たんぽぽ
渡辺は日本公演が終わり、その夜は実家で理恵子や家族と過ごした。
渡辺の家は優しさに包まれた。
しかし、それもつかの間だった。
ギリシャでの仕事や、予定されたピアノの演奏会が迫っていたからだ。
待っていたのはそれだけではなかった。
迫っていた現実だった。
「雄二、約束よね。もう、水江さんのことは忘れたのでしょ」
「ああ……ギリシャに帰るよ」
琴音は渡辺からギリシャに向かうことを聞き、その当日に見送りをした。
しかし、そこには水江の姿はなかった。
渡辺は、心のどこかにすっぽり穴が開いたようだったが、現実を見据えていた。
「先生、もう行ってしまうのですか……もう一度ピアノを教えてもらいたかったです」
「ああ、琴音ちゃん、ごめんね。今度必ず練習しようね」
「必ずよ……」
「ああ、約束するよ」
「本当? 必ずよ」
「ああ」
「先生はやっぱりミレーゼさんと結婚するの?」
「そうなんだよ。琴音ちゃん」
「先生の馬鹿……」
琴音は走って、空港から去ろうとした。
でも、思い直してすぐに戻ってきた。
「やっぱり、先生、先生……元気でね……」
「ああ、琴音ちゃんもね」
琴音は飛行機が見えなくなっても手を振り続けた。
一方で、水江は必死で渡辺のことを忘れようとしていた。
渡辺がギリシャに行った夜、水江は眠りにつけなかった。
窓からはみでている月を眺めていた。
琴音は辛さのあまり、ふさぎ込む日々が続いた。
それを見かねた、水江は心配でなんとかしたかった。
そして、あることを思いついた。
「琴音、子犬を近所の人からもらったのよ。ほら」
「わあ、可愛い。いいの?」
「うん、いいわよ」
「じゃあ、お姉さん、名前は『ゆう』ってつける」
「どうして?」
「だって、川崎先生の下の名前は雄二でしょ」
「もう、琴音ったら」
「ゆう、可愛いゆう、これから私の先生よ。お手!」
「駄目よ。渡辺さんの名前をつけたら」
琴音は何も言わず、ゆうをじっと見つめていた。
学校が終わり、夕方になると決まって、ゆうと散歩をした。
雨の日も風の日も散歩は続いた。
次第に琴音にも笑顔が戻ってきた。
渡辺と別れて、しばらく時が経った。
琴音は十七歳になっていた。
春の柔らかな日だった。
ゆうと散歩をしていた時だった。
野原にたどり着くと、そこにはたんぽぽが一面に広がっていた。
わあ、きれい。
摘んでみようかしら。
でも、可哀想ね。
一つだけね。
きれい。
ふう—
わあ、飛んだ
でも、なんだか飛んでいっちゃったら思い出しちゃった。
先生、先生。
私の想いも飛んでいってしまえ……
あ、駄目よ。駄目。
だって、忘れないって決心したでしょ。
ふふふ
琴音の馬鹿。
じゃあ、ゆう、帰ろう。
あ、たんぽぽの中に可愛い赤い花が咲いている。
春っていいな。
どうしたの?
ゆう、そんなに不思議そうに私を見つめて?
琴音にも、赤い花がなんだか不思議に映った。
でも、やっぱり琴音が可愛いのね。
ふふふ
琴音に優しい春がやってきた。




