表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/63

第28話 桜殺人のトリック解説


 桜の根元には、雨上がりの匂いがまだ残っていた。


 濡れた土。


 苔。


 古い根。


 血。


 それらが混ざり合い、庭の空気を重くしている。花の季節ではない桜は、濃い葉を揺らしながら、根元に横たえられた死体を黙って見下ろしていた。枝先から落ちる雫が、白布の端へぽたりと落ちる。その音が妙に大きく聞こえた。


 鵺喰兼継の遺体は、まだ動かされていない。


 蓮台累の指示で、桜の周囲は縄で囲われていた。篝火家の従者と蓮台の部下が立ち、親族や使用人を遠ざけている。だが、誰も完全には目を逸らせない。母の白藤色の着物を裂かせた男が、桜の根元で胸を射抜かれたように死んでいる。矢はない。そこに母の着物の糸があり、白い髪のようなものまで落ちていた。


 母の霊。


 母の呪い。


 誰かがそう言い出すには、充分すぎる光景だった。


 実際、親族たちの間ではもう囁きが生まれている。


「澄子が」


「まさか」


「遺品が次々に」


「祟りでは」


 小さな声は、雨上がりの庭を這うように広がった。


 赫臣が振り向くと、その声はすぐに止む。


 だが、止んだだけだ。消えたわけではない。人は口を閉じても、恐怖や疑いは目から漏らす。実に締まりの悪い器官である。鵺喰家の者たちは、死んだ母を今さら怖がり始めていた。


 深雪乃は、それを見ていた。


 胸の奥は冷えている。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 それらは、もう少し後ろに押し込められている。今はただ、冷たい。母の着物を裂いた男が、母の着物の糸のそばで死んでいる。胸には矢で射抜かれたような傷がある。矢はない。白い髪のようなものが落ちている。その一つ一つが、誰かの意図で置かれている気がした。


 赫臣は、深雪乃の隣に立っていた。


 手は繋いでいない。


 現場を見るために、深雪乃は両手を空けていた。だが、赫臣の腕はいつでも彼女を引き寄せられる位置にある。昨日よりさらに近い。恋人になったことで、その距離はもう隠されなくなった。使用人たちも、親族たちも、その近さを見るたびに顔を強張らせる。


 今も、小鈴が軒下で震えていた。


 深雪乃が少しでも動けば、赫臣の視線が彼女を庇うように動く。そのたびに、小鈴は目を伏せる。以前なら、深雪乃が庭へ出るだけで「足元が汚れます」と嫌味を言った女中たちも、今は何も言えない。


 だが、深雪乃はその変化に意識を割く余裕がなかった。


 蓮台が、兼継の胸の傷を調べている。


 砂笙が桜の枝、幹、根元を確認している。


 白絹は少し離れたところから、白い髪のようなものを見つめていた。彼女の顔からは、いつもの余裕が少しだけ消えている。琥珀色の瞳が、桜の根と、兼継の傷と、深雪乃を順に見ていた。


 夜岐も庭にいた。


 頼成の事件で疑いを向けられたばかりの彼女は、今日は一言も口を挟まない。美しい顔は青白く、袖の先を指で強く握っている。自分が疑われた恐怖がまだ消えていないのだろう。けれど、桜の根元に落ちた白藤色の糸を見た時だけ、彼女の目が震えた。母の着物を裂いた日、夜岐もそこにいたからだ。


 蓮台が、深く息を吐いた。


「矢で射られたわけじゃない」


 庭にいた者たちが息を呑んだ。


 赫臣はすぐに聞く。


「傷は矢に見えるが」


「見えるだけだ」


 蓮台は兼継の胸元を指した。


「入口の形は矢傷に似せている。だが、矢で射られた傷とは周囲の裂け方が違う。矢羽や矢柄による擦過痕もない。矢が刺さり、抜かれたなら、衣服の裂け方と血の流れがもっと荒れる」


 砂笙が、白い布に包まれた細い金具を示した。


「胸元の傷口から、ごく微かな退魔耀の焦げが出ています。矢そのものではなく、破魔術を模した霊具で作られた傷でしょう」


「霊具?」


 兼近が、声を上ずらせた。


 砂笙は頷いた。


「矢に似せた細い霊具です。実体のある矢を飛ばすのではなく、短い針状の退魔耀を一点へ打ち込む。外から見れば、矢で射抜かれたように見える。しかし、矢柄も矢羽も残らない」


 蓮台が続ける。


「被害者の胸に突き刺さったのは、矢ではなく、破魔術を模した霊具だ。小型の鏃だけを霊力で飛ばしたようなもの、と言えば分かりやすいか」


 深雪乃は、兼継の胸元を見た。


 矢で射抜かれたような傷。


 矢はない。


 破魔術を模した霊具。


 母の遺品には、古弓と破魔矢がある。


 弓を、忘れないで。


 あの声が、また耳の奥で響いた。


 深雪乃の指先が、わずかに冷える。


 赫臣がそれに気づいたのか、少しだけ身じろぎした。触れようとして、まだ触れない。現場だからか。深雪乃が見ようとしているからか。彼は、今にも手を伸ばしそうな気配を抑えている。


 白絹が言った。


「破魔術に見せかけるのは、母君の遺品へ疑いを向けるためですわね」


 蓮台が頷く。


「そう見るのが自然だ。北蔵にある古弓と破魔矢。深雪乃の母親、宵待澄子の遺品。それを知る者なら、兼継の胸に矢傷を作れば何を連想させられるか分かる」


 親族たちの視線が、また深雪乃へ揺れかけた。


 赫臣の妖気が、冷たく広がる。


 今度は誰も目を向けきれなかった。


 蓮台が、低く言った。


「深雪乃に疑いを向けたくなる者もいるだろうが、弓も矢も北蔵の封鎖下にある。本人が持ち出した痕跡もない。加えて、この傷は本物の矢ではない。破魔術を真似た偽装だ」


 深雪乃は、静かに聞いていた。


 疑いを向けたくなる者。


 その言葉が胸へ落ちる。


 自分でも分かっている。


 母の遺品に関わる事件。


 胸の矢傷。


 母の着物の糸。


 深雪乃には、母の遺品が反応する。鏡は遺響を見せ、櫛は声を残し、端切れは過去を映した。不死身の身体もある。鵺喰家から見れば、深雪乃は十分に不気味だろう。


 死なない娘。


 母の遺品に反応する娘。


 父の死後に戻ってきてから、親族が次々に死んでいる娘。


 疑われる材料は、揃えられている。


 あまりにも丁寧に。


 だからこそ、寒い。


 犯人は、深雪乃へも疑いを向けようとしているのか。


 それとも、深雪乃自身に何かを見せようとしているのか。


 砂笙が桜の幹の低い位置を指した。


「こちらをご覧ください」


 蓮台が立ち上がり、桜の幹へ近づく。


 深雪乃も目を向けた。


 桜の幹には、細い糸が結ばれていた。


 白藤色。


 母の着物の裂けた糸だった。


 一本ではない。ごく細い糸が二本、幹の凹みに絡められるように結ばれている。雨で濡れて幹に貼りついていたため、最初は見落とされていたのだろう。だが、よく見ると、その糸は自然に引っかかったものではない。明らかに、誰かが結んでいた。


 深雪乃の胸が冷える。


 蓮台が、紙で糸の端を示す。


「これが道標だ」


 兼近が眉をひそめる。


「道標?」


「被害者をここへ呼び寄せるための印だ。兼継は母親の着物を裂いたことがあるんだったな」


 蓮台の視線が深雪乃へ向く。


 深雪乃は頷いた。


「はい」


「なら、兼継はこの糸を見れば気づいた可能性がある。自分が裂かせた布の糸だと。あるいは、誰かからそのことを示されてここへ呼び出された」


 砂笙が続ける。


「糸には、わずかに霊力が通されております。強いものではございません。母君の着物に残っていた遺響をなぞる程度の弱い気配です。しかし、兼継殿がその糸へ罪悪感、あるいは恐れを持っていたなら、十分に誘導として働いたでしょう」


 白絹が、薄く目を細めた。


「罪悪感があったとは思えませんけれど」


 深雪乃は、兼継の顔を思い出した。


 母の着物を裂かせた時、彼は笑っていた。


 罪悪感など、少なくともその時は見えなかった。


「罪悪感ではなく、保身かもしれません」


 深雪乃は言った。


 全員の視線がこちらへ向く。


 深雪乃は桜の糸を見つめたまま続ける。


「母の着物を裂かせたことが、事件に関係していると示されたなら、兼継様は確認しに来ると思います。罪ではなく、自分が不利になるものが残っているかどうかを気にして」


 蓮台の口元が少しだけ動いた。


「あり得るな」


 赫臣が深雪乃を見る。


 その目に、痛みがあった。


 深雪乃があまりにも淡々と、兼継の保身を読んだからかもしれない。


 蓮台は周囲の土を見た。


「足跡はある。母屋の西廊下から庭へ出たものだ。兼継のものと思われる足跡が、桜の手前まで続いている」


 砂笙が、濡れた土の上に置かれた目印を示す。


 確かに、足跡がある。


 大人の男の足跡。草履の跡。雨上がりの柔らかい土に、深く残っている。足跡は石畳から庭の草地へ入り、桜の方へ向かっていた。


 だが、途中で消えている。


 桜の根元まで、あと数歩というところで。


 そこから先には、兼継の足跡がない。にもかかわらず、兼継の遺体は桜の根元にある。まるで途中から足を地につけず、何かに運ばれたように。


 親族の一人が震える声で言った。


「やはり、霊が」


「足跡が消えたなら、そう見えるでしょうね」


 白絹が淡々と言う。


「妖か、霊か。あるいは、桜そのものが引き寄せたようにも見える」


 夜岐が唇を噛む。


 小鈴が、軒下で肩を震わせる。


 母の霊。


 桜。


 矢傷。


 足跡の消失。


 材料は、揃っている。


 人の恐怖を煽るには、あまりにも上手い。


 蓮台は冷めた声で言った。


「妖や霊の仕業に見せたいなら、足跡を途中で消すのは効果的だ。だが、人為的な説明もある」


「どうやって」


 御厨が聞く。


 蓮台は足跡の終点を示した。


「ここから桜の根元までは、土が不自然に均されている。雨上がりで柔らかい土のはずだが、表面だけが薄く撫でられている。植物の葉で払ったか、布で軽くならしたか。完全には消せていないが、足跡の輪郭をぼかすには十分だ」


 砂笙が別の場所を示す。


「桜の根の裏側に、細い板を置いた跡もございます。雨で沈んだ土の形が残っている。軽い踏み板を使い、足跡を残さず根元へ近づいた可能性もあるでしょう」


 白絹が頷く。


「幻術で視線を逸らすこともできますわ。たとえば兼継さんにだけ、糸が桜の奥へ続いているように見せる。あるいは、足元を見えなくする。恐怖を煽りながら誘導すれば、本人は自分がどこを踏んでいるか分からなくなる」


 蓮台が白絹を見る。


「つまり、いくつかの方法を合わせれば、足跡の消失は作れる」


「ええ。妖か霊の仕業に見せるには充分でしょう」


 深雪乃は、桜の根を見た。


 踏み板。


 土を均した痕。


 幻術。


 着物の糸。


 破魔術を模した霊具。


 ひとつひとつは人為的に説明できる。


 けれど、白い髪だけが残る。


 あの白い髪のようなもの。


 赫臣が表情を強張らせたもの。


 白絹が「残された誓いに近い」と言ったもの。


 あれだけは、ただの偽装と言い切れない気配を持っていた。


 深雪乃は、赫臣を見た。


 彼は桜の根元ではなく、深雪乃を見ていた。


 その目に、奇妙な苦しさがあった。


 深雪乃は息を止める。


 赫臣の中で何かが揺れている。


 疑い。


 それに似たもの。


 深雪乃の胸が、静かに冷えた。


 赫臣はすぐに目を逸らした。


 だが、遅い。


 深雪乃は見逃さなかった。


 赫臣が、ほんの一瞬、自分へ疑いを向けかけたことを。


 彼自身が、それに気づいて嫌悪していることも。


 赫臣は、深雪乃を愛している。


 何度も言った。


 拾ったからでも、可哀想だからでもないと、正式に告げた。


 深雪乃も好きだと言った。


 恋人になった。


 昼の部屋で、人払いされ、二人きりの時間を過ごした。昼でも夜でも距離は近くなり、手を繋ぐことも、抱きしめられることも、口づけられることも日常になり始めていた。


 それでも、事件は深雪乃の周りで起きる。


 母の遺品が現場に残る。


 深雪乃の母の弓に似せた傷が作られる。


 深雪乃には遺響が聞こえる。


 死なない身体がある。


 疑う材料だけなら、十分にある。


 赫臣は、その材料を見てしまった。


 そして、ほんの一瞬でも疑いそうになった自分を憎んでいる。


 深雪乃は、それを理解した。


 理解した瞬間、胸の奥に冷たい刃が入ったようだった。


 赫臣が動いた。


 庭の中で。


 親族も使用人も、蓮台も砂笙も白絹もいる前で。


 彼は深雪乃を強く抱きしめた。


 突然だった。


 深雪乃の身体が、赫臣の胸へ引き寄せられる。背中の傷を避ける慎重さはある。だが、腕の力は強かった。逃がさないように。自分の疑いを押し潰すように。深雪乃がどこか遠くへ行ってしまう前に、力ずくでつなぎとめるように。


 深雪乃は、息を呑んだ。


「赫臣様」


「愛してる」


 赫臣の声が、耳元で落ちた。


 低く、熱く、苦しそうな声だった。


「愛してる。俺だけ見てろ」


 深雪乃は、動かなかった。


 赫臣の腕は熱い。


 強い。


 昨夜も、昼も、何度もこの腕に抱かれた。守る腕。甘やかす腕。傷を避ける腕。深雪乃を一人にしないと告げる腕。


 けれど、今の腕には、別のものが混じっている。


 疑いを打ち消すための力。


 自分自身への嫌悪。


 深雪乃を信じたいのに、事件の形に揺らいだ一瞬を、なかったことにしようとする熱。


 深雪乃は、赫臣の胸元に額を寄せず、少しだけ顔を上げた。


「疑っている顔で愛を囁くのは、器用ですね」


 声は、冷たく出た。


 庭の空気が止まった。


 赫臣の腕が、わずかに硬くなる。


 蓮台が目を伏せた。


 砂笙が息を呑む。


 白絹は、何も言わない。


 深雪乃は赫臣を見た。


 赫臣の顔には、痛みがあった。


 刺した。


 深雪乃の言葉は、確かに刺さった。


 だが、撤回する気にはならなかった。


 赫臣は、しばらく黙った。


 それから、低く言った。


「悪い」


「何に対してですか」


「疑いそうになった」


 正直だった。


 あまりにも正直で、深雪乃の胸がまた痛む。


「本当に、疑ったのですね」


「疑ったって言葉にしたくねえ。けど、そうだ。ほんの一瞬、お前に結びつけそうになった」


 赫臣の声は、荒れていた。


「破魔術、母親の遺品、弓、遺響、お前の不死身。全部が、お前の周りへ寄せられてる。それを見て、頭の端が勝手に動いた」


「では、頭の端は賢いですね」


「深雪」


「証拠がそう見えるのなら、考えるのは当然です」


「当然で済ませるな」


「済ませられないのは、あなたでしょう」


 深雪乃は、静かに返した。


 赫臣は答えられなかった。


 その沈黙が、深雪乃には苦しかった。


 疑われたことよりも、赫臣が自分を疑いそうになったことを、本人が誰より許せていないことが苦しい。疑うなら疑えばいい。事件なのだから。証拠を見れば、誰でも可能性を考える。蓮台ならきっと考える。砂笙も考える。白絹も考える。


 だが、赫臣は愛していると言いながら、それを許せなかった。


 愛しているから、疑った自分を憎む。


 その憎しみごと、深雪乃を強く抱く。


 深雪乃は、それが少し怖かった。


 そして、少し悲しかった。


「赫臣様」


「何だ」


「私は、疑われたくないわけではありません」


 赫臣の目が揺れる。


「疑われる理由があるなら、疑ってください。私の周りで人が死に、母の遺品が出てくる。私自身にも、分からないことが多すぎます。疑うなと言う方が、不自然です」


「俺は」


「ですが」


 深雪乃は、彼の言葉を遮った。


「疑うなら、愛の言葉で塞がないでください」


 赫臣の呼吸が止まる。


 深雪乃は、彼を見つめた。


「愛していると言われるのは、嬉しいです。俺だけ見てろ、と言われるのも、腹立たしくはありますが、嫌ではありません。けれど、疑いを抱いた顔でそれを言われると、何を信じればよいのか分からなくなります」


 赫臣の腕が、少しだけ緩んだ。


 離すのではない。


 力を間違えたことに気づいたように。


「……悪い」


 二度目だった。


 赫臣が、深雪乃の前でここまで苦い声を出すのは珍しい。


「俺は、お前を信じたい」


「信じたい、なのですね」


 深雪乃の言葉に、赫臣の顔が歪んだ。


 痛いところを突いた自覚はあった。


 けれど、深雪乃も痛かった。


 信じている、ではなく、信じたい。


 その差を、深雪乃は聞き逃せなかった。


 赫臣は、深く息を吸った。


「信じてる」


「今、言い直しました」


「言い直した。けど、嘘じゃねえ」


「では、最初にそう言えばよかったのです」


「そうだな」


 赫臣は、深雪乃の頬へ触れた。


 触る前に、一瞬だけ待った。


 深雪乃は逃げなかった。


 彼の指が頬に触れる。熱い。けれど、少し震えていた。赫臣の手が震えるなど、初めて見たかもしれない。いや、戦いの時も、怒った時も、彼の手は常に強く正確だった。震えているのは、恐れのせいだ。


 深雪乃を失う恐れ。


 深雪乃を疑ってしまった自分への嫌悪。


 その両方。


「俺は、お前を信じてる」


 赫臣は、ゆっくり言った。


「けど、犯人は俺に疑わせようとしてる。お前を孤立させようとしてる。俺がそれに一瞬でも乗りかけた。許せねえ」


「犯人をですか」


「俺自身をだ」


 深雪乃は黙った。


 赫臣は続ける。


「愛してるって言葉で、お前を縛ろうとした。疑いそうになった自分を黙らせるために、お前を抱いた。悪い」


 深雪乃の胸が、静かに揺れた。


 彼は分かっている。


 自分が何をしたのか。


 愛情と不安を混ぜて、深雪乃へ向けたことを。


 それを認めるのは、赫臣にとってきっと簡単ではない。彼は強く、横暴で、愛情表現も重い。けれど、今、深雪乃に刺された場所から逃げなかった。


 深雪乃は、少しだけ息を吐いた。


「謝罪は受け取ります」


 赫臣の目が、わずかに開く。


「ただし、次に疑いながら愛を囁いた場合は、もっと刺します」


 赫臣は一瞬黙り、それから苦く笑った。


「刺されても仕方ねえ」


「本当に刺すかもしれません」


「深雪になら」


「そういうところです」


「悪い」


「謝るのも便利に使わないでください」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 蓮台が、遠慮なく咳払いをした。


「痴話喧嘩は後にしろ」


 深雪乃の頬が熱くなる。


「痴話では」


「現場で抱き合って愛してるだの俺だけ見てろだの言っておいて、違うと言えるのか」


 言えなかった。


 赫臣が蓮台を見る。


「うるせえ」


「うるさくさせてるのはお前だ」


「俺の女が刺してくるから」


「それは自業自得だ」


 砂笙が静かに頷く。


「完全に自業自得でございます」


 白絹まで、淡く言う。


「今回は深雪乃さんの方が正しいですわね」


 赫臣は全員を睨んだ。


「お前ら、よくこの状況で口が回るな」


 蓮台が即座に返す。


「お前が止めている捜査を再開したいだけだ」


 深雪乃は、赫臣の腕の中から少し離れた。


 赫臣は離したくなさそうにしたが、今度は無理に引き止めなかった。手だけを取る。深雪乃は、それは許した。


 赫臣の手は、まだ熱かった。


 蓮台は改めて現場へ向き直る。


「話を戻す。胸の傷は破魔術を模した霊具。桜に結ばれた白藤色の糸は、被害者を呼び寄せる道標。足跡は途中で消えており、妖か霊の仕業に見えるが、土を均した痕、踏み板の痕、幻術の可能性がある。つまり、全体としては人為的な偽装でも説明できる」


 砂笙が、白い髪のようなものを見た。


「ただし、この一本については、まだ説明がつきません」


 場の空気が、また少し変わる。


 赫臣の手が、深雪乃の手を強く握った。


 今度は痛くない。


 だが、明らかに動揺がある。


 深雪乃は、その手を見てから、白い髪へ視線を向けた。


「それは、人為的な偽装ではないのですか」


 砂笙は答えに迷った。


 白絹が代わりに言う。


「偽装として置かれた可能性はあります。けれど、その髪に残る気配は作り物とは言い切れませんわ。少なくとも、ただの白髪ではありません」


 蓮台が赫臣を見る。


「お前の心当たりは」


 赫臣は、しばらく黙った。


 深雪乃も、彼を見る。


 先ほどのやり取りの後だ。


 ここで彼がまた黙れば、深雪乃はもう一度刺すつもりだった。言葉で。たぶん。今のところは。


 赫臣は、苦々しく息を吐いた。


「その髪は、澄子本人のものじゃねえ」


 深雪乃の胸が鳴る。


「母のものではない」


「ああ」


「では、誰の」


「まだ確証はねえ」


「赫臣様」


 深雪乃の声が少し硬くなる。


 赫臣は、今度は逃げなかった。


「お前の母を愛した男に関わる可能性がある」


 白い髪が、紙の上で光る。


 深雪乃の喉が詰まった。


 母を愛した男。


 鏡を渡した手。


 櫛で髪を梳いた手。


 母を逃がそうとした手。


 黒い組紐と銀の輪。


 その人物に、この白い髪が関わる。


 つまり、桜の根元の死体は、母の霊だけでなく、その男の影まで呼び出している。


 深雪乃は、桜の根元を見た。


 母の着物の糸。


 白い髪。


 矢のない矢傷。


 被害者は、母の着物を裂いた男。


 犯人は、どこまで知っているのか。


 母の遺品だけではない。


 母を愛した男の存在まで知っているのか。


 それとも、その男自身が関わっているのか。


 深雪乃の胸に、新しい冷えが広がった。


 赫臣が、静かに言った。


「深雪」


「はい」


「今度こそ、話す。全部じゃなくても、俺が知ってることを」


「約束ですね」


「ああ」


「先ほどの謝罪と一緒に、覚えておきます」


「手厳しいな」


「疑っている顔で愛を囁かれましたので」


 赫臣は、苦く笑った。


「一生言われそうだな」


「必要なら」


「……愛してる」


 深雪乃は彼を見た。


 赫臣は、今度は疑いを隠すためではなく、ただ真っ直ぐに言った。


「今度は、疑っている顔ではありませんね」


「当たり前だ」


「確認です」


「何度でも確認しろ」


「では、今は捜査を見ます」


「俺を見ろって言ったばっかりなんだが」


「捜査中です」


「恋人なのに」


「恋人でも事件は待ちません」


 蓮台が、呆れたように言った。


「その通りだ。ようやくまともなことを言う者がいた」


 赫臣が不満げに舌打ちした。


 深雪乃は、彼の手を握り返した。


 少しだけ。


 それだけで、赫臣の顔が柔らかくなる。


 本当に、調子に乗りやすい。


 深雪乃は桜を見た。


 母の霊ではないのかもしれない。


 呪いではないのかもしれない。


 けれど、母の遺品と過去は確実に使われている。死者の名前、死者の布、死者の記憶。誰かがそれを血の中へ置き、鵺喰家の者たちに見せている。


 そして今、白い髪が、母を愛した男の影を連れてきた。


 桜の葉から、水滴が落ちる。


 ぽたり、と土へ沈む。


 足跡の消えた道。


 幹に結ばれた白藤色の糸。


 矢のない矢傷。


 白い髪。


 それらは母の霊を語るふりをして、もっと深い過去へ深雪乃を誘っているように見えた。


 深雪乃は、赫臣の手を握ったまま、静かに息を吸った。


 冷えはまだある。


 疑われた痛みも、まだ胸に残っている。


 けれど、赫臣は逃げなかった。


 疑いそうになった自分を認め、謝り、白い髪の心当たりを少し話した。


 それなら、深雪乃も逃げるわけにはいかない。


 桜の根元で、白い髪が淡く光っていた。


 まるで、次の扉を示す細い糸のように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ