遠い記憶
悲しみは戸惑いと共に存在した
「お姉さん、どうしたの? 今日は元気がないよ。もしかして、渡辺さんのこと?」
「うん、もう、渡辺さんの気持ちがよくわからないの……私を誘ってくれるけど、手はつないでもらえなくて……優しい人だけなのかな? でも、私に好意を持っているようにも感じて……」
「そうね、告白してみたら?」
「う~ん、恥ずかしいかな? それに断られた時が悲しい……」
「そうね、お姉さん」
「琴音は川崎先生と仲良くしているの?」
「うん、実はね私の前の生徒さんより、私の方の練習時間が長いの。それにね、花占いで両想いだったの!でも年が離れすぎているから……」
「年は関係ないと思うよ」
「そうかな?」
「うん、そうだと思う。琴音こそ告白してみたら?」
「そうね!でも、恥ずかしいから……最近は川崎先生のことが頭から離れなくて、女学校での授業でも集中できないの。辛いな……」
「私も渡辺さんのこと気になって、でも、渡辺さんの気持ちが、わからない……わからないの」
「そのうち何かいいことがあるかもよ」
「そうだといいけど……」
男はまた呟く
「目の前に突然現れる悲しい海。波に流されていくのだろうか。消えては現れ、消えては現れ僕の夢を消え去ろうとしている。どうしてなんだ」
「また、独り言を言っている。男らしくないわよ。何を黙っているのよ」
「そっとしておいてくれ……」
「わかったわ」
男の記憶には、どこか影が差していた。
「父さん、母さん。突然、どうして……」
「仕方ないんだよ。わかってくれ」
「わかった、父さん、母さん、仕方ないよな」
琴音はピアノ教室にてレッスンを受けていた。
「先生、ほら」
琴音の表情に灯りが差した。
「琴音ちゃん、上手くなったじゃない……」
「そうでしょ、先生」
「そうだね、琴音ちゃんは上達が早いよ」
「だって……」
「どうしたの?」
「なんでもない。川崎先生」
「もう、簡単な練習曲が弾けるよ」
「うん」
「先生も弾いてみようか……」
「うん、どうして涙を浮かべているの……?」
「気のせいだよ」
「そんなことないわよ。何かあったの? 先生……」
「だから、気のせいだよ……」
「そうかな……?」
「ごめんね、今日の練習はここまでにしよう……」
「はい、先生、元気をだしてね……」
「ありがとう、琴音ちゃん……」
何かが待ち受けている音が聞こえてきた時だった。
水江と渡辺は残って仕事をしていた。
「水江さん、今日は忙しかったね」
「そうですね」
「今日、僕は疲れたから早いけど帰るね」
「はい」
「それじゃ」
水江はあることに気づいた。
あ、お弁当箱を忘れている。追いかけなきゃ。
あ、いた。どうしようかな。後をつけてみよう。
でも、怒られちゃうかな? どうしよう……
そうだ、家に着いたら、そこで渡してびっくりさせてみよう。
渡辺は家にたどり着いた。
「ただいま」
「ああ、お帰り」
ええ、こんな古くて小さい家に住んでいるの?
どうしようかな、お弁当箱を渡しづらいな。
でも、渡さないと……
「渡辺さん……」
「どうしたの、水江さん? もしかして、後を追ってきたの?」
「はい、お弁当箱を忘れていたので、追いかけてきたら、ここまで……ごめんなさい」
「いいよ。古くて小さい家だけど、よかったら上がっていって」
「いいのですか?」
「ああ、いいよ」
「あら、雄二、会社の人なの?」
「ああ、知り合いだよ……」
知り合い。
その言葉が、水江の胸に小さく刺さった。
「渡辺さん……帰ります……」
「水江さん……」
琴音が川崎からピアノのレッスンを受けていた時のことだった。
「先生、先生、先生」
「どうしたの、琴音ちゃん」
「この曲を弾きますから聞いてください!」
「うん、弾いてごらん」
「ほら、先生!」
「これは前に先生が弾いた曲のメロディーの部分だけだね」
「伴奏はないけど、ちゃんと弾けるでしょ」
「すごいね……」
「琴音は一生懸命練習してきたのよ。頑張ったの!」
「偉いね!」
「先生に褒められると思って!」
「頑張ったね!」
「うん! あ、そういえば、このお家は大きいですね。先生が一人で住んでいるのですか?」
「そうだね……」
「さびしくないですか?」
「ああ、寂しいね……」
「じゃあ、先生。私が毎日来て、お掃除してあげる。お家が広いと掃除が大変でしょ?」
「いや、それは悪いよ、お母さんに相談してごらん、それに僕は男性だよ。駄目だよ」
「大丈夫よ、先生はそんな人じゃないし、そのかわり、先生、月謝を半分にして。それならいいでしょ」
「仕方ないな……お母さんがいいと言ったらだよ」
「やったあ」
「でも掃除したら、明るいうちに、すぐ帰るんだよ」
「はい!」
ある男はためらいがあった。
「どうして、私の気持ちがわかってくれないの」
「いや、わかっているよ……」
「嘘をつかないで、私でもわかるのよ。私のことを愛している?」
「ああ……」
「本当なの?」
「ああ、そうだよ……」
「ちがう、あなたの目はいつもどこか遠くを見つめている。誰なの教えて」
「勘違いだよ……」
男の胸に、遠い記憶がよみがえった。
「ごめんね」
「どうして、お母さん……」
「いつも、満足に食べさせてあげられなくて……」
「そんなことはないよ。お母さんとお父さんがそばにいるだけでも幸せだよ」
「すまない」
「本当だよ、お父さん。そうだ、近くの野原でさ、みんなでご飯を食べよう。理恵子も一緒にね、おむすびとメザシだけで十分だよ」
「それでいいのかい?」
「ああ、みんなで一緒に食べたい。そうだろ、理恵子」
「うん」
ある男には理恵子という妹がいた。
「母さん、ほら、着いたよ。ちょうど、夕日が見えてきれいだね」
「本当だね」
「美味しいよ」
「そうね」
「理恵子、ほら、お兄ちゃんがおんぶしてあげるよ」
「キャ」
「わあ、夕日がきれい。でも、重いでしょ」
「そんなことないよ」
「本当にきれいね!お兄ちゃん!」
「お父さん、お母さん、僕は今の生活が一番幸せだよ」
「そうか……」
琴音と水江は、それぞれの恋に戸惑っていた。
そして、ある男は遠い記憶の中に沈んでいた。
それぞれの想いは、まだ見えない場所で静かに交錯していた。




