第25話 恋人宣言
客間に残った血の匂いは、夕刻になっても消えなかった。
頼成の遺体は運び出され、畳には白い布が掛けられ、部屋の前には蓮台の部下と篝火家の従者が立った。だが、死は場所に匂いを残す。水で拭っても、香を焚いても、血が触れた畳の記憶は簡単には薄れない。鵺喰家の客間は、名家の顔を保つために磨かれてきた場所だったが、その顔はもう三度目の死で剥がれかけていた。
深雪乃は、客間から離れた廊下に立っていた。
障子の向こうには雨上がりの庭が見える。雨はやんでいたが、空はまだ暗い。庭石の表面には水が残り、苔の上には細かい雫が光っている。池の水面は黒く、時折落ちる雫だけが小さな輪を作った。
胸の奥は、まだ冷えている。
母のブレスレットの割れ玉。
畳の下から見つかった白藤色の欠片。
猫の爪痕に見せかけた五本刃の傷。
骨針で外から落とされた内鍵。
猫の毛と妖気を混ぜて夜岐へ向けられた疑い。
どれも頭の中で整然と並んでいる。整然と並びすぎていることが、逆に怖かった。喜周の死の時は血の匂いに息を呑み、祢々の死の時は井戸の石から紙を破る音を聞いて胸が冷えた。頼成の死でも、確かに怖いと思った。だが、涙は出なかった。手も震えなかった。
赫臣は、それを見ていた。
今も、隣にいる。
触れてはいない。けれど、ほんの少し深雪乃が傾けば肩が触れる距離に立っている。最近の赫臣は、近いまま待つことを覚え始めていた。実に厄介な進歩である。近いなら近い、離れるなら離れる、どちらかにしてほしい。だが、彼は近いまま、深雪乃が自分から動くのを待つ。逃げ道があるようで、熱だけは逃がしてくれない。
深雪乃は、庭を見たまま言った。
「赫臣様」
「何だ」
「私の手は、まだ震えていませんか」
赫臣の気配が、少しだけ変わった。
すぐに答えない。
それが、答えだった。
深雪乃は自分の手を見下ろした。白い指。母の遺品を握り、赫臣の襟を掴み、死体のそばで割れ玉を見ても震えなかった指。今も、やはり震えていない。
「便利です」
ぽつりと言うと、赫臣の声が低くなった。
「便利って言うな」
「では、役に立ちます」
「同じだ」
「現場で取り乱さないのは、悪いことではないでしょう」
「悪くねえ」
「なら」
「怖い」
赫臣は、短く言った。
深雪乃は顔を上げた。
彼の蒼い瞳が、真正面から深雪乃を見ていた。怒りではない。責める色でもない。もっと苦い、重いもの。深雪乃が自分自身を切り離して、遠くから眺めるような顔をすることへの不安だった。
「お前が震えねえことが怖い」
赫臣は続けた。
「泣かねえことも、怒らねえことも、怖い。お前は賢いから、現場で必要なものを拾う。冷静でいられる。それはいい。だが、お前は自分の心を後回しにしすぎる」
「後で、戻します」
「戻せなくなったらどうする」
深雪乃は、答えられなかった。
庭の水面を見た。
自分の心を後で戻す。
それは今まで何度もやってきたことだった。痛みを後に回す。悔しさを後に回す。怒りを後に回す。恐怖を後に回す。そうしているうちに、何をどこへ置いたのか分からなくなることもあった。
赫臣は、それを怖がっている。
深雪乃が怖がる代わりに。
そのことに気づくと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「赫臣様は」
深雪乃は静かに言った。
「私が壊れることを、恐れてくださるのですね」
「恐れるに決まってる」
即答だった。
「俺はお前が壊れるのを見たくねえ。壊れた後で拾うだけじゃ足りねえ。壊れる前に止めたい」
「あなたは、拾ったから私を気にかけているのですか」
言った瞬間、赫臣の目が変わった。
深雪乃は自分でも、なぜその問いを口にしたのか分からなかった。
けれど、胸の奥にはずっとあったのだ。
雨の帝都で拾われたから。
哀れだったから。
鵺喰家で虐げられていたから。
死なない身体が珍しかったから。
母の遺品と事件に関わる娘だから。
赫臣が深雪乃へ向ける熱に、何度も救われてきた。それでも、心のどこかでまだ問うていた。自分そのものを見ているのか。それとも、傷ついた自分を守ることに、彼が意味を見出しているだけなのか。
深雪乃は、彼を見る。
赫臣は、ゆっくり深く息を吸った。
怒っている。
けれど、深雪乃へではない。
その疑いを深雪乃に植えつけた過去へ怒っている顔だった。
「深雪」
「はい」
「こっちを向け」
「命令口調は」
「嫌いなのは知ってる」
赫臣は、途中で言い直した。
「お願いだ。俺を見てくれ」
深雪乃は、息を止めた。
少しだけ迷い、それから彼へ身体を向けた。
廊下の向こうには使用人の気配がある。事件後の屋敷は、誰もが音を殺して動いている。今も、柱の陰で誰かがこちらを窺っているのが分かった。だが、赫臣は気にしなかった。彼は深雪乃の正面に立ち、片膝をつくことはしなかったが、視線だけをまっすぐ彼女に合わせた。
そして、言った。
「俺はお前が好きだ。拾ったからでも、可哀想だからでもねえ」
深雪乃の胸が、強く鳴った。
赫臣の声は、低く、はっきりしていた。
「鵺喰家で酷い目に遭ってたからじゃねえ。不死身が珍しいからでもねえ。お前が雨の路地で血まみれだったから、同情したわけでもねえ。俺は、あの時のお前を見て惚れた。妖に裂かれても風呂敷を離さず、目を逸らさず、毒を吐いたお前に惚れた」
言葉が、ひとつずつ胸に落ちていく。
「背の傷を見ても変わらねえ。泣いた顔を見ても変わらねえ。死体の前で冷えた顔をしても変わらねえ。むしろ余計に離したくねえ。深雪、お前だからだ」
深雪乃は、唇を開きかけた。
けれど、声が出ない。
赫臣は続ける。
「俺は、お前を守りたい。抱きたい。甘やかしたい。怒らせたい。笑わせたい。泣くなら俺の前で泣いてほしい。怖いなら俺の袖でも襟でも掴めばいい。俺のそばにいろ。俺の女になれ」
深雪乃の頬が熱くなった。
「……最後は、ずいぶん強引ですね」
「最初から強引だ」
「自覚があるなら」
「直さねえ」
「でしょうね」
少しだけ息が震えた。
赫臣の顔は真剣だった。
逃げ道を用意しているようで、彼の言葉は逃げ場がないほど熱い。けれど、それは深雪乃を押し潰す熱ではなかった。自分の方へ来いと願う熱。深雪乃が拒めば傷つくことを分かっていながら、それでも手を伸ばす熱だった。
深雪乃は、赫臣を見つめた。
この男は、雨の帝都で拾った。
布団ごと抱いた。
障子裏で深く口づけた。
北蔵の血の前で疑いを打ち消すように抱いた。
白絹の幻術から連れ戻し、背の傷に口づけ、昨夜は装身具を枕元へ置いて朝までいた。
大好きだ、愛してる、と何度も言った。
そのどれもが、深雪乃の中へ少しずつ染み込んでいた。
自分には価値がないという鵺喰家の声を、少しずつ押し返していた。
深雪乃は、ゆっくり息を吸った。
「私も」
言葉が震えた。
赫臣の目が、わずかに見開かれる。
「私も、あなたが好きです」
言った。
言ってしまった。
胸の奥が、急に熱くなる。頬も、耳も、指先まで熱い。雨上がりの冷えた廊下に立っているのに、身体の内側だけが燃えるようだった。
赫臣が動かなかった。
深雪乃は、その沈黙に耐えきれず、すぐに付け加えた。
「ただし、調子に乗らないでください」
赫臣の口元が、ゆっくり上がった。
それは、深雪乃が見たことのない顔だった。
嬉しさを隠しきれず、余裕も少し失い、けれどどうしようもなく愛しそうに笑う顔。こんな顔をするのかと思った瞬間、深雪乃の胸がまた強く鳴った。
「無理だ」
「早すぎます」
「深雪に好きって言われて、調子に乗るなって方が無理だろ」
「努力してください」
「しねえ」
「最低です」
「大好きだ」
「会話を続けてください」
「愛してる」
「増やさないでください」
「好きだ」
「今、私が言いました」
「だから俺も言う」
赫臣は笑いながら、深雪乃の頬に触れた。
「触るぞ」
「もう触っています」
「悪い」
「……頬なら」
許す前に、言ってしまった。
赫臣の目が甘くなる。
彼は頬を撫で、深雪乃の顔をそっと上げさせた。無理にではない。逃げようと思えば逃げられる程度の力。だが、深雪乃は逃げなかった。
赫臣が口づけた。
最初は短く。
ちゅ、と触れて、すぐ離れる。
深雪乃が息を吸う前に、また重なる。今度は少し長い。雨上がりの湿った空気と、赫臣の煙管の香りが混じる。廊下の端で誰かが小さく息を呑む気配がしたが、赫臣は当然気にしない。気にしてほしかった。いや、気にされたらそれはそれで悔しい。人の心は面倒だ。とても面倒だ。
「ん……」
深雪乃の喉から、かすかに声が漏れた。
赫臣の腕が、腰の少し上へ回る。
背の傷を知っている手。
強くなりすぎないように、けれど逃がさない手。
唇が離れる。
赫臣は、深雪乃の額へ自分の額を軽く寄せた。
「恋人だな」
深雪乃は息を整えながら彼を見る。
「確認が早すぎます」
「好きって言った」
「言いましたが」
「俺も言った」
「それは、だいぶ前から言いすぎております」
「じゃあ恋人だ」
「三段論法が雑です」
「雑でも事実だ」
深雪乃は言い返そうとした。
けれど、言葉が口元で止まる。
恋人。
その響きが、胸に遅れて届いた。
自分と赫臣が、恋人。
拾われた娘と保護した当主ではなく。
事件に巻き込まれた妾腹の娘と、百鬼夜行の主ではなく。
恋人。
ただの言葉なのに、その重さに息が詰まる。
深雪乃は目を伏せた。
「……まだ、慣れません」
「慣らす」
「すぐそうやって決めますね」
「恋人だからな」
「もう使い始めましたね」
「便利だ」
「便利に使わないでください」
赫臣は笑い、またキスした。
今度は頬へ。
次に髪へ。
それから、もう一度唇へ。
深雪乃は「廊下です」と言おうとしたが、口を塞がれて言えなかった。ちゅ、と短い音がして、頬がさらに熱くなる。赫臣は満足そうに笑った。
その瞬間、廊下の向こうで盆が落ちる音がした。
かしゃん、と茶器が鳴る。
深雪乃と赫臣が振り向くと、小鈴が青い顔で立っていた。手には空になった盆。足元には湯呑みが転がっている。割れてはいないが、茶は畳ではなく廊下の板へ広がっていた。
小鈴は、慌てて膝をついた。
「も、申し訳ございません」
赫臣の目が冷える。
「見てたのか」
小鈴が震える。
「い、いえ、その、通りかかっただけで」
「なら何で盆を落とした」
「驚いて……」
「何に」
小鈴は答えられない。
深雪乃は、少しだけ目を細めた。
驚いたのだろう。
深雪乃が赫臣に抱かれ、キスされている光景に。昨日までも距離は近かった。手を繋ぎ、抱かれ、頬に口づけられる場面も見られている。けれど、今の空気は違った。赫臣の宣言と深雪乃の返事で、二人の間にあった曖昧な線が消えた。
保護している娘ではない。
客人でもない。
恋人。
それを、使用人たちは感じ取ったのだ。
そして怯えた。
深雪乃は、小鈴へ向けて淡々と言った。
「片づけを」
「は、はい」
小鈴は震える手で茶器を拾い始めた。
昔なら、こういう時に小鈴は必ず何かを言った。深雪乃のせいで手元が狂った、着物が濡れた、邪魔な場所にいるからだ、と。だが今は何も言わない。赫臣が隣にいるからではない。もちろんそれもある。だが、それ以上に、小鈴は深雪乃自身を見る目を変えていた。
深雪乃が、赫臣の女になった。
その事実が、使用人たちにとって何を意味するか。
彼女たちは、ようやく考え始めたのだ。
遅すぎる。
本当に遅すぎる。
深雪乃は、胸の奥で冷ややかに思った。
痛みを与えている時には想像しない。笑っている時には未来を考えない。相手に後ろ盾ができてから急に怯える。人は自分が安全だと思っている間だけ、残酷さを娯楽にできるらしい。まったく便利な心だ。
赫臣が、深雪乃の肩を抱いた。
小鈴がびくりと震える。
赫臣はその反応を見て、あえて深雪乃の髪へ口づけた。
深雪乃は眉を寄せた。
「見せつけないでください」
「見せてる」
「だから言っています」
「必要だろ」
「何がですか」
「この屋敷の連中に、分からせる」
赫臣の声は低かった。
「お前は、もう一人じゃねえ。勝手に触れられる娘じゃねえ。飯を抜いていい女でも、蔵に閉じ込めていい女でも、笑っていい女でもねえ。俺の女だ」
小鈴の肩が震えた。
廊下の角で、別の女中が立ち止まる気配がした。
その後ろにも、下男がいる。
聞かせている。
赫臣は本当に、わざと聞かせている。
深雪乃は呆れたように息を吐いた。
「それは宣言ですか」
「そうだ」
「屋敷内でなさる必要が?」
「ある」
「また即答ですね」
「鵺喰家の連中は、分かりやすく言わねえと都合よく聞こえねえふりをするからな」
「否定できないところが腹立たしいです」
赫臣は少し笑った。
それから、小鈴を見下ろした。
「聞いたな」
「は、はい」
「広めろ」
小鈴が目を見開いた。
「え」
「聞こえなかったか」
「い、いえ」
「深雪は俺の女だ。俺が惚れてる。俺が守る。俺が甘やかす。次にこいつへ昔みてえな真似をした奴は、俺が直々に躾ける」
廊下の空気が凍った。
深雪乃は赫臣を見る。
「言い方が物騒です」
「抑えた」
「どこをですか」
「斬るって言わなかった」
「比較対象が悪すぎます」
赫臣は、まったく悪びれなかった。
小鈴は何度も頭を下げ、茶器を抱えて逃げるように去った。その背中を見送ると、廊下の角にいた女中と下男も慌てて散っていく。足音が不自然に早い。おそらく、今の宣言は半刻もしないうちに屋敷中へ広まるだろう。
篝火赫臣が、深雪乃を恋人と認めた。
深雪乃も、それを拒まなかった。
この事実は、鵺喰家の者たちの振る舞いを変える。
恐れによって。
深雪乃は、それを思うと複雑だった。
自分が尊重されたわけではない。
赫臣の力が恐れられているだけだ。
けれど、これまで深雪乃を傷つけてきた者たちが、少なくとも簡単には同じことをできなくなる。それは事実だった。赫臣の宣言は乱暴で、所有欲まみれで、品のよいものではなかったが、鵺喰家の使用人たちにはこれくらいでなければ届かない。
深雪乃は、赫臣を見上げた。
「あなたは、やり方がいつも極端です」
「深雪のことだからな」
「それも便利に使いすぎです」
「好きだから仕方ねえ」
「仕方なくありません」
「恋人だからな」
「それも便利に使い始めましたね」
「大事な言葉は何度も使う」
赫臣は、深雪乃の手を取った。
自然に。
もう当然のように。
深雪乃も、少しだけ躊躇したが、引かなかった。
手を繋いだまま歩き出す。
廊下の先には、まだ事件の気配がある。客間では蓮台たちが調べを続けている。夜岐には疑いが残り、母のブレスレットの割れ玉は証拠として保管される。喜周、祢々、頼成。三つの死は、母の遺品と親世代の罪へ少しずつ近づいている。
何も解決していない。
むしろ、闇は深くなっている。
それでも、深雪乃は赫臣の手を握った。
指先が温かい。
ヘ臣の手は大きく、強い。逃げられないように握っているのではなく、逃げなくていいと知らせるように包んでいる。その違いを、深雪乃はもう少しずつ分かり始めていた。
廊下を曲がると、別の下女が向こうから来た。
深雪乃の姿を見るなり、下女は立ち止まった。赫臣と繋がれた手を見る。次に、赫臣の顔を見る。最後に、深雪乃の顔を見る。目に怯えが浮かんだ。
深雪乃は、淡々と頭を下げるでもなく、ただ歩いた。
赫臣はわざと手を離さない。
むしろ指を絡め直した。
「赫臣様」
「何だ」
「見せつけておりますね」
「見せてる」
「隠す気は」
「ねえ」
「少しは」
「ねえ」
「返事が早すぎます」
「恋人だからな」
深雪乃は、ため息をついた。
だが、手は離さなかった。
それに赫臣が気づき、横顔で笑う。
「深雪」
「何ですか」
「もう一回言え」
「何を」
「好きだって」
「調子に乗らないでください」
「乗ってる」
「降りてください」
「嫌だ」
「あなたは本当に」
文句を続けようとしたところで、赫臣が立ち止まった。
廊下の角。
庭の見える場所。
人目はある。使用人が遠くにいる。親族の誰かが襖の隙間からこちらを見ている気配もある。
それでも赫臣は、深雪乃の手を引き、軽く抱き寄せた。
「好きだ」
彼が言った。
深雪乃の胸が、また跳ねる。
「大好きだ」
「増やさないでください」
「愛してる」
「聞こえています」
「お前は?」
深雪乃は、彼を睨んだ。
睨んだつもりだった。
だが、赫臣は嬉しそうに見下ろしてくる。まったく効果がない。武器としての視線が通用しない相手ほど面倒なものはない。
深雪乃は、小さく言った。
「……好きです」
赫臣の顔が、また甘く崩れた。
「もう一回」
「調子に乗らないでください」
「無理だ」
「本当に」
言い終える前に、唇へ口づけが落ちた。
短く、けれどはっきりと。
ちゅ、と小さな音がして、深雪乃の頬が熱くなる。遠くで下女が小さく悲鳴を飲み込んだ気配がした。襖の隙間が、そっと閉まる音もした。
使用人たちは、怯え始めている。
深雪乃が赫臣の腕の中で拒まないことに。
赫臣が隠す気もなく深雪乃を恋人として扱うことに。
今まで見下してきた娘が、百鬼夜行の頭に愛されていることに。
その変化は、静かに屋敷の空気を塗り替えていく。
深雪乃は唇に残る熱を感じながら、赫臣を見上げた。
「廊下です」
「知ってる」
「人目があります」
「見せてる」
「恋人になった途端、悪化していませんか」
「前からこうだろ」
「否定しきれないのが悔しいです」
赫臣は笑った。
そして、深雪乃の髪を撫でた。
何度も。
人前で。
当然のように。
深雪乃は、もう抗議の言葉を探すのに少し疲れていた。代わりに、彼の袖を軽く掴む。赫臣はそれだけで満足そうな顔をする。
「可愛い」
「語彙が偏っています」
「俺の恋人が可愛いから仕方ねえ」
「言い方を変えただけですね」
「大事な変化だ」
「あなたにとっては、でしょう」
「お前にとってもだ」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
恋人。
まだ慣れない。
けれど、胸の奥でその言葉が温かく灯っている。
事件は終わっていない。
母の過去も、父の遺言も、井戸端の紙の音も、夜岐へ向けられた疑いも、何も解けていない。むしろ、これからさらに深くなるのだろう。鵺喰家の闇は、まだ底を見せていない。
それでも、深雪乃はもう一人ではなかった。
赫臣の手がある。
腕がある。
うるさいほどの言葉がある。
そして、自分から返した言葉がある。
私も、あなたが好きです。
それを思い出すたび、顔が熱くなる。
赫臣は、また口づけようとした。
深雪乃は片手で彼の胸元を押さえる。
「これ以上は控えてください」
「恋人なのに」
「恋人でも節度は必要です」
「俺には少ない」
「存じております」
「なら諦めろ」
「諦めません」
「俺も諦めねえ」
「何の勝負ですか」
「深雪を甘やかす勝負」
「対戦相手が見当たりません」
「俺自身」
「大変ですね」
「楽しい」
赫臣は笑い、深雪乃の手の甲へ口づけた。
唇ではない。
だが、充分すぎるほど人前だった。
廊下の端で、また誰かが息を呑む気配がした。
深雪乃は、もうため息をつくしかなかった。
けれど、手を引かなかった。
赫臣は満足げに、その手を握ったまま歩き出す。
雨上がりの鵺喰家の廊下を、二人は並んで進んだ。
使用人たちは道を空ける。
親族たちは襖の奥で息を潜める。
誰も、以前のように深雪乃を見下ろすことができなかった。
赫臣の手が、深雪乃の手を包んでいる。
その事実が、屋敷中に広がっていく。
深雪乃は、少しだけ指を握り返した。
赫臣がすぐに気づき、嬉しそうに笑う。
その顔を見て、深雪乃は小さく言った。
「調子に乗らないでください」
赫臣は、当然のように答えた。
「無理だ」
そしてまた、深雪乃の髪に口づけた。




