雨粒
そんな……
馬鹿なことを……
どことない響きは、まるで蜃気楼のように揺れていた。
琴音は家でオルガンの練習をしていた。
背筋を伸ばして弾いていた。
白い小さな手でたどたどしく弾いていた。
「相変わらず、琴音もオルガンが好きね」
「うん、お母さん。そろそろ、ピアノが欲しいな」
「うちはお金がないから、オルガンで我慢しなさい」
「仕方ないわね」
そこに、水江が現れた。
空港に見送りに行けなかったことが、どうしても心にひっかかっていた。
「琴音……渡辺さんはやっぱりミレーゼさんとギリシャに帰ったのよね……」
「お姉さん、もうその話はやめて。お姉さんは忘れるって言ったじゃない」
「そうね。ごめんね……」
ゆうがなぜか遠くを見るように吠えていた。
「どうしたの? ゆう? お腹空いたの?」
ゆうは吠えるのをやめた。
「違うのね、なんだか変ね。そっか散歩に行きたいのね」
琴音とゆうは散歩に行った。
引っ越した町は小高い丘で、野原が広がり、遠くには海が見えた。
海が琴音を呼んでいるようだった。
「ゆう、今日は遠いけど、海まで散歩しよう」
海に着くと琴音は何とも言い難い気持ちになった。
美しい景色が目の前に広がると同時に、あの時の記憶がよみがえった。
そういえば、先生は海でお姉さんと……
でも、違うのよ。あれは先生のやさしさなの。
そうよ、そうよ……
本当に先生が好きなのは琴音なのよ。
先生も辛いのよ。
琴音も頑張らないと。
うん、そうしよう。
「ゆう、あの木まで走るわよ」
琴音は走った。走った。
息を切らしながら走った。
波音がどこまでも琴音の胸に響いた。
木の近くまでたどり着くと、なぜか琴音は空を見上げた。
雲がぽっかり浮かんでいる。
先生は今ごろどうしているのかしら。
いつまでも、先生のことを好きでいたほうがいいのかな……
お姉さんみたいに忘れたほうがいいのかな……
先生、教えて……
ゆうが小さく吠えた。
そうね。やっぱり忘れたらだめよ……
だって、先生のことが好きなんだから……
帰って、オルガンの練習でもしよう。
空から、小さな雨粒が落ちてきた。
なぜか、琴音には冷たく感じられた。
ゆう、急いで帰るわよ。
琴音は走って帰った。
雨粒のはじく音が響くようだった。




