。
今度は痛いほどではない。だが、怒りがこもっている。
「白絹」
赫臣の声は危険だった。
「言葉を選べ」
「選んでおりますわ」
「それでか」
「ええ。それでも、これが限界です」
白絹は、珍しく笑わなかった。
「赫臣様。あなたは深雪乃さんを守ろうとしている。愛しているのでしょう。それは見れば分かります。少々、過剰で、暑苦しく、場所を選ばず、周囲への配慮に欠けますけれど」
「今それを言う必要があるのか」
「ありますわ。事実ですもの」
蓮台が小さく頷いた。
「そこは同意する」
赫臣が蓮台を睨む。
「黙ってろ」
「現場でも屋敷でもいちゃつく奴に言われたくない」
「殺すぞ」
「ほらな、暑苦しい」
砂笙が静かに額を押さえた。
「お二人とも、白絹様のお話を止めないでください。話の内容はたいへん不穏ですが、横道も充分不穏です」
白絹は軽く息を吐いた。
だが、その顔はまだ真剣だった。
「あなたの愛情は、深雪乃さんを支えている。けれど同時に、彼女の中のものを強く揺さぶっている可能性がありますわ」
赫臣の目が細くなる。
「俺のせいだと言いたいのか」
「すべてあなたのせいだとは言いません。ただ、酒呑童子の先祖返りであるあなたの妖気、百鬼夜行を率いる力、深雪乃さんへの執着。それらが彼女の中にあるものへ触れ続けている」
深雪乃は息を呑んだ。
赫臣の腕。
赫臣の口づけ。
赫臣の言葉。
赫臣の妖気。
それらが、自分の中の何かへ触れている。
怖い。
そう思うより先に、胸の奥が小さく脈打った気がした。
母の鏡が遺響を見せた時。
折れた櫛から声がした時。
白藤色の端切れが過去を映した時。
井戸端の石から紙を破る音を聞いた時。
母のブレスレットの割れ玉を見て胸が冷えた時。
桜の根元の白い髪を見た時。
深雪乃の中の何かは、確かに反応している。
それが何なのか、深雪乃自身にも分からない。
白絹は続けた。
「あなたが守っている深雪乃さんは、ただ守られるだけの娘ではありません。彼女の中のものが目覚めれば、あなたの妖気すら呑み込むかもしれない。あるいは、あなたが彼女を守ろうとすればするほど、彼女の中のものがあなたを縛るかもしれない」
「黙れ」
赫臣の声が落ちた。
床が震えたように感じた。
霊糸が、白絹の頬のすぐ横をかすめる。
白絹の髪が一本、空中で切れた。
金茶の髪が、畳へ落ちる。
砂笙が一歩踏み込む。
「旦那様」
蓮台も腰の刀へ手をかける。
「赫臣、やめろ」
白絹は動かなかった。
頬の横を霊糸が通ったというのに、目を逸らさない。
「本気で申し上げています」
白絹の声は震えていなかった。
「あなたを挑発したいなら、もっと別の言い方をします。私は、あなたを怒らせたいのではありません。警告しているのです」
「俺が深雪に壊されると?」
「可能性の話ですわ」
「その可能性ごと、俺が潰す」
「潰せるものならよろしいですわね」
白絹の静かな一言が、赫臣の怒りをさらに煽った。
だが、深雪乃が赫臣の手を両手で包んだ。
赫臣がこちらを見る。
その目には、怒りと不安が混じっていた。
深雪乃は、静かに首を横に振る。
「聞きます」
「深雪」
「私のことです」
「お前を怖がらせる必要はねえ」
「怖いものから目を逸らしても、私の身体は変わりません」
赫臣は言葉を失った。
深雪乃は、白絹へ向き直った。
喉が少し乾いている。
それでも、問わなければならないと思った。
「白絹様」
「はい」
「私は何なのですか」
部屋の中が、静まり返った。
深雪乃自身、その問いを口にした瞬間、胸の奥が冷えていくのを感じた。
私は何なのですか。
人間臭いと蔑まれた娘。
妾腹。
死なない身体。
傷が塞がり、骨が戻り、毒でも死にきれない。
妖の特徴がないと言われた。
霊力も目立たないと言われた。
けれど、母の遺品に反応する。
鏡は過去を映し、櫛は声を残し、布は記憶を見せる。
白絹は、深雪乃の中に通常の霊力とも妖気とも違うものがあると言った。
では、自分は何なのか。
人間なのか。
先祖返りなのか。
妖なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
白絹は、すぐには答えなかった。
琥珀色の瞳が、深雪乃を見ている。
いつものような棘はない。
そこにあるのは、ためらいだった。
そして、警戒。
「今の私には、答えられません」
深雪乃の胸が、沈んだ。
「分からないのですか」
「半分は」
「半分は、分かっているのですね」
白絹の唇が、わずかに動く。
だが、言葉は出なかった。
赫臣が低く言う。
「白絹」
「言えません」
白絹は、赫臣を見た。
「言えば、深雪乃さんの中のものが反応するかもしれない。名前は、力を呼びます。正体に近い言葉ほど、縛りにも鍵にもなる。ここで不用意に言うことはできません」
深雪乃は、母の鏡を思った。
沈丁花の文様。
母の声。
弓を、忘れないで。
名前は力を呼ぶ。
正体に近い言葉ほど、縛りにも鍵にもなる。
では、深雪乃の中のものには名前があるのか。
それを呼べば、何かが目覚めるのか。
赫臣が、深雪乃を抱き寄せた。
強くはない。
だが、はっきりとした動きだった。
もうこの話を聞かせたくない、という意思があった。
「もういい」
「赫臣様」
「もういい。ここまでだ」
「私は」
「部屋へ戻る」
命令口調だった。
いつもなら、深雪乃はすぐに刺す。
命令口調は嫌いです、と。
けれど、赫臣の顔があまりにも張り詰めていたので、言葉が出なかった。彼は怒っている。白絹に。自分自身に。そして、深雪乃の中に何があるか分からない状況に。
守りたいものが、自分を壊すかもしれない。
その言葉が、彼を乱している。
赫臣は深雪乃の手を取り、立ち上がらせた。
白絹が呼び止める。
「赫臣様」
「黙れ」
「逃げても変わりませんわ」
赫臣の足が止まる。
深雪乃の手を握る力が強くなる。
白絹は静かに言った。
「あなたが深雪乃さんを愛すれば愛するほど、彼女の中のものは目覚めるかもしれません。それでも愛するのでしょう?」
赫臣は振り返らなかった。
ただ、低く答えた。
「当たり前だ」
白絹は目を伏せた。
「なら、覚悟だけはなさいませ」
「てめえに言われるまでもねえ」
赫臣は、深雪乃を連れて部屋を出た。
廊下へ出ると、空気が少し軽くなる。
それでも、深雪乃の胸の重さは消えなかった。私は何なのですか。その問いへの答えは返らなかった。白絹は答えられないと言った。言えば、深雪乃の中のものが反応するかもしれないと。
赫臣の歩調は速い。
深雪乃はついていきながら言った。
「赫臣様」
「後で」
「また後でですか」
「今は駄目だ」
「何がですか」
「俺の顔が駄目だ」
その答えがあまりにも正直で、深雪乃は言葉を失った。
赫臣は、立ち止まらずに続ける。
「今、あの場で話せば、白絹を本気で斬りかねねえ。お前にも、余計なことを言う」
「余計なこと」
「怖がらせる」
「もう怖いです」
赫臣の足が止まった。
廊下の途中。
庭に面した障子から、薄い光が差している。遠くで使用人がこちらを見かけ、慌てて身を引く気配がした。赫臣はそんなものをまったく気にせず、深雪乃を振り返った。
深雪乃は、彼を見上げた。
「もう怖いです。白絹様が何かを感じていることも、あなたが怒ったことも、私の中のものが何なのか分からないことも。あなたを壊すかもしれないと言われたことも」
赫臣の顔が歪む。
「壊されねえ」
「分かりません」
「俺が壊れねえ」
「赫臣様」
「壊れねえ。お前に壊されるなら、それでもいいなんて言わねえ。そんな綺麗な話にする気はねえ。俺は壊れねえし、お前も壊させねえ」
「それは願望です」
「願望でも押し通す」
「また横暴です」
「ああ」
赫臣は、深雪乃を抱き寄せた。
廊下だった。
人払いもしていない。
遠くに人の気配もある。
それでも彼は、深雪乃を抱いた。
背の傷を避け、肩を包み、髪へ顔を寄せる。
「愛してる」
声が、深雪乃の髪に落ちる。
「大好きだ。俺の深雪だ。お前は俺の女だ」
「答えになっていません」
深雪乃は言った。
声は少し掠れていた。
赫臣は、彼女の頬に触れた。
「知ってる」
「知っているなら」
「今は、これしかできねえ」
彼は口づけた。
頬へ。
額へ。
唇の端へ。
深雪乃は、最初だけ息を詰めた。だが、拒まなかった。赫臣の手が震えているのが分かったからだ。怒りで震えているのか、恐れで震えているのか。おそらく、両方だった。
唇が重なる。
ちゅ、と短く。
離れて、また触れる。
昼の廊下で何度もされた口づけより、少し切迫していた。深く奪うのではなく、不安を塞ぐような口づけ。深雪乃が何かを言う前に、言葉の入り口へ熱を重ねる。白絹の警告も、自分の怒りも、深雪乃の問いも、すべて少しでも遠ざけようとするように。
深雪乃は、赫臣の袖を掴んだ。
足元が不安定だからではない。
もう、その言い訳は通らない。
自分が掴みたかったからだ。
赫臣の唇が離れる。
深雪乃は息を整えながら言った。
「答えになっていません」
「知ってる」
「二度目です」
「何度でも言われる覚悟はある」
「では、言います」
「言え」
「答えになっていません」
赫臣は、苦しそうに笑った。
それから、また口づけた。
今度は少し深い。
深雪乃の言葉が、吐息に変わる。赫臣の腕が強くなり、すぐに緩む。背の傷に気づいたのだろう。怒りや不安の中でも、それだけは忘れない。そのことが、深雪乃の胸をまた苦しくさせた。
「赫臣様」
「何だ」
「白絹様のお話は、聞かなければなりません」
「分かってる」
「私が何なのかも、知る必要があります」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「今は分かってるだけで精いっぱいだ」
深雪乃は、少しだけ黙った。
赫臣が弱音に近いことを言った。
それは珍しかった。
この男は横暴で、強く、霊糸で敵を切り、百鬼夜行を率いる。大好きだ、愛してる、お前は俺のものだ、と何度でも言う。だが今は、深雪乃の前で「精いっぱい」と言った。
白絹の警告は、それほど赫臣を揺らしたのだ。
あなたが守っているものは、あなたを壊すかもしれない。
深雪乃は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
もし、自分の中のものが赫臣を壊すのなら。
もし、赫臣が深雪乃を愛すれば愛するほど、自分の中の何かが目覚めるのなら。
それでも、この人のそばにいていいのか。
そう思った瞬間、赫臣の目が鋭くなる。
「今、離れることを考えたな」
深雪乃は息を呑んだ。
「なぜ分かるのですか」
「顔」
「私の顔は、そんなに分かりやすいのですか」
「俺にはな」
「厄介です」
「離す気はねえ」
赫臣の声が低くなる。
「深雪が何でも、離さねえ。霊力でも妖気でも神気でも、名前のねえ化け物でも関係ねえ。お前が深雪なら、それでいい」
「私は、私が深雪でいられるかも分かりません」
「俺が呼ぶ」
赫臣は、深雪乃の頬を包んだ。
「お前が何かに呑まれそうになっても、俺が名前を呼ぶ。深雪って呼ぶ。俺の声が届くまで、何度でも呼ぶ」
深雪乃の喉が詰まった。
その言葉は、答えではない。
白絹の警告への理屈でもない。
深雪乃が何なのかも、赫臣を壊すかどうかも、何一つ解き明かしてはいない。
それでも、胸に触れた。
深雪乃は、目を伏せる。
「また、答えになっていません」
「知ってる」
「でも」
言葉が止まる。
赫臣は待った。
めずらしく、急かさなかった。
深雪乃は、彼の着物を掴む指に力を込めた。
「……拒みはしません」
赫臣の目が、静かに揺れた。
深雪乃は顔を上げない。
「答えにはなっていません。何も分かっていません。白絹様のお話も、母を愛した男のことも、白い髪のことも、私の中のものも、全部そのままです。けれど、今、あなたが不安を塞ぐために口づけることを、拒む気にはなれません」
赫臣の腕が、深くなる。
「深雪」
「調子に乗らないでください」
「無理だ」
「今は、乗らないでください」
「努力する」
「信用が薄いです」
「好きだ」
「また答えになっていません」
「好きだ」
赫臣は、彼女の額へ口づけた。
「大好きだ」
頬へ。
「愛してる」
唇へ。
深雪乃は、目を閉じた。
不安は消えない。
白絹の言葉は消えない。
私は何なのですか、という問いも消えない。
それでも、赫臣の口づけを拒まなかった。
彼の熱が、答えではないと分かっている。
けれど、今この瞬間、深雪乃が自分を遠くへ切り離してしまわないための重しにはなった。
廊下の先で、人の気配が一つ、慌てて遠ざかる。
使用人だろう。
赫臣は気づいていても、気にしなかった。
深雪乃も、今は咎めなかった。
彼の胸に額を預ける。
赫臣の手が、髪を撫でる。
「俺だけ見てろ」
「それは、前に問題になりました」
「今度は疑ってねえ」
深雪乃は顔を上げた。
赫臣の目は、真っ直ぐだった。
怒りも不安も残っている。
だが、疑いはない。
深雪乃は、それを確認してから、小さく息を吐いた。
「では、少しだけ」
赫臣の表情が柔らかくなる。
「少しじゃ足りねえ」
「調子に」
「乗らない努力はしてる」
「今ので失敗です」
「悪い」
深雪乃は、ほんの少しだけ赫臣の胸元に額を押しつけた。
答えはまだない。
白絹は答えなかった。
赫臣は怒り、恐れ、不安を口づけで塞ごうとした。
深雪乃は、それが答えにならないことを知っている。
それでも、拒まなかった。
なぜなら、恐れているのは自分だけではないからだ。
赫臣も恐れている。
白絹もまた、本気で警告していた。
蓮台も砂笙も、深雪乃を見る目を変え始めている。
何かが、近づいている。
母の遺品。
白い髪。
母を愛した男。
深雪乃の中に眠るもの。
それらが、少しずつ一つの形を取り始めている。
深雪乃は、赫臣の腕の中で目を閉じた。
不安は、完全には塞がらない。
それでも、赫臣の口づけの熱だけは、今確かにここにあった。




