第28話 桜殺人のトリック解説
桜の根元には、雨上がりの匂いがまだ残っていた。
濡れた土。
苔。
古い根。
血。
それらが混ざり合い、庭の空気を重くしている。花の季節ではない桜は、濃い葉を揺らしながら、根元に横たえられた死体を黙って見下ろしていた。枝先から落ちる雫が、白布の端へぽたりと落ちる。その音が妙に大きく聞こえた。
鵺喰兼継の遺体は、まだ動かされていない。
蓮台累の指示で、桜の周囲は縄で囲われていた。篝火家の従者と蓮台の部下が立ち、親族や使用人を遠ざけている。だが、誰も完全には目を逸らせない。母の白藤色の着物を裂かせた男が、桜の根元で胸を射抜かれたように死んでいる。矢はない。そこに母の着物の糸があり、白い髪のようなものまで落ちていた。
母の霊。
母の呪い。
誰かがそう言い出すには、充分すぎる光景だった。
実際、親族たちの間ではもう囁きが生まれている。
「澄子が」
「まさか」
「遺品が次々に」
「祟りでは」
小さな声は、雨上がりの庭を這うように広がった。
赫臣が振り向くと、その声はすぐに止む。
だが、止んだだけだ。消えたわけではない。人は口を閉じても、恐怖や疑いは目から漏らす。実に締まりの悪い器官である。鵺喰家の者たちは、死んだ母を今さら怖がり始めていた。
深雪乃は、それを見ていた。
胸の奥は冷えている。
怒りではない。
悲しみでもない。
それらは、もう少し後ろに押し込められている。今はただ、冷たい。母の着物を裂いた男が、母の着物の糸のそばで死んでいる。胸には矢で射抜かれたような傷がある。矢はない。白い髪のようなものが落ちている。その一つ一つが、誰かの意図で置かれている気がした。
赫臣は、深雪乃の隣に立っていた。
手は繋いでいない。
現場を見るために、深雪乃は両手を空けていた。だが、赫臣の腕はいつでも彼女を引き寄せられる位置にある。昨日よりさらに近い。恋人になったことで、その距離はもう隠されなくなった。使用人たちも、親族たちも、その近さを見るたびに顔を強張らせる。
今も、小鈴が軒下で震えていた。
深雪乃が少しでも動けば、赫臣の視線が彼女を庇うように動く。そのたびに、小鈴は目を伏せる。以前なら、深雪乃が庭へ出るだけで「足元が汚れます」と嫌味を言った女中たちも、今は何も言えない。
だが、深雪乃はその変化に意識を割く余裕がなかった。
蓮台が、兼継の胸の傷を調べている。
砂笙が桜の枝、幹、根元を確認している。
白絹は少し離れたところから、白い髪のようなものを見つめていた。彼女の顔からは、いつもの余裕が少しだけ消えている。琥珀色の瞳が、桜の根と、兼継の傷と、深雪乃を順に見ていた。
夜岐も庭にいた。
頼成の事件で疑いを向けられたばかりの彼女は、今日は一言も口を挟まない。美しい顔は青白く、袖の先を指で強く握っている。自分が疑われた恐怖がまだ消えていないのだろう。けれど、桜の根元に落ちた白藤色の糸を見た時だけ、彼女の目が震えた。母の着物を裂いた日、夜岐もそこにいたからだ。
蓮台が、深く息を吐いた。
「矢で射られたわけじゃない」
庭にいた者たちが息を呑んだ。
赫臣はすぐに聞く。
「傷は矢に見えるが」
「見えるだけだ」
蓮台は兼継の胸元を指した。
「入口の形は矢傷に似せている。だが、矢で射られた傷とは周囲の裂け方が違う。矢羽や矢柄による擦過痕もない。矢が刺さり、抜かれたなら、衣服の裂け方と血の流れがもっと荒れる」
砂笙が、白い布に包まれた細い金具を示した。
「胸元の傷口から、ごく微かな退魔耀の焦げが出ています。矢そのものではなく、破魔術を模した霊具で作られた傷でしょう」
「霊具?」
兼近が、声を上ずらせた。
砂笙は頷いた。
「矢に似せた細い霊具です。実体のある矢を飛ばすのではなく、短い針状の退魔耀を一点へ打ち込む。外から見れば、矢で射抜かれたように見える。しかし、矢柄も矢羽も残らない」
蓮台が続ける。
「被害者の胸に突き刺さったのは、矢ではなく、破魔術を模した霊具だ。小型の鏃だけを霊力で飛ばしたようなもの、と言えば分かりやすいか」
深雪乃は、兼継の胸元を見た。
矢で射抜かれたような傷。
矢はない。
破魔術を模した霊具。
母の遺品には、古弓と破魔矢がある。
弓を、忘れないで。
あの声が、また耳の奥で響いた。
深雪乃の指先が、わずかに冷える。
赫臣がそれに気づいたのか、少しだけ身じろぎした。触れようとして、まだ触れない。現場だからか。深雪乃が見ようとしているからか。彼は、今にも手を伸ばしそうな気配を抑えている。
白絹が言った。
「破魔術に見せかけるのは、母君の遺品へ疑いを向けるためですわね」
蓮台が頷く。
「そう見るのが自然だ。北蔵にある古弓と破魔矢。深雪乃の母親、宵待澄子の遺品。それを知る者なら、兼継の胸に矢傷を作れば何を連想させられるか分かる」
親族たちの視線が、また深雪乃へ揺れかけた。
赫臣の妖気が、冷たく広がる。
今度は誰も目を向けきれなかった。
蓮台が、低く言った。
「深雪乃に疑いを向けたくなる者もいるだろうが、弓も矢も北蔵の封鎖下にある。本人が持ち出した痕跡もない。加えて、この傷は本物の矢ではない。破魔術を真似た偽装だ」
深雪乃は、静かに聞いていた。
疑いを向けたくなる者。
その言葉が胸へ落ちる。
自分でも分かっている。
母の遺品に関わる事件。
胸の矢傷。
母の着物の糸。
深雪乃には、母の遺品が反応する。鏡は遺響を見せ、櫛は声を残し、端切れは過去を映した。不死身の身体もある。鵺喰家から見れば、深雪乃は十分に不気味だろう。
死なない娘。
母の遺品に反応する娘。
父の死後に戻ってきてから、親族が次々に死んでいる娘。
疑われる材料は、揃えられている。
あまりにも丁寧に。
だからこそ、寒い。
犯人は、深雪乃へも疑いを向けようとしているのか。
それとも、深雪乃自身に何かを見せようとしているのか。
砂笙が桜の幹の低い位置を指した。
「こちらをご覧ください」
蓮台が立ち上がり、桜の幹へ近づく。
深雪乃も目を向けた。
桜の幹には、細い糸が結ばれていた。
白藤色。
母の着物の裂けた糸だった。
一本ではない。ごく細い糸が二本、幹の凹みに絡められるように結ばれている。雨で濡れて幹に貼りついていたため、最初は見落とされていたのだろう。だが、よく見ると、その糸は自然に引っかかったものではない。明らかに、誰かが結んでいた。
深雪乃の胸が冷える。
蓮台が、紙で糸の端を示す。
「これが道標だ」
兼近が眉をひそめる。
「道標?」
「被害者をここへ呼び寄せるための印だ。兼継は母親の着物を裂いたことがあるんだったな」
蓮台の視線が深雪乃へ向く。
深雪乃は頷いた。
「はい」
「なら、兼継はこの糸を見れば気づいた可能性がある。自分が裂かせた布の糸だと。あるいは、誰かからそのことを示されてここへ呼び出された」
砂笙が続ける。
「糸には、わずかに霊力が通されております。強いものではございません。母君の着物に残っていた遺響をなぞる程度の弱い気配です。しかし、兼継殿がその糸へ罪悪感、あるいは恐れを持っていたなら、十分に誘導として働いたでしょう」
白絹が、薄く目を細めた。
「罪悪感があったとは思えませんけれど」
深雪乃は、兼継の顔を思い出した。
母の着物を裂かせた時、彼は笑っていた。
罪悪感など、少なくともその時は見えなかった。
「罪悪感ではなく、保身かもしれません」
深雪乃は言った。
全員の視線がこちらへ向く。
深雪乃は桜の糸を見つめたまま続ける。
「母の着物を裂かせたことが、事件に関係していると示されたなら、兼継様は確認しに来ると思います。罪ではなく、自分が不利になるものが残っているかどうかを気にして」
蓮台の口元が少しだけ動いた。
「あり得るな」
赫臣が深雪乃を見る。
その目に、痛みがあった。
深雪乃があまりにも淡々と、兼継の保身を読んだからかもしれない。
蓮台は周囲の土を見た。
「足跡はある。母屋の西廊下から庭へ出たものだ。兼継のものと思われる足跡が、桜の手前まで続いている」
砂笙が、濡れた土の上に置かれた目印を示す。
確かに、足跡がある。
大人の男の足跡。草履の跡。雨上がりの柔らかい土に、深く残っている。足跡は石畳から庭の草地へ入り、桜の方へ向かっていた。
だが、途中で消えている。
桜の根元まで、あと数歩というところで。
そこから先には、兼継の足跡がない。にもかかわらず、兼継の遺体は桜の根元にある。まるで途中から足を地につけず、何かに運ばれたように。
親族の一人が震える声で言った。
「やはり、霊が」
「足跡が消えたなら、そう見えるでしょうね」
白絹が淡々と言う。
「妖か、霊か。あるいは、桜そのものが引き寄せたようにも見える」
夜岐が唇を噛む。
小鈴が、軒下で肩を震わせる。
母の霊。
桜。
矢傷。
足跡の消失。
材料は、揃っている。
人の恐怖を煽るには、あまりにも上手い。
蓮台は冷めた声で言った。
「妖や霊の仕業に見せたいなら、足跡を途中で消すのは効果的だ。だが、人為的な説明もある」
「どうやって」
御厨が聞く。
蓮台は足跡の終点を示した。
「ここから桜の根元までは、土が不自然に均されている。雨上がりで柔らかい土のはずだが、表面だけが薄く撫でられている。植物の葉で払ったか、布で軽くならしたか。完全には消せていないが、足跡の輪郭をぼかすには十分だ」
砂笙が別の場所を示す。
「桜の根の裏側に、細い板を置いた跡もございます。雨で沈んだ土の形が残っている。軽い踏み板を使い、足跡を残さず根元へ近づいた可能性もあるでしょう」
白絹が頷く。
「幻術で視線を逸らすこともできますわ。たとえば兼継さんにだけ、糸が桜の奥へ続いているように見せる。あるいは、足元を見えなくする。恐怖を煽りながら誘導すれば、本人は自分がどこを踏んでいるか分からなくなる」
蓮台が白絹を見る。
「つまり、いくつかの方法を合わせれば、足跡の消失は作れる」
「ええ。妖か霊の仕業に見せるには充分でしょう」
深雪乃は、桜の根を見た。
踏み板。
土を均した痕。
幻術。
着物の糸。
破魔術を模した霊具。
ひとつひとつは人為的に説明できる。
けれど、白い髪だけが残る。
あの白い髪のようなもの。
赫臣が表情を強張らせたもの。
白絹が「残された誓いに近い」と言ったもの。
あれだけは、ただの偽装と言い切れない気配を持っていた。
深雪乃は、赫臣を見た。
彼は桜の根元ではなく、深雪乃を見ていた。
その目に、奇妙な苦しさがあった。
深雪乃は息を止める。
赫臣の中で何かが揺れている。
疑い。
それに似たもの。
深雪乃の胸が、静かに冷えた。
赫臣はすぐに目を逸らした。
だが、遅い。
深雪乃は見逃さなかった。
赫臣が、ほんの一瞬、自分へ疑いを向けかけたことを。
彼自身が、それに気づいて嫌悪していることも。
赫臣は、深雪乃を愛している。
何度も言った。
拾ったからでも、可哀想だからでもないと、正式に告げた。
深雪乃も好きだと言った。
恋人になった。
昼の部屋で、人払いされ、二人きりの時間を過ごした。昼でも夜でも距離は近くなり、手を繋ぐことも、抱きしめられることも、口づけられることも日常になり始めていた。
それでも、事件は深雪乃の周りで起きる。
母の遺品が現場に残る。
深雪乃の母の弓に似せた傷が作られる。
深雪乃には遺響が聞こえる。
死なない身体がある。
疑う材料だけなら、十分にある。
赫臣は、その材料を見てしまった。
そして、ほんの一瞬でも疑いそうになった自分を憎んでいる。
深雪乃は、それを理解した。
理解した瞬間、胸の奥に冷たい刃が入ったようだった。
赫臣が動いた。
庭の中で。
親族も使用人も、蓮台も砂笙も白絹もいる前で。
彼は深雪乃を強く抱きしめた。
突然だった。
深雪乃の身体が、赫臣の胸へ引き寄せられる。背中の傷を避ける慎重さはある。だが、腕の力は強かった。逃がさないように。自分の疑いを押し潰すように。深雪乃がどこか遠くへ行ってしまう前に、力ずくでつなぎとめるように。
深雪乃は、息を呑んだ。
「赫臣様」
「愛してる」
赫臣の声が、耳元で落ちた。
低く、熱く、苦しそうな声だった。
「愛してる。俺だけ見てろ」
深雪乃は、動かなかった。
赫臣の腕は熱い。
強い。
昨夜も、昼も、何度もこの腕に抱かれた。守る腕。甘やかす腕。傷を避ける腕。深雪乃を一人にしないと告げる腕。
けれど、今の腕には、別のものが混じっている。
疑いを打ち消すための力。
自分自身への嫌悪。
深雪乃を信じたいのに、事件の形に揺らいだ一瞬を、なかったことにしようとする熱。
深雪乃は、赫臣の胸元に額を寄せず、少しだけ顔を上げた。
「疑っている顔で愛を囁くのは、器用ですね」
声は、冷たく出た。
庭の空気が止まった。
赫臣の腕が、わずかに硬くなる。
蓮台が目を伏せた。
砂笙が息を呑む。
白絹は、何も言わない。
深雪乃は赫臣を見た。
赫臣の顔には、痛みがあった。
刺した。
深雪乃の言葉は、確かに刺さった。
だが、撤回する気にはならなかった。
赫臣は、しばらく黙った。
それから、低く言った。
「悪い」
「何に対してですか」
「疑いそうになった」
正直だった。
あまりにも正直で、深雪乃の胸がまた痛む。
「本当に、疑ったのですね」
「疑ったって言葉にしたくねえ。けど、そうだ。ほんの一瞬、お前に結びつけそうになった」
赫臣の声は、荒れていた。
「破魔術、母親の遺品、弓、遺響、お前の不死身。全部が、お前の周りへ寄せられてる。それを見て、頭の端が勝手に動いた」
「では、頭の端は賢いですね」
「深雪」
「証拠がそう見えるのなら、考えるのは当然です」
「当然で済ませるな」
「済ませられないのは、あなたでしょう」
深雪乃は、静かに返した。
赫臣は答えられなかった。
その沈黙が、深雪乃には苦しかった。
疑われたことよりも、赫臣が自分を疑いそうになったことを、本人が誰より許せていないことが苦しい。疑うなら疑えばいい。事件なのだから。証拠を見れば、誰でも可能性を考える。蓮台ならきっと考える。砂笙も考える。白絹も考える。
だが、赫臣は愛していると言いながら、それを許せなかった。
愛しているから、疑った自分を憎む。
その憎しみごと、深雪乃を強く抱く。
深雪乃は、それが少し怖かった。
そして、少し悲しかった。
「赫臣様」
「何だ」
「私は、疑われたくないわけではありません」
赫臣の目が揺れる。
「疑われる理由があるなら、疑ってください。私の周りで人が死に、母の遺品が出てくる。私自身にも、分からないことが多すぎます。疑うなと言う方が、不自然です」
「俺は」
「ですが」
深雪乃は、彼の言葉を遮った。
「疑うなら、愛の言葉で塞がないでください」
赫臣の呼吸が止まる。
深雪乃は、彼を見つめた。
「愛していると言われるのは、嬉しいです。俺だけ見てろ、と言われるのも、腹立たしくはありますが、嫌ではありません。けれど、疑いを抱いた顔でそれを言われると、何を信じればよいのか分からなくなります」
赫臣の腕が、少しだけ緩んだ。
離すのではない。
力を間違えたことに気づいたように。
「……悪い」
二度目だった。
赫臣が、深雪乃の前でここまで苦い声を出すのは珍しい。
「俺は、お前を信じたい」
「信じたい、なのですね」
深雪乃の言葉に、赫臣の顔が歪んだ。
痛いところを突いた自覚はあった。
けれど、深雪乃も痛かった。
信じている、ではなく、信じたい。
その差を、深雪乃は聞き逃せなかった。
赫臣は、深く息を吸った。
「信じてる」
「今、言い直しました」
「言い直した。けど、嘘じゃねえ」
「では、最初にそう言えばよかったのです」
「そうだな」
赫臣は、深雪乃の頬へ触れた。
触る前に、一瞬だけ待った。
深雪乃は逃げなかった。
彼の指が頬に触れる。熱い。けれど、少し震えていた。赫臣の手が震えるなど、初めて見たかもしれない。いや、戦いの時も、怒った時も、彼の手は常に強く正確だった。震えているのは、恐れのせいだ。
深雪乃を失う恐れ。
深雪乃を疑ってしまった自分への嫌悪。
その両方。
「俺は、お前を信じてる」
赫臣は、ゆっくり言った。
「けど、犯人は俺に疑わせようとしてる。お前を孤立させようとしてる。俺がそれに一瞬でも乗りかけた。許せねえ」
「犯人をですか」
「俺自身をだ」
深雪乃は黙った。
赫臣は続ける。
「愛してるって言葉で、お前を縛ろうとした。疑いそうになった自分を黙らせるために、お前を抱いた。悪い」
深雪乃の胸が、静かに揺れた。
彼は分かっている。
自分が何をしたのか。
愛情と不安を混ぜて、深雪乃へ向けたことを。
それを認めるのは、赫臣にとってきっと簡単ではない。彼は強く、横暴で、愛情表現も重い。けれど、今、深雪乃に刺された場所から逃げなかった。
深雪乃は、少しだけ息を吐いた。
「謝罪は受け取ります」
赫臣の目が、わずかに開く。
「ただし、次に疑いながら愛を囁いた場合は、もっと刺します」
赫臣は一瞬黙り、それから苦く笑った。
「刺されても仕方ねえ」
「本当に刺すかもしれません」
「深雪になら」
「そういうところです」
「悪い」
「謝るのも便利に使わないでください」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
蓮台が、遠慮なく咳払いをした。
「痴話喧嘩は後にしろ」
深雪乃の頬が熱くなる。
「痴話では」
「現場で抱き合って愛してるだの俺だけ見てろだの言っておいて、違うと言えるのか」
言えなかった。
赫臣が蓮台を見る。
「うるせえ」
「うるさくさせてるのはお前だ」
「俺の女が刺してくるから」
「それは自業自得だ」
砂笙が静かに頷く。
「完全に自業自得でございます」
白絹まで、淡く言う。
「今回は深雪乃さんの方が正しいですわね」
赫臣は全員を睨んだ。
「お前ら、よくこの状況で口が回るな」
蓮台が即座に返す。
「お前が止めている捜査を再開したいだけだ」
深雪乃は、赫臣の腕の中から少し離れた。
赫臣は離したくなさそうにしたが、今度は無理に引き止めなかった。手だけを取る。深雪乃は、それは許した。
赫臣の手は、まだ熱かった。
蓮台は改めて現場へ向き直る。
「話を戻す。胸の傷は破魔術を模した霊具。桜に結ばれた白藤色の糸は、被害者を呼び寄せる道標。足跡は途中で消えており、妖か霊の仕業に見えるが、土を均した痕、踏み板の痕、幻術の可能性がある。つまり、全体としては人為的な偽装でも説明できる」
砂笙が、白い髪のようなものを見た。
「ただし、この一本については、まだ説明がつきません」
場の空気が、また少し変わる。
赫臣の手が、深雪乃の手を強く握った。
今度は痛くない。
だが、明らかに動揺がある。
深雪乃は、その手を見てから、白い髪へ視線を向けた。
「それは、人為的な偽装ではないのですか」
砂笙は答えに迷った。
白絹が代わりに言う。
「偽装として置かれた可能性はあります。けれど、その髪に残る気配は作り物とは言い切れませんわ。少なくとも、ただの白髪ではありません」
蓮台が赫臣を見る。
「お前の心当たりは」
赫臣は、しばらく黙った。
深雪乃も、彼を見る。
先ほどのやり取りの後だ。
ここで彼がまた黙れば、深雪乃はもう一度刺すつもりだった。言葉で。たぶん。今のところは。
赫臣は、苦々しく息を吐いた。
「その髪は、澄子本人のものじゃねえ」
深雪乃の胸が鳴る。
「母のものではない」
「ああ」
「では、誰の」
「まだ確証はねえ」
「赫臣様」
深雪乃の声が少し硬くなる。
赫臣は、今度は逃げなかった。
「お前の母を愛した男に関わる可能性がある」
白い髪が、紙の上で光る。
深雪乃の喉が詰まった。
母を愛した男。
鏡を渡した手。
櫛で髪を梳いた手。
母を逃がそうとした手。
黒い組紐と銀の輪。
その人物に、この白い髪が関わる。
つまり、桜の根元の死体は、母の霊だけでなく、その男の影まで呼び出している。
深雪乃は、桜の根元を見た。
母の着物の糸。
白い髪。
矢のない矢傷。
被害者は、母の着物を裂いた男。
犯人は、どこまで知っているのか。
母の遺品だけではない。
母を愛した男の存在まで知っているのか。
それとも、その男自身が関わっているのか。
深雪乃の胸に、新しい冷えが広がった。
赫臣が、静かに言った。
「深雪」
「はい」
「今度こそ、話す。全部じゃなくても、俺が知ってることを」
「約束ですね」
「ああ」
「先ほどの謝罪と一緒に、覚えておきます」
「手厳しいな」
「疑っている顔で愛を囁かれましたので」
赫臣は、苦く笑った。
「一生言われそうだな」
「必要なら」
「……愛してる」
深雪乃は彼を見た。
赫臣は、今度は疑いを隠すためではなく、ただ真っ直ぐに言った。
「今度は、疑っている顔ではありませんね」
「当たり前だ」
「確認です」
「何度でも確認しろ」
「では、今は捜査を見ます」
「俺を見ろって言ったばっかりなんだが」
「捜査中です」
「恋人なのに」
「恋人でも事件は待ちません」
蓮台が、呆れたように言った。
「その通りだ。ようやくまともなことを言う者がいた」
赫臣が不満げに舌打ちした。
深雪乃は、彼の手を握り返した。
少しだけ。
それだけで、赫臣の顔が柔らかくなる。
本当に、調子に乗りやすい。
深雪乃は桜を見た。
母の霊ではないのかもしれない。
呪いではないのかもしれない。
けれど、母の遺品と過去は確実に使われている。死者の名前、死者の布、死者の記憶。誰かがそれを血の中へ置き、鵺喰家の者たちに見せている。
そして今、白い髪が、母を愛した男の影を連れてきた。
桜の葉から、水滴が落ちる。
ぽたり、と土へ沈む。
足跡の消えた道。
幹に結ばれた白藤色の糸。
矢のない矢傷。
白い髪。
それらは母の霊を語るふりをして、もっと深い過去へ深雪乃を誘っているように見えた。
深雪乃は、赫臣の手を握ったまま、静かに息を吸った。
冷えはまだある。
疑われた痛みも、まだ胸に残っている。
けれど、赫臣は逃げなかった。
疑いそうになった自分を認め、謝り、白い髪の心当たりを少し話した。
それなら、深雪乃も逃げるわけにはいかない。
桜の根元で、白い髪が淡く光っていた。
まるで、次の扉を示す細い糸のように。




