幕開け
水江は次第に自分自身が情けなく思えてきた。
彼女は渡辺への想いがわきでてきた。
渡辺さん、ごめんなさい。
私は一時的にとはいえ、渡辺さんに対して不信感を持ってしまいました。
私に優しくしてくれたのは、私に気をつかってくれたからですね……
渡辺さんは優しすぎます。
でも、私はこれから、前向きに生きていきたいと思います。
渡辺さんもギリシャで頑張ってくださいね。
そんな頃だった。
「水江さん、今度映画を見に行きませんか?」
「そうですね……」
「僕は今まで、その日のためにお給料をためていました。水江さんは映画をご覧になられたことはありますか?」
「いえ……」
「ぜひ、今度行きましょう」
「はい……」
水江は渡辺のことを早く忘れたかった。
優しい吾郎を想う努力をしようと思った。
吾郎は自宅へと帰った。
「お母さん、ただいま」
「吾郎ちゃん、お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする?」
「お母さん、ご飯が食べたい!」
「いいわよ。吾郎ちゃん。そういえば、工場ではいじめられていない?」
「うん」
「よかったわ、吾郎ちゃんがいじめられたら、お母さんに言うのよ。お母さんが言ってあげるから」
「うん」
「ご飯を食べ終わったら、明日のお仕事も早いから、お母さんと一緒に寝ましょう」
「うん。お母さん! 一人じゃ怖いから」
一方で、手紙をもらった琴音は、いてもたってもいられなかった。
琴音は想う。
川崎先生……
本当は、私のことが好きだったのね。
でも、婚約者がいるじゃないですか……
いいの、私は川崎先生のことを想うだけでも幸せなの。
もう一度でいいから、先生とピアノを弾きたいな。
先生、今ね、シューベルトという人の『アヴェマリア』という曲を練習しているのよ。
とても優しい曲よ。
百合子と一緒に帰っている時だった。
「琴音ちゃん」
「どうしたの? 百合子」
「なんだか、嬉しそうね」
「うん、そうなのよ!」
「琴音ちゃん、今日も家に遊びに来て」
「いいわよ」
琴音は百合子の家へと向かった。
「おかえり、礼子」
「ん? 礼子さん?」
「ああ、間違えた……百合子……」
「礼子さんって誰?」
「ああ、百合子のお姉さんだよ……今、入院していてね……」
「そうなの?」
「うん」
「そうだよ。琴音ちゃん……」
不穏な風と柔らかい風、どことなく影のある風が吹いていた。
渡辺は、繊細なピアノのタッチができずに苦しんでいた。
「どうしたの? 雄二」
「ああ、ミレーゼ、なぜだろう……? 最近、やわらかく弾けないんだ」
「おかしいわね。以前の雄二なら、普通に弾けていたじゃない」
「そうなんだよ……」
「きっとスランプよ」
「そうだといいんだけど……」
その翌日だった。
「雄二、そういえば、ギリシャ国際コンクールの日程が決まったよ。来年の春だ」
「そうですか……でも僕は……」
「ああ、きっと壁に当たっているんだよ」
「そうだといいのですが……」
渡辺には異変の風が吹いていた。




