消えたピアノの音
翌日になって、琴音はもう一度楽譜を開いた。
曲は渡辺と以前弾いたことのある、「アヴェ・マリア」だった。
渡辺がどのような想いでこの曲を渡したのかわからなかった。
でも、なぜか温かい気持ちになった。
涙が風になって飛んでいくようだった。
ある日、看護婦が病室へ入ってきた時のことだった。
琴音はベッドの机を指で叩いていた。
それに気づいた看護婦は琴音に声をかけた。
「琴音さん、机をたたいてどうしたの?」
「看護婦さん、これはピアノの練習よ。ここはピアノがないから机をピアノ代わりにしているの」
「でも、音は出ないでしょ?」
「そうなのよ」
「それでも、練習するの?」
「うん。鍵盤の位置はわかるのよ」
琴音は渡辺へ思いを寄せた。
先生、琴音は辛いけど頑張ります。
先生に次に会った時はもう弾けるようになります。
褒めてくださいね。
私は片思いなのよね……
先生はきっとお姉さんが好きなのでしょ。
でも、それでもいいのよ。
先生を好きな気持ちは変わらないから。
水江は琴音の見舞いに行った。
琴音の気持ちを考えると悩んだすえだった。
「琴音、今日はみかんを持ってきたわよ」
「お姉さん、この間はごめんなさい」
「いいのよ」
「お姉さんと先生は恋人同士なのでしょ」
「ちがうわ」
「お姉さん、もういいの。もういいのよ」
水江は何も言えなかった。
沈黙がしばらく続き、水江が重い口を開いた。
「琴音、私と渡辺さんは恋人同士ではないけど、もう会わないことにしたの……」
「どうして……?」
「それは……」
「嘘でしょ?」
「いろいろ、あるのよ……」
「何がいろいろなの? 私が可哀想だから?」
「それは……」
「やっぱり、そうなんでしょ」
水江は琴音のことを考えると、思いがこみ上げてきた。
「もういいのよ。もういいのよ……」
水江はそう言いながら、病室を後にした。
どうして……お姉さん……
好きだったら、いいじゃない……
そんなに私が可哀想なの……?
水江も琴音のことを考えると、これ以上にないくらいの悲しみに襲われた。
琴音、どうして……
まだ、十七歳でしょ……
まだ……
私だけ幸せになれるはずがないじゃない……
どうして……
水江は思い直して、病室へ戻った。
「お姉さん、さっきはどうしたの? どうして戻ってきたの?」
「みかんをお姉さんも食べたくなったのよ」
「うん、美味しかったわよ。お姉さんも食べて。ねえ、お姉さん……」
「どうしたの?」
「私はよくなるのかしら? なんだか不安なのよ」
「大丈夫よ……」
水江はつとめて明るい笑顔を見せた。
「そうよね。お姉さん」
「うん」
水江がみかんの皮をむくと、みかんの汁が琴音の顔にはじけ飛んだ。
「あ、ごめんね、大丈夫?」
琴音は手で顔を拭いて、その汁を舐めた。
「大丈夫よ。美味しい」
ふふふ
二人は小さく笑った。
「お姉さん……お姉さんはどうして、そんなに優しいの?」
「突然、どうしたの?」
「だって……」
水江は琴音が何を言いたいかが伝わってきた。
「琴音、今度は柿を持ってくるからね」
「うん……」
病室から消えたはずのピアノの音が、鳴り響くようだった。




