響き
遠いところで声が響くようであった。
「すごいじゃないか、ピアノが上手になったね」
「うん」
「そんなに上手になったら……」
その声は確かにどこかに響いた。
「百合子、どうしたの? ボーっとして?」
「うん」
「心配なことがあったら、琴音になんでも話してね」
「うん」
琴音はいつも、返事だけしかしない百合子のことが心配だった。
「百合子、いつも考えごとをしているみたいだけど……」
琴音が百合子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「ううん、百合子って不思議ね。いつも遠くを見ているみたい」
「うん……」
学校の校門で、ある年老いた男性が琴音に声をかけた。
「君が琴音さんかね?」
「はい、そうですけど、おじさんは誰?」
「ああ、百合子の父親だよ。いつも百合子と一緒に帰ってくれてありがとう」
「そうなの、百合子?」
「うん」
百合子の父親は琴音を自宅に招いた。
「わあ、百合子の家って大きい。まるで……」
「どうしたんだい? 琴音ちゃん」
「ううん、おじさん、何でもない……」
「そうか、そうか」
百合子の家に入るなり、琴音は驚いた。
「ピアノがあるわ。百合子が弾くの?」
「いわ、わしが弾くんだよ。百合子はいつも私が弾いている姿をじっと眺めていてね」
「そうなの? 百合子」
「うん……」
百合子の父親はピアノを弾き始めた。
「わあ、おじさん、ピアノが上手」
「そうかね。わしはピアノの仕事をしているんだよ」
「おじさんはピアノの先生?」
「いや、違うよ。まだ、琴音ちゃんにはわからないかもな」
「そうなの? それより、おじさん、ピアノ弾いてもいい?」
「ああ、いいよ。ゆっくりしていきなさい」
父親は自室へと戻っていった。
琴音は弾き始めた。
すると、父親が自室から驚いたように出てきて、琴音に話しかけた。
「その曲は……」
「おじちゃん、この曲はショパンの『別れの曲』よ」
「ああ、もちろん、知っているよ。琴音ちゃんは上手だね」
「そうよ。川崎先生という人から教えてもらったの」
「そうかい」
琴音が弾いている姿を、どこか不思議そうに百合子は眺めていた。
不思議な旋律が百合子に響いた。
一方で、水江は吾郎に誘われて、断れきれずに食事をともにしていた。
「水江さん、ここの定食は美味しいですね」
「そうですね……」
どこからか、吾郎に心に響くものがあった。
吾郎ちゃん、吾郎ちゃん。
お母さん、お母さん、どこ、どこなの……?
ここよ、吾郎ちゃん。
「どうしたのですか? 吾郎さん」
「いえ……」
「何か考え事をしているみたいでしたよ」
「すみません。ちょっと昔を思い出して……」
「私にできることがあれば、お伝えください」
「水江さん、心配かけてすみません。それより、海が好きなんでしたね? 水江さんは」
「え、どうして、それを……」
「あ、いえ……工場で聞きました」
水江は気になりながらも、自宅へと帰った。
「おかえり、お姉さん……」
「どうしたの? 何を思い詰めているの?」
「うん、琴音は川崎先生にお手紙を書きたいの」
「もう、忘れよう……」
「でも、書きたいの……」
琴音は必死で水江に訴えた。
「でも、住所がわからないでしょ。あ、そういえば実家に行けば……」
水江は以前に、渡辺の実家にお弁当を届けに行ったことを思い出した。
水江の未練も消え去ることはできず、渡辺の実家へと向かい、住所を聞き出した。
早速、琴音に伝えた。
「ここよ、ギリシャのここに住んでいるのよ。渡辺さんは」
「琴音は早速、手紙を書いてみる」
「そう……、琴音、やっぱり私は手紙は書かない。早く忘れないと、琴音も早く忘れなさい」
「いいの、私の心の中にはいつまでも川崎先生がいるのよ」
そして、琴音は渡辺へと手紙を書いた。
川崎先生へ
お元気ですか。
琴音は元気です。
先生のことはもうきらいになりました。
そう思うようにしました。
でも、やっぱり先生が好きです。
先生のことを想うだけで幸せです。
先生、ピアノが上手になったのよ。
また、ほめてほしいな。
日本に帰ったらまたおしえてほしいな。
先生、琴音はばかだから、国語がだめなのよ。
感じも辞典でしらべたのよ。
まちがっていたらごめんなさい。
それよりもお元気でいてください。
琴音
たどたどしい想いだった。
琴音の素直な気持ちだった。
その日は夕日を見つめて想いをはせていた。
川崎とのやり取りを思い出しながら。
「どうしたの? さっきから独り言を言って」
「ええ……聞いていたのですか」
「ああ、鳥のさえずりが聞こえてね。君も可愛いね」
「じゃあ、私が鳥なら肩の上にとまってもいいですか? そこからなら夕日がもっときれいに見えます」
初めて、出会った時の言葉がいつまでも響いていた。
先生の肩の上にとまりたいです……
先生……




