優しい夜
渡辺は理恵子の名を呟くも、その後は声にならなかった。
そこには、亡くなったはずの理恵子が立っていた。
渡辺の混乱は収まらず、演奏会はさらに騒然となり主催者の取り計らいで中断された。
琴音は状況がわからず、立ち上がった百合子に声をかけた。
「百合子、どうしたの? どうして、先生のことを……?」
百合子は涙を浮かべ、声が震えていた。
「お兄ちゃん……」
百合子の父親は、その空気の変化に気づいた。
今までの出来事が走馬灯のようによみがえった。
まさか……百合子……
記憶が戻ったのか……
そうだったのか……
状況を理解できた百合子の父親は、事情を話し出した。
「渡辺さん、あなたは百合子のお兄さんだったのですね。実は私は馬車でこの子を跳ねてしまいました」
「あの時の……?」
「そうです。あの後、すぐさま病院へこの子を運びました。幸い、体には軽い傷だけだったのですが、記憶を失ったようで……それで、私がその後、一緒に過ごしていました」
「でも、理恵子は病院で亡くなったと聞きましたが……」
「それは礼子……私の娘……娘は病院で自ら命を絶ったのです」
百合子の育ての父親は、唇を震わせながら、さらに答えた。
「それは、きっと病院の方が礼子と取り違えて話したのでしょう」
渡辺はそれでも理解できず混乱していた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんよね」
「そうだよ……理恵子、生きていたのか……」
事情を知らない琴音は唖然としていた。
渡辺は理恵子をそっとやさしく抱きしめた。
百合子を育てた父親は悟ったように渡辺に伝えた。
その声はどこか寂しさをただよわせているようだった。
「渡辺さん、百合子、いえ、理恵子さんは耳が不自由です。これからはあなたが支えてあげてください。わたしの役割は終わりました……」
渡辺は少しずつ事実を受け入れることができ、理恵子の育ての父親に伝えた。
「今まで、ありがとうございます」
その言葉が余韻を残したまま消えていった。
演奏会はそのまま幕を閉じた。
それでも、その音色はどこまでも優しかった。
第3部へ続く




