影
琴音は転校してきてから、気になっていたことがあった。
親友である百合子の口数が少ないことだった。
最初は大人しい性格からくるものだと思っていた。
「百合子、いつも元気がないけど、何かあったの?」
「うん」
「どうして、いつも、返事だけなの? 私のことが嫌いなの」
「……」
「もう、百合子ったら。知らない」
「ごめんね。待って琴音ちゃん……」
百合子にはどことなく暗い影があった。
琴音は一人で家へ帰った。
家には水江がいた。
渡辺との一件があって、しばらくは琴音は水江と口を聞かない時期があったが、気持ちの切り替えは早く、すっかり、水江とは仲がよくなっていた。
水江は少しばかり、元気がなかった。
それが、琴音は気になった。
「お姉ちゃん、今日はどうしたの? 元気がないわよ」
「ううん、いいの……気にしないで」
「まだ、川崎先生のこと気にしているの……?」
「それもあるけど、今は違うことで悩んでいるの……」
「教えて」
「琴音に言えることじゃないの……」
水江が働く工場での出来事だった。
「みんな、聞いてくれ、今日から勤務することになった、今永吾郎君だ。よろしく頼む」
「吾郎さん……」
水江の表情は曇った。
しばらく前のことだった。
「水江さん、僕と交際してください」
「ごめんなさい……」
「駄目なのですか? 誰か好きな人でもいるのですか?」
「それは言えません……」
彼女は丁重にお断りしたものの、吾郎は水江に対して強い想いがあった。
「水江さん、明日、食堂で食事をしませんか?」
「いえ、明日は都合が悪いです」
「それじゃ、明後日はどうでしょう?」
「いえ、明後日もごめんなさい……」
「じゃあ、近いうちにどうですか」
「考えさせてください……」
「わかりました。水江さんのいい返事を待っています」
水江は優しくて素朴な吾郎に心が傾いていたが、渡辺のことが忘れることができなかった。
そんなうちに、吾郎が水江の工場に勤務してきたものだから、水江は不安に感じた。
そして、不安は現実になろうとしていた。
一方で、渡辺はマエストロよりレッスンを重ね、めきめき、ピアノの腕を上げていった。
「雄二、よかったわね」
「ああ、流石、マエストロだよ。的確な指導に驚いている」
「よかった。紹介したかいがあったわ」
「ありがとう。ミレーゼ」
渡辺はピアノが上達していくたびに、喜びに変わるとともに複雑な気持ちに襲われた。
理恵子……
お兄ちゃんはピアノを頑張っているよ。
でも、理恵子はもういない。
お兄ちゃんのせいで……
お兄ちゃんだけが上達していってごめんね。
更に思う。
僕はこのままでいいのだろうか。
このまま、コンクールに出場してもいいのだろうか。
辛い。
辛いよ……
こんな僕を誰か消し去ってくれ……
影が渡辺を覆いつくしていた。




