第27話 桜の根元の死体
昼の部屋で過ごした後、鵺喰家の空気はまた少し変わっていた。
深雪乃が廊下を歩くと、使用人たちは以前よりも早く道を空ける。頭を下げる角度も、声をかける間合いも、明らかに違った。恐れているのだ。深雪乃を、ではない。深雪乃の隣にいる篝火赫臣を。正確に言えば、深雪乃と赫臣の距離がもう曖昧ではなくなったことを。
手を繋いでいる。
廊下でも。
書庫でも。
庭へ面した縁側でも。
赫臣は当然のように深雪乃の手を取る。時折、髪を撫でる。額や頬へ口づける。深雪乃が「人目があります」と言えば、「見せてる」と返す。もう少し取り繕う努力をしてもよさそうなものだが、この鬼は取り繕う布を自分で燃やす。人類の作った礼儀という薄布が、今日も無残である。
深雪乃は、そのたびに眉を寄せる。
けれど、手を振り払わない。
それが、使用人たちをさらに怯えさせていた。
深雪乃が拒まない。
赫臣が離さない。
かつて水桶を倒し、冷えた白湯を出し、食事を抜き、蔵へ閉じ込めることを眺めていた者たちは、今になってようやく、自分たちが踏んできたものの上に誰の影が落ちたのかを理解し始めていた。
遅い。
あまりにも遅い。
けれど、遅くても恐怖は確かに彼らの背中を丸めさせる。
深雪乃は、その変化に勝利の味を覚えることはなかった。ただ、冷めた目で見ていた。恐れられるために生きてきたわけではない。だが、恐れがなければこの屋敷の者たちは手を止めなかったのも事実だった。
夕刻にはまだ早い時刻だった。
雨上がりの庭には薄い光が差している。雲は切れきっていないが、白く濁った陽が庭石と苔を照らし、濡れた葉の端を光らせていた。鵺喰家の庭は広い。南側には手入れされた松や石灯籠があり、池のほとりには菖蒲が植えられている。北庭へ行けば封印蔵があるが、母屋の西側には古い桜の木が立っていた。
その桜は、今は花をつけていない。
季節を過ぎ、枝には濃い葉が茂っている。だが、幹は太く、根は地面を押し上げるように広がり、苔むした石の間へ深く食い込んでいた。幼い頃、深雪乃はその桜へ近づくことをあまり許されなかった。親族たちが花見をする場所であり、客を通す庭の一部でもあったからだ。
それでも、遠くから見たことはある。
白藤色の着物を着た母が、桜の下を一度だけ歩いていた。
花の季節だった。
風が吹き、淡い花びらが母の髪に落ちた。深雪乃は小さく笑って、母の袖を引いた。母は膝を折り、深雪乃の髪にも花びらを乗せた。遠い記憶だ。あまりにも遠く、今では本当にあったことなのか、鏡の遺響だったのか分からないほど薄い。
その桜の下で、また悲鳴が上がった。
最初に聞こえたのは、下男の声だった。
次に、女中たちの足音。
盆が落ちる音。
誰かが「庭だ」と叫ぶ。
赫臣は、深雪乃の手を握ったまま立ち止まった。
「深雪」
「行きます」
答えはすぐに出た。
赫臣の眉がわずかに寄る。
「まだ何も言ってねえ」
「止めるおつもりでしょう」
「止めたい」
「では、行きます」
「お前な」
「見なければならない気がします」
赫臣は、深く息を吐いた。
怒っているのではない。
諦めでもない。
深雪乃がそう言う時、止めきれないと分かっている顔だった。
「俺の後ろだ」
「はい」
「手、離すな」
「それは命令ですか」
「お願いにする余裕はねえ」
赫臣の声は低かった。
深雪乃は、彼の手を握り返した。
「では、今回だけ聞きます」
「毎回聞け」
「調子に乗らないでください」
「今は乗らねえ」
その声が本気だったので、深雪乃はそれ以上言わなかった。
二人は廊下を抜け、庭へ出た。
湿った土の匂いが強い。
雨上がりの庭石は滑りやすく、苔の上にはまだ水滴が残っている。女中たちが母屋の軒下に固まっていた。下男が一人、腰を抜かしたように石畳へ座り込み、震える指で桜の方を指している。親族たちも集まり始めていた。兼近、御厨数馬、夜岐、そして白絹までが、少し遅れて庭へ出てくる。
蓮台累はすでに桜の根元にいた。
彼の外套の裾が濡れている。砂笙も隣に立ち、管狐の先祖返りらしい静かな目で現場を見ていた。蓮台の部下が周囲を押さえているが、鵺喰家の者たちは互いに顔を見合わせ、声を殺している。
死体は、桜の根元にあった。
古い根が地面を盛り上げ、その間に身体が横たえられている。仰向けだった。着物の裾は泥で少し汚れ、片手は根の上へ乗っていた。胸の中央が赤黒く染まっている。
被害者は、鵺喰兼継だった。
深雪乃は、その名をすぐに思い出した。
斎臣の遠縁にあたる男で、親族会議では目立たないようにしながらも、要所で口を挟んでいた。年は五十前後。細い目をした男で、深雪乃を見る時にはいつも薄い嘲りを浮かべていた。
母の遺品にも関わっていた。
深雪乃は、覚えている。
母の白藤色の着物を、虫干しの名目で広げさせた日。兼継はそれを見て、古くさい布だと笑った。使用人に命じ、袖の一部を裂かせた。夜岐はそれを面白そうに眺めていた。祢々は、布が弱っておりますので、と口先だけで言った。深雪乃が止めようとすると、兼継は「妾の布に家の倉を占めさせるほど、鵺喰家は暇ではない」と言った。
あの時裂けた白藤色の糸を、深雪乃は拾った。
捨てられた布の端から、ほんの少しだけ。
今、兼継は桜の根元で死んでいる。
胸には、矢で射抜かれたような傷があった。
しかし、矢はない。
深雪乃は息を止めた。
傷は胸の中央を貫いているように見えた。丸く深い入口。衣服の裂け方は、刃で斬られたというより、細く鋭いものが一点から突き抜けたようだった。血は周囲へ滲んでいるが、長い矢柄も、折れた矢羽も、鏃も見当たらない。
矢で射抜かれたような傷。
だが矢はない。
母の遺品には、古弓と破魔矢がある。
弓を、忘れないで。
折れた櫛から聞こえた母の声が、深雪乃の耳の奥で揺れた。
桜の根元。
矢傷。
母の着物を裂いた男。
胸の奥が、静かに冷える。
赫臣の手が強くなる。
「深雪」
「はい」
「顔色が」
「見ています」
「見すぎるな」
「見なければ、分かりません」
赫臣は何か言いかけ、飲み込んだ。
蓮台がこちらを一瞥する。
「また来たか」
「見ます」
深雪乃が言うと、蓮台は短く息を吐いた。
「見てもいいが、近づきすぎるな。足元が濡れている」
「はい」
赫臣がすぐに言う。
「俺が支える」
「そこまで弱くは」
「滑る」
「あなたが引き寄せる方が危険では」
「支える」
「会話が成立しておりません」
赫臣は答えなかった。
本当に支えるつもりらしい。深雪乃は軽くため息をついたが、手は離さなかった。
蓮台は兼継の胸の傷を調べていた。
「矢傷に見えるが、矢はない」
砂笙が低く答える。
「周囲にも落ちておりません。桜の幹、根元、庭石、植え込み、すべて確認中です」
「貫通した痕は?」
「背側はまだ見ておりません。動かす前に記録を取る必要がございます」
蓮台が頷く。
「胸の傷を見る限り、一点から鋭く入っている。矢で射られたように見えるが、矢柄が残っていない。抜かれたなら、血の跡や持ち去った痕があるはずだが」
白絹が、少し離れた位置から見ていた。
「弓の気配がございますわね」
その言葉に、親族たちがざわめいた。
夜岐の顔が白くなる。
兼近が深雪乃を見た。
「弓、だと」
深雪乃は、その視線を受けた。
母の遺品の中には弓がある。
破魔矢がある。
深雪乃はまだ、その弓を手にしていない。北蔵の奥にあるはずの古弓と破魔矢は、事件が続き、開封が完全には進んでいない。だが、母の声は「弓を、忘れないで」と言った。
親族たちの視線が、また深雪乃へ向かいかける。
赫臣の妖気が、空気を切った。
それだけで、視線が逸れる。
赫臣は低く言う。
「言いたいことがあるなら、口に出せ」
誰も言わなかった。
言えるはずがない。
篝火赫臣の前で、深雪乃が矢傷と関係していると言える者は、今のところいない。思っても、言えない。人間は命が惜しい時だけ、とても賢くなる。
蓮台が、冷めた目で親族たちを見る。
「深雪乃が弓を持ち出した痕跡はない。北蔵の奥はまだ封鎖中だ。勝手な妄想で騒ぐな」
兼近が目を伏せる。
深雪乃は、桜の根元を見た。
その時、視界の端に細いものが映った。
白藤色。
いや、糸だ。
桜の太い根の上に、濡れた土へ貼りつくように、細く裂けた糸が落ちている。白藤色の着物の糸。母の端切れと同じ色。雨上がりの土に触れて、少し濃くなっている。
深雪乃の息が止まった。
「そこに」
指を向ける。
蓮台がすぐに視線を移す。
「触るな」
彼は紙を使って糸を拾い上げた。細い。とても細い。だが、ただの糸ではない。薄い白藤色の絹糸。古い着物から裂けたもののように見えた。
砂笙が、深雪乃を見た。
「母君の着物と、似ておりますか」
「はい」
声は、思ったよりも静かだった。
「母の白藤色の着物の糸です。おそらく」
「根拠は」
蓮台が聞く。
深雪乃は、桜の根元を見ながら答えた。
「以前、兼継様が母の着物を裂かせたことがあります。その時、私は袖の端から糸を少し拾いました。同じ色です。光に当たると、白よりも少し藤色に沈む」
兼近の顔が歪む。
夜岐が目を伏せた。
白絹の瞳が、細くなる。
赫臣の手が、また強くなった。
「裂かせた?」
赫臣の声が低い。
深雪乃は、彼を見ずに言った。
「虫干しの時です。母の着物が古く、倉を占める価値がないとおっしゃって」
「誰が」
「兼継様です」
死体となった男の名を、淡々と口にする。
「祢々が着物を出し、小鈴たちが広げました。夜岐姉上もいらっしゃいました。袖が弱っているから裂けた、と祢々は言いましたが、兼継様は笑っておられました」
小鈴が遠くで震えた。
夜岐の唇が白くなる。
赫臣は、笑わなかった。
「またか」
低い声だった。
「母の遺品を壊した奴が死んでる」
その言葉で、周囲の者たちが息を呑んだ。
喜周。
祢々。
頼成。
そして兼継。
全員が、母の遺品、北蔵、目録、深雪乃への加害に関わっている。
それだけではない。
彼らは、母のものを傷つけた。
髪飾り。
鏡を清める塩。
ブレスレット。
着物の糸。
ひとつずつ、死体のそばへ置かれている。
まるで、母の持ち物が、自分を傷つけた者を指し示しているように。
母の霊。
母の呪い。
その考えが、その場にいる者たちの間へ静かに広がっていくのが分かった。
誰も口にしない。
だが、目がそう言っている。
宵待澄子の怨みではないか。
母君の遺品が、仇を取っているのではないか。
深雪乃は、その気配を感じた。
胸が冷える。
母は、そんなことをするのだろうか。
深雪乃の記憶の中の母は、静かで、優しく、悲しそうに笑う人だった。だが、鵺喰家に利用され、追い詰められ、病に痩せた母が、何を抱えて死んだのか、深雪乃は知らない。母の鏡や櫛や端切れが見せた遺響は、優しい断片だけではなかった。行けない、と首を振る母。深雪には知られないように、と言う母。あの子だけは、私のようにしないで、と願う母。
母が、怒っていなかったとは言えない。
母が、恨んでいなかったとも言えない。
その時、砂笙が別のものを見つけた。
「旦那様」
彼の声は、いつもより少し硬かった。
桜の根の影。
死体の肩口から少し離れた場所。
白いものが一本、落ちていた。
髪のようだった。
細く、長い。
雨上がりの土に貼りつかず、桜の根の乾いた部分に引っかかっている。白い髪。銀にも近い。深雪乃の黒髪ではない。夜岐の髪でもない。白絹の淡い金茶とも違う。赫臣の金髪でもない。
白い髪。
母の髪は黒かった。
だが、病で痩せた母の遺響では、黒髪の中に一筋だけ白いものが混じっていた気がする。記憶違いかもしれない。けれど、今、その白い髪のようなものを見た瞬間、深雪乃の胸が静かに締めつけられた。
蓮台が、紙でそれを拾い上げた。
「髪か」
砂笙が覗き込む。
「人毛に見えます。ただし、普通の髪より霊力を含んでいる」
白絹が、はっと息を呑んだ。
深雪乃はそれを見た。
白絹も何かに反応した。
そして、赫臣も。
赫臣の顔が強張った。
ほんの一瞬だった。
だが、深雪乃は見逃さなかった。
彼の蒼い瞳が、白い髪のようなものを見た瞬間、明らかに揺れた。怒りでも、驚きだけでもない。もっと古い記憶に触れたような、強張り。彼はすぐに表情を戻そうとしたが、深雪乃には遅かった。
赫臣は、これを知っている。
あるいは、この白い髪が示す何かを知っている。
深雪乃は彼を見上げた。
「赫臣様」
赫臣は、深雪乃を見ない。
「後で話す」
早すぎる返事だった。
聞かれる前から、そう言った。
それだけで、深雪乃の疑いは確信へ近づく。
「まだ、何も聞いておりません」
「顔に出てる」
「あなたもです」
赫臣の喉が、わずかに動いた。
深雪乃は、静かに言った。
「その白い髪を、ご存じなのですね」
周囲の空気が止まった。
蓮台が赫臣を見る。
砂笙も。
白絹は沈黙している。
赫臣は、しばらく黙った。
やがて、低く言う。
「確証はねえ」
「心当たりは」
「ある」
深雪乃の胸が冷えた。
赫臣は嘘をつかなかった。
それが救いでもあり、苦しさでもあった。
「それは、母に関わるものですか」
赫臣は答えない。
答えないことが、半分の答えだった。
白絹が、静かに口を開く。
「白い髪に宿る霊力は、ただの怨霊のものではありませんわ」
蓮台が白絹を見る。
「分かるのか」
「ええ。少しだけ。これは、呪いというより、残された誓いに近い気配です」
「誓い?」
「誰かを守るために残されたもの。あるいは、誰かを縛るために残されたもの」
深雪乃は、白い髪を見る。
一本。
ただの一本。
それなのに、桜の根元の空気を変えている。
母の霊か。
呪いか。
守りか。
縛りか。
どれも違うようで、どれも近い気がした。
赫臣が深雪乃の手を握った。
強い。
少し、強すぎる。
深雪乃は彼を見る。
「痛くはありません」
言うと、赫臣がはっとしたように手を緩めた。
「悪い」
「……それほど、動揺なさったのですね」
「深雪」
「はい」
「今は、ここで全部は話せねえ」
「また順番ですか」
「そうだ」
深雪乃は、桜の根元へ視線を戻した。
死体。
胸の矢傷。
ない矢。
母の着物の裂けた糸。
白い髪。
母の霊や呪いを疑わせるには、あまりにも整いすぎている。けれど、赫臣と白絹が反応した以上、ただの偽装とも言い切れない。
誰かが母の遺品を使っている。
誰かが母の記憶を現場へ置いている。
そして今、母とは違うはずの白い髪が落ちている。
深雪乃は、胸の冷えを感じながら言った。
「母の霊が、殺しているように見せたいのでしょうか」
蓮台が頷いた。
「少なくとも、そう思わせたい意図はあるな」
砂笙が言う。
「胸の矢傷、矢の不在、母君の着物の糸、白い髪。すべてを合わせれば、祟り、呪い、母君の遺恨と結びつける者が出てくるでしょう」
兼近が震える声で言った。
「澄子が、まさか」
赫臣の妖気が、冷たく広がった。
「死んだ女に罪を被せる気か」
兼近は口を閉ざした。
赫臣の声は低く、危険だった。
「生きてる間に守らず、利用して、死んだ後も都合のいい呪い扱いか。鵺喰家は本当に、死者の骨まで使い潰す家だな」
誰も言い返せない。
深雪乃の胸に、痛みが走った。
死んだ母を、また利用する。
母の遺品だけではない。
母の死そのもの、母の無念、母の可能性まで、誰かが事件の形にしている。
深雪乃は、桜の根元を見つめた。
幼い記憶の中で、母が花びらを髪に乗せてくれた場所。
その同じ木の根元で、母の着物を裂いた男が死んでいる。
胸に矢傷。
矢はない。
白い髪が一本。
これは、母の復讐なのか。
それとも、母を復讐の道具にした誰かの仕業なのか。
分からない。
ただ、赫臣が白い髪を見て顔を強張らせたことだけは、確かだった。
深雪乃は、その事実を胸に刻んだ。
「赫臣様」
「何だ」
「後で、必ずお話しください」
赫臣は、逃げるように目を逸らさなかった。
深雪乃を見た。
真っ直ぐに。
「ああ」
「今度は、なるべく早くではなく、必ずです」
「分かった」
「約束です」
「約束する」
深雪乃は頷いた。
その瞬間、桜の枝から水滴が落ちた。
ぽたり、と兼継の白布の近くへ落ちる。
花のない桜。
濡れた根。
矢のない矢傷。
母の着物の糸。
白い髪。
深雪乃は、風もないのに桜の葉がかすかに揺れたように見えた。
まるで、誰かがそこにいるように。
母様。
心の中で呼んだ。
返事はなかった。
ただ、桜の根元に落ちていた白い髪が、紙の上で静かに光っていた。




