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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第26話 昼の部屋


 昼の光は、鵺喰家の古い書庫を白く照らしていた。


 雨は上がっている。昨夜から続いた湿気はまだ畳や柱に残っていたが、雲の切れ間から差し込む光は妙に明るかった。障子越しの陽は白く、古い紙束の端や、埃を含んだ空気の流れを浮かび上がらせている。


 深雪乃は、書庫の低い文机の前に座っていた。


 目の前には、母の遺品に関わる記録が並んでいる。


 黒檀銀細工の櫛。


 沈丁花文様の懐中鏡。


 白藤色の着物。


 銀細工の髪飾り。


 白藤色の玉を連ねたブレスレット。


 古弓一張。


 破魔矢十二本。


 弓懸。


 宵待家の文箱。


 名前だけなら、遺言書に記されていた。けれど、その一つ一つがどこで、誰の手に渡り、どの時期に封じられ、なぜ北蔵へ集められたのかは、記録がひどく乱れている。


 乱れている、というより、乱された跡があった。


 墨の濃さが違う行。


 削られた紙面。


 貼り直された目録。


 日付だけが抜かれた控え。


 祢々が管理していたと思われる印。


 御厨数馬の筆跡。


 斎臣の署名らしきもの。


 母の名だけが、何度も薄くなっている。


 宵待澄子。


 その名が、ある行では丁寧に書かれ、別の行では削られ、また別の紙では「澄」とだけ残されている。誰かが意図的に母の輪郭をぼかしたようだった。


 深雪乃は、指先で紙の端に触れた。


 紙は乾いている。


 けれど、井戸端で聞いた紙を破る音が、まだ耳の奥に残っていた。


 ぴり。


 ぴり、と。


 井戸の濡れた石から響いていた音。祢々の袖から落ちた清め塩入りの水。水責めの幻術。頼成の客間で見つかった母のブレスレットの割れ玉。猫の爪痕に似せた五本刃の傷。骨針で落とされた内鍵。


 母の遺品は、死体のそばへ一つずつ置かれている。


 誰かが、深雪乃に見せている。


 母の過去を。


 鵺喰家の罪を。


 そして、深雪乃自身の身体に繋がる何かを。


 考えれば考えるほど、胸の奥が冷える。


 けれど、手は動いた。


 深雪乃は目録をめくり、別紙と照らし合わせ、母の名が出る場所へ小さな紙片を挟んでいく。赫臣が見たら、また「顔が白い」と言うだろう。蓮台なら「休め」と短く言うかもしれない。砂笙は胃を押さえながら茶を出すだろう。白絹なら「危うい子」と言うに決まっている。


 それでも、止まれなかった。


 何かをしていなければ、胸の冷えが広がる。


 深雪乃は、母の鏡を文机の右に置いていた。沈丁花の文様は静かで、今は遺響を見せる気配はない。櫛の欠片と端切れは、布に包んで膝の横に置いている。ブレスレットの割れ玉は証拠として蓮台が預かっているため、ここにはない。


 ないのに、白藤色の小さな玉が、目の奥に残っていた。


 母の手首で鳴っていた音。


 深雪乃が幼い頃、髪を梳いてもらった時に、しゃら、と揺れた小さな音。


 その記憶まで死体のそばへ置かれたようで、胸が少し苦しかった。


 障子の向こうで足音がした。


 深雪乃は顔を上げない。


 篝火家の従者かと思った。


 だが、足音は迷いなく近づき、書庫の前で止まった。


「深雪」


 赫臣だった。


 深雪乃は、ようやく顔を上げた。


 障子が開く。


 昼の光を背にして、篝火赫臣が立っていた。金の髪が白い光を受け、蒼い瞳はいつもより少し険しい。片袖を抜いた崩し和装、耳に並ぶピアス、指輪、首飾り、腕輪。相変わらず派手な男だ。古い書庫には不自然なほど似合わない。だが、深雪乃のいる場所には、いつの間にか似合うようになってしまった。


 不本意である。


 かなり不本意である。


「何をしてる」


 赫臣が言う。


 深雪乃は手元の紙へ視線を落とした。


「見ての通り、母の遺品について調べています」


「顔色は見てねえのか」


「紙に顔色はありません」


「お前の顔だ」


「私は紙ではありませんので」


「知ってる。だから言ってる」


 赫臣は部屋へ入ってきた。


 深雪乃は紙片を挟んだ目録を閉じない。


「今は調べ物を」


「青い顔してる女に調べ物させるほど上品じゃねえ」


 赫臣は、文机の前で屈んだ。


 深雪乃が抗議する前に、彼の手が伸びる。


 ただし、以前のように強引に掴むわけではなかった。まず、手の甲に触れる。深雪乃の反応を見る。逃げないのを確認してから、指を包む。


 熱い。


 昼の書庫は湿って冷えているのに、赫臣の手だけが熱かった。


「赫臣様」


「冷たい」


「紙を触っていたからです」


「嘘」


「何でも嘘にしないでください」


「顔も手も冷たい」


「観察が細かいですね」


「深雪だからな」


「便利な理由です」


「万能だ」


 赫臣は、彼女の手から筆を取った。


 深雪乃は眉を寄せる。


「返してください」


「嫌だ」


「仕事を妨害するのは感心しません」


「恋人が青い顔してるのを放っておく方が感心しねえ」


「恋人という言葉を便利に使い始めていますね」


「使うためになった」


「そのためではありません」


「俺はそのためもある」


「自白しないでください」


 赫臣は筆を文机の端へ置き、深雪乃の前に並んだ紙束を静かに閉じた。


 雑ではない。


 紙を乱さないように、挟んだ紙片の位置も崩さないように閉じる。その手つきに、深雪乃は少しだけ言葉を失った。邪魔をしているくせに、調べ物そのものは大事に扱っている。


 そういうところが、ずるい。


「あとで続きをすればいい」


「今見なければ、何かを見落とすかもしれません」


「今倒れたら、もっと見落とす」


「倒れません」


「お前の倒れません、は信用しねえ」


「失礼ですね」


「信用できる生活してこなかっただろ」


 深雪乃は黙った。


 赫臣の言葉は、痛いところにまっすぐ来る。


 倒れない。


 大丈夫。


 痛くない。


 平気。


 そう言い続けてきた。実際には倒れても、傷が塞がれば立った。痛くても、動ければ働いた。空腹でも、水を飲めば朝になった。深雪乃の「大丈夫」は、周りに都合よく使われてきた。


 赫臣は、それを信用しない。


 深雪乃は、少しだけ目を伏せた。


「……少しだけなら、休みます」


「俺の部屋でな」


 深雪乃は顔を上げた。


「なぜ、そうなるのですか」


「俺が見張る」


「見張られる休息とは」


「恋人の特権だ」


「また便利に使いましたね」


 赫臣は笑い、深雪乃の手を引いた。


 強すぎない。


 けれど、離す気がない。


 深雪乃は文机の上を見た。閉じられた目録、母の鏡、櫛の欠片、端切れ。まだ調べたい。まだ知りたい。まだ追わなければならない。けれど、赫臣の手は熱く、その熱が指先から胸の奥へ入り込んでくる。


 自分が冷えていることに、遅れて気づいた。


 深雪乃は、小さく息を吐いた。


「母の鏡は持っていきます」


「持ってけ」


「櫛と端切れも」


「持ってけ」


「調べ物も」


「それは置いてけ」


「横暴です」


「恋人の特権だ」


「濫用です」


「知ってる」


 赫臣は悪びれずに答えた。


 深雪乃は、母の鏡と櫛の欠片、端切れだけを小さな布に包んだ。目録へは未練があったが、赫臣の視線がそれを許さない。まったく、目つきだけで紙束に勝つ男である。紙も災難だ。


 赫臣の部屋は、鵺喰家の客用離れに用意されていた。


 正式には、篝火家当主の控え部屋だ。だが、赫臣が使うと、そこはすでに赫臣の部屋になっている。畳は新しく、庭に面した障子からは昼の光が入る。床の間には無難な掛け軸がかけられていたが、赫臣の装身具や煙管、羽織が置かれるだけで、部屋の空気はがらりと変わっていた。


 鵺喰家の部屋なのに、鵺喰家の匂いが薄い。


 煙管の香り。


 金属の冷たい匂い。


 赫臣の妖気。


 深雪乃は、そのことに少しだけ安心した。


 部屋へ入ると、砂笙が外で控えていた。


 赫臣は振り返らずに言う。


「人払い」


 砂笙は一瞬だけ黙った。


 深雪乃は、嫌な予感を覚えた。


「旦那様」


「人払い」


「深雪乃様はお疲れでいらっしゃいます。旦那様の勢いでさらに疲労が増える事態は、私としては避けたいのですが」


「増やさねえ」


「その言葉、以前にも聞いた気がいたします」


「今回は増やさねえ」


「信頼性が低うございます」


 深雪乃は、思わず口を挟んだ。


「砂笙様のご判断が正しいのでは」


 赫臣が振り向く。


「深雪」


「はい」


「俺を疑うのか」


「少し」


「恋人なのに」


「恋人だからこそ、現実的な判断が必要です」


 砂笙が、深くうなずいた。


「たいへん賢明でいらっしゃいます」


 赫臣は不満そうだったが、深雪乃の手を離さなかった。


「休ませる。飯も食わせる。無茶はしねえ」


 砂笙は、眼鏡の奥で赫臣を見た。


「誓えますか」


「誓う」


「深雪乃様の意思を無視しないと」


「しねえ」


「命令口調を使わないと」


「努力する」


「そこだけ弱いですね」


 深雪乃も、少しだけ思った。


 赫臣は咳払いもしなかった。


「努力はする」


 砂笙はため息をついた。


「承知いたしました。周囲の者を下げます。ただし、呼ばれればすぐ参ります」


「呼ばねえ」


「深雪乃様が呼ばれる可能性がございます」


「呼ばせるようなことはしねえ」


「そのお言葉を信じたいところでございます」


 砂笙は深雪乃へ目を向けた。


「何かございましたら、障子を二度お叩きください」


「はい」


「旦那様を信用しないためではなく、旦那様を暴走させないための保険でございます」


「聞こえてるぞ」


「聞かせております」


 砂笙は一礼し、外の従者たちへ静かに指示を出した。


 足音が遠ざかる。


 廊下の気配が薄くなる。


 部屋の周囲から、人の気配が消えていく。


 昼の光だけが、障子越しに満ちていた。


 深雪乃は、急に落ち着かなくなった。


 昼間である。


 明るい。


 障子一枚向こうには庭があり、少し離れた場所には篝火家の者が控えている。鵺喰家の使用人たちも、遠巻きにこの離れの様子を気にしているだろう。昨夜や夜明けの部屋とは違う。雨音に隠れる夜でもない。


 昼だ。


 あまりにも、昼だ。


 赫臣は、部屋の中央で深雪乃の手を引いた。


「座れ」


 深雪乃が眉を寄せる。


「命令口調です」


「座ってくれ」


「言い直しが早くなりましたね」


「学んでる」


「たまに」


「たまにな」


 赫臣は笑い、深雪乃を座布団へ座らせた。


 自分も正面ではなく、隣に座る。


 近い。


 やはり近い。


 深雪乃は、母の遺品を包んだ布を膝の上に置いた。


「本当に休むだけですか」


「飯も食う」


「あなたが?」


「お前が」


「私は」


「白湯と粥を持ってこさせる」


「また粥ですか」


「胃に優しい」


「私は病人では」


「青い顔してる」


「便利な言葉ですね」


「事実だ」


 赫臣は、部屋の外へ短く声をかけた。


 すぐに篝火家の従者が膳を運んできた。白粥、小さな焼き魚、梅干し、柔らかく煮た青菜、湯呑み。深雪乃は少しだけ目を見開く。用意が早すぎる。


 赫臣は当然のように言った。


「作らせてた」


「最初から私をここへ連れてくるつもりでしたね」


「そうだ」


「正直ですね」


「隠しても怒るだろ」


「正直でも怒ります」


「可愛い」


「話を逸らさないでください」


 赫臣は笑い、膳を深雪乃の前へ寄せた。


 深雪乃は少しずつ粥を食べた。


 温かい。


 薄い塩気。


 梅干しの酸味。


 青菜の柔らかい苦み。


 鵺喰家で出された冷えた白湯とは違う。篝火家の者が用意した食事は、いつも温かかった。温かいというだけで、身体が戸惑う。


 赫臣は、黙って見ていた。


 黙っているのに、視線がうるさい。


 深雪乃は湯呑みを置いた。


「見すぎです」


「食ってるの見るの好きだ」


「趣味が変わっています」


「深雪が食うと安心する」


 その言葉に、深雪乃は返せなかった。


 赫臣は、深雪乃が食べ終えるまで急かさなかった。途中で「もっと」と言いかけたが、深雪乃が睨むと黙った。学習している。少しずつ。非常に手間のかかる鬼である。


 食事が下げられた後、部屋にはまた二人だけになった。


 昼の光が、少し傾いている。


 庭の水気が光を反射し、障子の下の方が淡く明るい。外の鳥の声が聞こえた。鵺喰家にいるとは思えないほど穏やかな時間だった。


 赫臣が、深雪乃の髪に触れた。


「触るぞ」


「もう触っています」


「悪い」


「……髪なら」


 赫臣の指が、髪を梳く。


 朝もそうだった。


 昨夜の後、彼は深雪乃の髪を何度も梳き、「大好きだ」「愛してる」と言った。今も、指の腹で黒髪をゆっくり整えていく。傷つけないように。絡んだところで止まり、ほどいてからまた撫でる。


「大好きだ」


 赫臣が言った。


 深雪乃は目を伏せる。


「昼から重いです」


「夜も言う」


「知っています」


「朝も言う」


「それも知っています」


「昼も言う」


「今知りました」


「覚えろ」


「命令口調です」


「覚えてくれ」


「……善処します」


 赫臣は笑い、髪に口づけた。


 深雪乃の肩が小さく揺れる。


「赫臣様」


「何だ」


「昼です」


「知ってる」


 即答だった。


 深雪乃は顔を上げた。


 赫臣の目が、すぐ近くにあった。


 蒼い瞳。


 昼の光の中でも、どこか夜の火を宿したような目。そこには甘さがあり、欲があり、心配があり、愛情があった。深雪乃の青い顔を心配しているはずなのに、その心配ごと抱き寄せようとする目だった。


「知っているなら」


「知ってるからいい」


「よくありません」


「夜だけ触れるなんて、俺は言ってねえ」


「屁理屈です」


「恋人だろ」


「便利に使いすぎです」


「好きだからな」


 赫臣は、深雪乃の頬に触れた。


 ゆっくり。


 逃げられるように。


 深雪乃は、逃げなかった。


 昼の光の中で、彼の指は少し眩しく見えた。夜の行灯の火ではない。雨音に隠れる暗さでもない。白い光の中で、頬を撫でられている。そのことが、ひどく恥ずかしい。


 赫臣が口づけた。


 最初は頬へ。


 柔らかく。


 次に額へ。


 髪へ。


 そして、唇へ。


 ちゅ、と短い音がした。


 深雪乃は息を止めた。


 昼の音が、妙にはっきり聞こえる。庭の水滴。遠くの鳥。廊下のさらに向こうを歩く誰かの足音。自分の呼吸。赫臣の吐息。


 唇が離れる。


 深雪乃は言った。


「昼です」


「知ってる」


 また同じ答え。


 赫臣は笑わず、もう一度口づけた。


 今度は少し長い。


 ちゅ、と触れて、離れかけて、また触れる。深雪乃は赫臣の袖を掴んだ。足元は不安定ではない。座っている。けれど、心元が落ち着かない。昨日から何度も使った言い訳が、もう言い訳ではなくなっている。


 赫臣が、低く囁く。


「掴んだ」


「……布地の確認です」


「恋人の袖の確認か」


「言い方を変えないでください」


「可愛い」


「昼から語彙が偏っています」


「昼でも可愛い」


「昼でも、という言い方は」


 また唇を塞がれた。


 深雪乃の言葉が吐息に変わる。


「ん……」


 赫臣の腕が背へ回る。


 背の傷を知っている手は、昼の光の中でも慎重だった。痛む場所を避け、帯の上から彼女を支える。口づけは、啄むようなものから少しずつ深くなる。ちゅ、ちゅ、と短く重なり、やがて長く、熱を含む。


 深雪乃は、息を乱した。


「赫臣、様」


 名を呼ぶと、赫臣の腕が強くなった。


「もう一回」


「……強欲です」


「深雪にだけな」


「何度も聞きました」


「何度も言う」


「赫臣様」


 その声は、深い口づけに呑まれた。


 昼の部屋である。


 明るい。


 障子越しの光が、二人の影を畳に落としている。夜のように隠してくれない。だが、赫臣は気にしない。深雪乃も、最初ほどは逃げない。顔は熱い。恥ずかしい。けれど、赫臣の熱が近いことに、身体はもう少しずつ慣れ始めている。


 それがまた、恥ずかしい。


「……昼です」


 三度目。


 ほとんど抗議としては弱かった。


 赫臣は、唇のすぐそばで返す。


「知ってる」


「知っているのに」


「深雪が青い顔してるから」


「理由に、なっていません」


「俺にはなる」


「あなたの理屈は」


「鬼の理屈だ」


「便利に使わないでください」


 赫臣は、深雪乃を抱き寄せた。


 今度は膝の上へ引き寄せるように。


 深雪乃は一瞬だけ身体を強張らせたが、すぐに彼の肩へ手を置いた。襟を掴む。昼の光の中で、赫臣の金髪が頬にかかる。煙管の香りが近い。装身具がかすかに鳴る。


 外の気配は遠い。


 人払いは済んでいる。


 二人きり。


 昼の部屋で。


 深雪乃の胸が、静かに速くなる。


「赫臣様」


「嫌か」


 赫臣はすぐに聞いた。


 深雪乃は、彼を見た。


 嫌ではない。


 それを言うのは、まだ難しい。


 けれど、言わなければ赫臣は止まるだろう。余裕がなくても、熱があっても、最近の彼は深雪乃の「嫌」を待つようになった。強引なくせに、そこだけは待つ。実にずるい。


 深雪乃は、目を伏せた。


「嫌とは、申し上げておりません」


 赫臣の息が、わずかに乱れた。


「煽るな」


「あなたが勝手に」


「昼だぞ」


 深雪乃は、思わず目を上げた。


「先ほどから私が申し上げています」


「知ってる」


「本当に、勝手な方」


「好きか」


 突然の問いに、深雪乃の言葉が止まった。


 赫臣は見逃さない。


「深雪」


「……好きです」


 小さく言う。


 赫臣の顔が、甘く崩れる。


「もう一回」


「調子に乗らないでください」


「無理だ」


「昼です」


「知ってる」


「会話が戻りました」


「深雪が可愛いからな」


 赫臣は、またキスした。


 深く。


 長く。


 深雪乃は目を閉じる。


 昼の光は、障子の向こうで少しずつ淡くなる。庭の水滴が落ちる音も、遠くの足音も、少しずつ薄れていく。残るのは、赫臣の熱と、煙管の香りと、唇の感触だけだった。


 彼の手が、深雪乃の髪を撫でる。


 頬を包む。


 背を支える。


 何度も口づける。


 深雪乃は「昼です」ともう一度言おうとした。


 だが、声は赫臣の唇に呑まれた。


 障子の向こうの光が、ゆっくり傾いていく。


 部屋の中の影は少しずつ長くなり、畳の目に沿って静かに伸びた。枕元に置かれた赫臣の煙管からは、火を落としたあとの甘く焦げた香りが薄く残っている。装身具の金属音が一度だけ小さく鳴り、その後は雨上がりの静けさに溶けた。


 昼の部屋は、誰にも開かれなかった。


 時間は、二人だけのものになった。


 その後、深雪乃が再び書庫へ戻ったのは、日が少し傾いてからだった。


 目録は、文机の上で閉じられたままだった。挟んだ紙片も、母の名を記した箇所も、何一つ動いていない。だが、深雪乃がその前に座った時、さっきまで胸に貼りついていた冷えは少しだけ薄くなっていた。


 赫臣は、当然のように隣に座った。


 昼の部屋で人払いをした後だというのに、彼はまるで何も隠す気がない顔をしている。隠す気がないのは前からだが、恋人になってから本当にひどくなった。昼でも夜でも、距離が近い。手を取る。髪を撫でる。抱き寄せる。口づける。廊下でも庭先でも、書庫でも控えの間でも、遠慮がない。


 深雪乃は、目録へ手を伸ばそうとした。


 その前に、赫臣が手を握った。


「何ですか」


「冷えてねえか確認」


「さっきも確認されました」


「何度でもする」


「調べ物が進みません」


「休みながらやれ」


「あなたがいると、休みが長くなります」


「いいことだな」


「よくありません」


 赫臣は笑い、深雪乃の手の甲へ口づけた。


 書庫である。


 昼過ぎである。


 障子の向こうには廊下があり、人の気配もある。


 深雪乃は眉を寄せた。


「またですか」


「恋人だからな」


「万能の言い訳にしないでください」


「万能だ」


「あなたの中では、でしょう」


「深雪の中でも、そのうち万能にする」


「しないでください」


 赫臣は楽しそうに笑った。


 深雪乃は、文句を言いながらも手を引かなかった。


 その様子を、書庫の入口に来かけた小鈴が見た。


 小鈴は、敷居の手前で足を止めた。


 深雪乃の手を取る赫臣。


 手の甲へ口づける赫臣。


 それを拒みきらず、頬を赤くしながら目録を開こうとする深雪乃。


 小鈴の顔が、一瞬で青ざめた。


 彼女は何も言わず、膳を持ったまま後ずさった。畳の縁に足を取られかけ、慌てて体勢を整える。以前なら、深雪乃の前でそんな失態を見せれば、すぐにごまかすような笑みを浮かべたはずだ。だが今は、笑わない。


 怯えている。


 昼でも、夜でも。


 赫臣と深雪乃の距離が近いことに。


 それが一時の戯れではなく、日常になり始めていることに。


 深雪乃は、それを静かに見た。


 小鈴は頭を下げる。


「し、失礼いたしました」


 赫臣が深雪乃の手を握ったまま、小鈴を見る。


「何だ」


「お、お茶を」


「置け」


「はい」


 小鈴は膳を置き、すぐに下がろうとした。


 深雪乃が声をかける。


「小鈴」


 小鈴の肩が跳ねた。


「はい」


「そのお茶は、篝火家の方が淹れたものですか」


「あ、はい。篝火家の方より預かりました」


「そうですか」


 深雪乃は頷いた。


「では、いただきます」


 小鈴の顔が、さらに複雑に歪んだ。


 昔なら、鵺喰家の女中が淹れた茶を深雪乃が疑うなど、無礼だと怒っただろう。今は怒れない。怒るどころか、自分たちが信用されていない理由を、嫌でも思い出すはずだ。


 冷えた白湯。


 食事抜き。


 汚された膳。


 捨てられた残飯。


 命じられただけだと逃げた口。


 深雪乃は、淡々と湯呑みを取った。


 赫臣がそれを先に奪う。


「毒味」


「またですか」


「まただ」


 彼は一口飲み、深雪乃へ返した。


「飲める」


「あなたが毒に強いだけでは」


「それもある」


「確認として不十分では」


「砂笙に調べさせた」


「用意がよすぎます」


「お前の口に入るものだからな」


 小鈴は、そのやり取りを聞いてますます顔を青くした。


 深雪乃は湯呑みを受け取り、一口飲んだ。


 温かい。


 湯気が頬へ触れる。


 赫臣の指が、深雪乃の髪を軽く撫でた。


「飲めたな」


「子ども扱いです」


「恋人扱いだ」


「その言葉を使えば何でも許されると思わないでください」


「少し思ってる」


「思わないでください」


 赫臣は笑った。


 小鈴は、もう一度深く頭を下げて逃げるように去った。


 その背中を見送り、深雪乃は湯呑みを置く。


「使用人たちが怯えています」


「ああ」


「あなたのせいです」


「お前に怯えるようになるよりいい」


「私に?」


「そうだ」


 赫臣は深雪乃を見た。


「お前は、怯えられる側に立ってもいい。今まで踏まれすぎた。連中は、自分たちが何をしたか分かるべきだ」


「恐れられたいわけではありません」


「知ってる」


「では」


「だから俺が恐れられてやる」


 深雪乃は、言葉を失った。


 赫臣は、当たり前のように言う。


「お前が直接怖がらせなくてもいい。俺がそばで、こいつに触れたらどうなるか分からせる。それでいい」


「また、横暴です」


「恋人だからな」


「便利に」


「使ってる」


「開き直らないでください」


 赫臣は、深雪乃の頬に短く口づけた。


 深雪乃は目を見開いた。


「書庫です」


「知ってる」


「昼です」


「知ってる」


「人が来たばかりです」


「帰った」


「そういう問題では」


「深雪が好きだ」


 深雪乃は黙った。


 ずるい。


 その言葉を出されると、怒りが鈍る。


 赫臣はそれを知っていて言っている。分かっている。完全に確信犯である。鬼というより、たちの悪い恋人だ。


 恋人。


 その言葉を思うと、胸がまた熱くなる。


 深雪乃は、目録を開いた。


「調べ物に戻ります」


「膝に乗るか」


「戻ります」


「駄目か」


「駄目です」


「じゃあ隣」


「もう隣です」


「もっと」


「距離感を」


「恋人だからな」


「その言葉を禁止にしたいです」


「無理だ」


 赫臣は、さらに少し近づいた。


 肩が触れる。


 深雪乃は文句を言おうとしたが、やめた。代わりに、目録へ視線を落とす。母の名。宵待澄子。清め塩。鏡。櫛。白藤色の着物。弓具。文箱。


 調べなければならない。


 知らなければならない。


 けれど今、隣には赫臣がいる。


 昼でも、夜でも、彼は近い。


 その近さは、深雪乃の調べ物を妨げる。


 同時に、深雪乃が冷えすぎることを止める。


 厄介で、温かくて、迷惑で、救いだった。


 深雪乃は、紙に目を落としたまま言った。


「……赫臣様」


「何だ」


「少しだけ、隣にいてください」


 言ってから、胸が跳ねた。


 赫臣は黙った。


 深雪乃は、失言したと思いかける。


 だが、次の瞬間、赫臣の手が彼女の手を包んだ。


「少しだけじゃねえ」


「調子に乗らないでください」


「無理だ」


「返事が早いです」


「嬉しいからな」


「……作業の邪魔はしないでください」


「努力する」


「信用が薄いです」


「好きだ」


「それも、邪魔です」


「好きだ」


「聞こえています」


「大好きだ」


「増やさないでください」


「愛してる」


 深雪乃は、目録の文字を見つめたまま、顔を赤くした。


 外では、雨上がりの庭にまた薄い光が差している。


 書庫の中は、紙の匂いと煙管の香りが混ざっていた。


 事件も謎も、まだ終わらない。


 母の遺品は、今も深雪乃を過去へ引いている。


 けれど、赫臣の手は現在へ繋ぎとめる。


 昼でも。


 夜でも。


 その距離は、もう以前よりずっと近かった。


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