貝殻
それは突然のことだった。
「工場長、今日までありがとうございました」
「いえいえ、とんでもない。渡辺さん」
「工場では、お世話になりました」
「もったいないお言葉です。みんな、聞いてくれ。渡辺君、いや長崎ダイヤモンド貿易会社の副社長である渡辺雄二さんは、わが工場が今後お世話になる方だ」
「どうしてですか? 工場長。どうしてここで働いていたのですか?」
「渡辺さんは、来週の月曜日に、長崎ダイヤモンド貿易会社の副社長としてギリシャへ赴任されるため、日本を離れられる。それまでの間、この工場で働きたいという内密の申し出があり、私はお迎えした。理由までは、私にも知らされていなかった」
「渡辺さん、どうして……」
「水江さん……」
渡辺は心に秘めていることがあった。
「工場長、お願いがあるのですが、私と水江さんと二人きりにさせていただけませんか?」
「ええ、もちろんです」
「水江さん、今まで内緒にしていてごめんね。僕は事情があって、そうせざるを得なかったんだ」
「どうして、工場で働いたのですか? それも秘密ですか?」
「いや、僕は最初に出会った野原で、以前に君を見かけているんだ。それ以来、水江さんのことが忘れられなくなって……調べた結果、工場で水江さんが働いていることがわかってね、それで、工場で働けるようにお願いしたんだ」
「そうだったのですか……私は夕日の向こうから、私を見てくださった、渡辺さんに夢中になりました。でも、どうしてですか? どうして、私と手を繋いでもらえなかったのですか?」
「それは……一緒に浜辺を歩こう」
「はい」
「ほら、あの時と同じようにピンクの貝殻があるよね」
「はい」
「あの時もそうだったけど、その貝は、閉じているかな?」
「いえ、両脇に開いています」
「そうだよね。その貝を閉じてみて」
「はい」
「次は放してみて。どうなったかな?」
「また、開きました」
「僕と水江さんはピンクの貝と同じように繋がらないんだよ」
「ううう……どうしてですか?」
「それは言えないというより、言いたくない……」
「でも……今はどうかな?」
「はい、優しく抱きしめてくださっています」
「最後のお願いを神様にしたところだよ。このままで聞いて」
「はい」
「僕はギリシャに向かう当日は、社員が多くて、直接会えない。だから、ここでお別れしよう……」
「いやです……」
「悲しいけど、それが現実なんだ。別れ惜しいけど、そろそろかな……」
「いやです……」
「それじゃ……」
「渡辺さん。渡辺さん……」
「水江さんのことは一生忘れないよ」
琴音に悲しみの和音が響いた。
「琴音ちゃん……」
「はい、川崎先生」
「残念なお知らせがあってね、琴音ちゃんに教えるのも今日までなんだ……」
「どうしてですか?」
「実は家賃が払えなくなってね。もう少ししたら引っ越ししないといけない。こんな家は僕は嫌いだったけど、琴音ちゃんとお別れするのはさびしいな……」
「嫌です……川崎先生」
「最後にあの曲を弾くから。今度は最後まで弾くよ。琴音ちゃん泣かないで……」
「先生も泣いているじゃないですか……」
「琴音ちゃん、元気で頑張ってね……」
「嫌です」
「先生、一度でいいから、優しく抱きしめて」
「それはできないよ」
「どうして……?」
「だって、琴音ちゃんはまだ幼いだろう」
「琴音はもう大人です」
「そんなわがままを言ったら駄目だよ、それでは、もう行かないと……」
「待ってください」
「ごめんね。琴音ちゃん……」
「待って、先生……先生に……先生に渡そうと思っていたの」
「何かな?」
「マフラーよ。琴音は先生のことを想って一生懸命に編んだの。毎日編んだのよ、なのにどうして……」
「琴音ちゃん……」
「じゃあ、これを私だと思って……」
「わかったよ、琴音ちゃん……」
自宅にて
「お姉さん、お姉さん、川崎先生が……どうして、お姉さんも泣いているの?」
「渡辺さんとお別れすることになったの……」
「私も川崎先生とお別れだったの……」
「そうだったの……」
「うん、お姉さん……」
「渡辺さんは来週の月曜日に長崎港からギリシャに行くの……」
「どうして……?」
「仕事があるからみたい……でも、渡辺さんの気持ちがわからないの……川崎先生とはどうして、お別れだったの?」
「大きなお家の家賃が払えないからって……」
「そう、渡辺さんとはお別れをしたけど、出航の日にお見送りする」
「私も川崎先生とお別れのつもりで一緒に行く」
「そうね、わかった……」
別れの音が、ささやくように響いた。




