忘却
琴音はミレーゼと渡辺が別れたと聞いて複雑だった。
胸の奥に、小さな灯りが灯った。
けれどすぐに、その灯りを隠すように渡辺の顔が浮かんだ。
悲しみを帯びた渡辺の表情だった。
琴音は何より、渡辺の笑顔が見たかった。
理恵子からそっとしておくようにと言われていたが、何かできることがないか考え続けた。
理恵子に相談した。
「理恵子、先生が元気になれるようにできることはないかしら」
「そうね、何をしゃべっても元気がないのよ」
「手紙を書いてもだめかしら」
「お兄ちゃんに聞いてみるね」
「うん」
理恵子は渡辺にそっと聞いた。
「お兄ちゃん、琴音ちゃんが心配していて、手紙を書いてもいいのっていうのよ」
「じゃあ、お兄ちゃんが琴音ちゃんに手紙を書くから渡してくれる?」
「うん」
琴音ちゃんへ
琴音ちゃん、元気にしていますか?
理恵子から聞きました。
先生は今、体の調子が悪いだけだから、心配いらないよ。
もう少ししたら、元気になるからね。
その時は一緒にピアノを弾こうね。
渡辺
理恵子は渡辺からの手紙を琴音に渡した。
手紙を読んで琴音は余計に心配になった。
「理恵子、先生に今は我慢するから、お手紙だけ渡してね」
「うん」
川崎先生へ
先生、琴音は心配です。
先生が元気がないなら、琴音も元気がなくなります。
でも、琴音は頑張ります。
だって、先生は頑張る子が好きだって言ってくれたでしょ。
先生も頑張ってね。
あ、間違い、無理しないでね。
早く琴音は先生とピアノを一緒に弾きたいです。
よくなってくださいね。
琴音
理恵子は渡辺に手紙を渡した。
渡辺は琴音の手紙を読むと、込み上げてくるものがあった。
渡辺は窓の外を見ながら想いにふけた。
琴音ちゃん、ありがとう。
ありがとう。
僕は情けない……
誰一人、女性を幸せにすることができない……
琴音ちゃんにだってそういう思いをさせている。
いっそこのまま消えてしまいたいくらいだよ。
何もかも忘れてしまいたい。
渡辺は気持ちを抑えて琴音に返事を出した。
琴音ちゃんへ
ありがとう。
先生は早くよくなるからね。
頑張るよ。
琴音ちゃんもピアノ頑張ってね。
お互い頑張ろうね。
渡辺
渡辺は手紙を理恵子に託したものの、心の中にすっぽり穴が開いたようだった。
まるで、忘却の中をさ迷っているようだった。




