ヴォカリーズ
琴音はおさらい会の後に渡辺にピアノを教えてもらえる約束をしていた。
理恵子を通じて、その日がやってきた。
渡辺がギリシャに行く前に教わって以来だったので、なおさらだった。
琴音は心を躍らせながら、レッスンを受けに行った。
渡辺の実家は大きな家ではなかったが、部屋の片隅にはピアノが置かれていた。
「わあ、先生、ピアノがあるのですね!」
「ああ、ここで先生は練習しているんだよ」
「先生、嬉しい、先生、やっと教えてもらえます!」
「ああ、本当だね!」
琴音は以前、ショパンの『別れの曲』をやさしくし直したものを、もう一度教えてもらうことになった。
「先生、この間、おさらい会で上手く弾けなかったから、練習してきました! 頑張ったの」
「そうなんだね! 弾いてごらん」
琴音は胸が熱くなった。
緊張のあまりうまく弾けなかった。
「あれ、先生、家では弾けたのに……」
涙が少し溢れそうだった。
「大丈夫だよ。琴音ちゃん。上手になったね!」
「本当!?」
「ああ、上手だよ」
琴音は続きを弾き始めた。
「あれ、どうしたの? 琴音ちゃん?」
「え、先生どうしましたか?」
「ちょっとボーっとしていたのかな?」
「そんなことはないですよ……」
「少し顔色が悪いから休憩しようか?」
「大丈夫です! 先生、気のせいです」
「それなら、いいけど……無理はしないでね」
レッスンが終わった。
「琴音ちゃん、ギリシャでもらった紅茶を飲む?」
「紅茶って外国のお茶ですか?」
「ああ、香りのあるお茶だよ。砂糖を入れると飲みやすいよ」
「飲んでみたいです」
渡辺は紅茶をついだ。
琴音は両手で茶碗を持ち、そっと口をつけた。
「美味しい。甘くて美味しい!」
「よかった!」
琴音は下をうつむいた。
ぽつりと言った。
「先生、私のことを本当にどう思っていますか?」
「ああ、可愛いよ」
「それだけ……?」
「大事な妹みたいだよ」
「それだけですか……」
琴音の頬が赤くなった。
「どうしたの? 急に?」
「なんでもないです……」
琴音はしばらく黙り込んだ。
口を開いた。
「先生に初めて会った時に先生が肩に乗せてくれるって言ったでしょ」
「そうだったかな……」
「先生、恥ずかしいのよね」
「どうして?」
「先生、いつか肩に乗せてください。今は少しぽっちゃりしていますから、もう少し痩せますね」
「そんなことはないよ」
「もう、いいです……」
琴音は帰る準備をした。
「どうしたの?」
「先生、私とお姉さんはどっちが好きですか?」
渡辺は一瞬、言葉を失った。
「そうだね。琴音ちゃんもお姉さんも大切に思っているよ」
渡辺は優しく微笑んだ。
琴音の気持ちは十分すぎるほどわかっていたが、つとめて微笑んだ。
「そうですか……先生、帰ります」
「どうしたの……? 琴音ちゃん」
「先生は優しいだけなのですか……?」
「琴音ちゃん……」
「先生、今日はありがとうございました……」
琴音はそう言うと渡辺の家を後にした。
外に出ると、初秋の風が吹いていた。
木々の葉が、ほんの少しだけ色づいていた。
木の葉が一枚、ひらりと落ちていった。
琴音はそれを目で追った。
「え……先生……」
その声は、とても小さかった。
木の葉が地面へ近づいていく。
琴音の身体も、それに合わせるように、ゆっくりと傾いた。
「琴音ちゃん!」
渡辺は駆け寄った。
琴音の身体は、崩れるように渡辺の腕の中へ落ちた。
「琴音ちゃん、琴音ちゃん」
渡辺は必死に叫んだ。
「琴音ちゃん。しっかりして」
次回より最終章へ入ります。
物語が大きく動きますので、少しお時間をいただくかもしれません。




