幻
蝉が賑やかに鳴く昼下がり
千代田の御城から櫻田の屋敷に戻った綱豊は
裃のまま軽やかな足取りで
愛妻照姫の部屋に急ぐ。
「殿、お待ちを!」
老女の常盤が御廉中の照姫に
綱豊のお渡りを知らせようと後を追うが
中年女性が若い侍に追いつけるはずもない。
「照!」
櫻と牡丹と藤の花が咲き乱れる襖を
照姫の侍女達が慌てて開けると
綱豊が勢い良く上段の間に入り
花の如く座っていた照姫は抱き上げられ
目を丸くしながらも、夫に愛らしくはんなり
微笑みかける。
「お帰りなされませ、殿。
何かおありであらしゃいますの?」
「喜べ。左大臣様が江戸に参られる」
「おもうさんが?」
「うむ、来る八月の上様の将軍宣下に
左大臣様が参られるのだ。
御父上様に会えるぞ」
「誠に…誠におもうさんが江戸に…?」
照姫は思いもかけない知らせに
嬉しくて涙が溢れて、夫の肩に抱きついた。
殿に嫁ぐため
雪降る京を発った日
可愛がって育ててくれたおもうさんと
今生のお別れと泣いたけれど
まさか、一年も経たず会えるなんて
それから、照姫は指折り数えて
将軍宣下の日を、父に会える日を待った。
この櫻田御殿に来てもらえるかしら?
どんな御料理でお持て成しようかしら?
京へのお土産は何がいいかしら?
彼是考えて、準備するのが楽しい。
浮き浮きと嬉しそうな妻を
目を細め眺める綱豊には、もう両親がいない。
だからこそ、照姫には左大臣と心ゆくまで
水入らずの時間を過ごして欲しいと願う。
秋の気配が微かに訪れる頃
京からの勅使院使の一行が
江戸の旅館に入ったと櫻田御殿に知らせが
もたらされた。
左大臣の旅館は、照姫と綱豊が住まう櫻田御殿から
左程遠くない、愛宕山近くの天徳寺。
照姫は父 左大臣に、いつ会えるのかと
何度も文を送った。
だが、父からは将軍宣下の儀式が終わるまで
待つようにとの返事ばかり。
しかも、内密にと念を押して
照姫の祖父の後水尾法皇の体調が芳しくないし
幕府の許可なく旅館からは出られないと
書いて寄越した。
実の娘に会うだけなのに
幕府の許可も必要なのだ。
それならばと、照姫が旅館に出向こうにも
将軍連枝の甲府徳川家の御廉中の訪問となれば
物々しい大名行列になる。
宣下の儀式が終わるまで待つしかないが
もし、法皇に何かあれば最悪、儀式が終わり次第
京に戻ってしまうかも知れない。
京から出られない母宮にはもう会えない。
せめて江戸にいる父には会いたい。
祖父の後水尾法皇の容態も聞きたい。
会おうと思えば直ぐ会える距離にいる父親。
懐かしい父に会いたい思いは抑え難く
もしかしたら、永遠に会えないかもと思うと
じりじりと焦りが募る。
いっそ、使いの女中の振りをして
父の滞在する旅館に押しかけようとも考えるが
万が一、幕府に知られたら
綱豊にも父の左大臣にも厳罰が下る。
どちらの家も潰れてしまう。
そんな無謀な事ができるはずがない。
できるはずが…
「文の用意をして」
照姫は侍女達に硯や巻紙の用意を命じた。
居ても立っても居られず、また筆を取った。
いつ会えるの?と、父 左大臣に宛てて…
十三歳で両親と離れた照姫の気持ちを思うと
見守る侍女達も辛い。
「何だと?
御廉中は今日三度目の文を
左大臣様の旅館に使わせたと?」
朝廷から参議の昇進を賜り
千代田の御城から邸に戻った綱豊は
照姫の護衛から報告を受け
直ぐさま様子を見に駆けつけた。
「殿、参議に御昇進
誠にお目出度う存じ上げまする」
正装に身を包み寿いでくれる妻の
微笑んではいるが、何処となく落ち着かなく
気落ちしている姿に胸を剔られる。
「照…」
綱豊は憔悴している妻を見つめ
頬を、肩を、優しく撫でた。
「殿…」
照姫は不安な思いを抱えているのが限界だった。
優しい夫の逞しい袖の中に縋りついてしまった。
綱豊は、ふ、と笑い
照姫を胸に包み込み、妻の耳元に囁く。
「行って参れ」
「殿?」
照姫は夫の言葉に耳を疑う。
信じられないと、潤む黒曜石の瞳を
左右に小刻みに揺らし夫を見上げる。
「京は遠い。
二度と御父上様に会えぬやも知れぬ。
生涯悔いる妻を見るのは辛いからな。
行って来るが良い。
此度の昇進の祝いの品を届けよ。
そなたは、この屋敷の門を出て帰るまで
老女の六条の局だ。
左大臣の娘のそなただから
葵の局と名乗らせたいところだが
この江戸で葵とは名乗れぬ。
左大臣様ならきっと気付いてくださる」
優しい眼差しで見つめてくれる夫の胸に
顔を埋めて、頷くことしかできなかった。
言葉にしなくても、気持ちをわかってくれる夫。
それから
忙しく慌ただしく準備を始めた。
祝儀の品を用意させ、目立たない駕籠や付き添いを整え
照姫は老女の髪型に結い、化粧を変え
黒っぽい地味な小袖と打ち掛けに着替えた。
その控え目な装いが、照姫の美しさの違う一面を
引き出した。
御廉中の絢爛豪華な着物は
照姫の生来の美しさをそのままに彩るが
今は少し窶れた面差しに
小袖は茄子紺、夏用の透ける黒の打ち掛の裾に
小さな山梔子の白い花が
闇に浮かぶ蛍のように刺繍されていて
照姫の透けるような白い肌の陰影が際立ち
憂いを帯びさせ、馨しい山梔子の香りさえしそうな佇まい。
やはり美しい
綱豊は妻の美しさに不安を覚える。
殿上人として生まれ育った浮世離れた美しさ。
誰かに見初められ浚われる恐怖が襲う。
御廉中としての訪問ならば、警護は万全だが
女中となると伴揃えは手薄になる。
妻を腕の中から離したくない。
「そなたはどの様に装っても美しいゆえ
扇で顔を隠すが良い。
それから、これを持って行け。
中身は小判だ。何かあれば上手く使え」
白い紙の小さな包みの束を、細く品やかな手で
受け取り胸に抱いた。
夫の優しい心が込められている。
「はい、殿。忝う御座います」
照姫は地味な扇で顔を隠して
簡素な装飾の女中用の駕籠に乗った。
帯の間には、綱豊が懐柔用に持たせてくれた
小判の包みを幾つも忍ばせてある。
駕籠の外には、いつものように早川のじいと
乳母の松島が付き添ってくれる。
御簾を降ろし、人払いした薄暗い御廉中の部屋には
上臈の秀小路が、華麗な照姫の小袖を着て
照姫の茵に座り脇息に凭れている。
櫻田御殿の門を出た一行は
少し遠回りだが、大路を避け目立たぬ道を選び
左大臣の滞在する旅館に到着。
扇で顔を隠して駕籠から降りた六条の局だが
隠したところで伴も少なく遮る人がいないから
扇の隙間から見えてしまう。
六条の局の臈長けた麗しさに
寺の警護に当たっている幕府の役人達は
溜息を漏らした。
だが、怪訝に思う者もいた。
老女にしては若く見えるし、美しすぎる、と。
「六条の局とな…」
三十を少し過ぎた細面の左大臣 近衛基煕は
面会を求める甲府徳川家の老女の名を
訝しげに呟いた。
よもや…
「通してたも」
左大臣は、素知らぬ顔で許可を出し
六条の局が通された部屋に入った。
葵の紋の入った朱塗りの酒樽と重箱に敷折りの
豪勢な祝いの品々が幾つも並べられており
地味な黒い薄地の打ち掛けの老女と
その後ろには、日に何度も照姫の手紙を届ける
早川のじい、長年仕えてくれている乳母の松島が
平伏して、左大臣を待っていた。
「久しいの。面を上げよ」
「左大臣様には、ご機嫌麗しゅう。
御廉中様より、此度の宰相様の御昇進御祝儀の
お品をお届けに参りました」
六条の局は、涼やかな声で挨拶を述べると
面を上げた。
艶やかで豊な髪、透き通る肌、潤む美しい瞳が
何不自由ない日々を送っていると告げている。
別れた時の幼さはまだ残っているが
新妻らしい艶やかさを漂わせる、目の中に入れても
痛くない愛娘の姿。
しかし、父と会えない焦りに憔悴した陰が偲ばれ
左大臣は胸が痛んだ。
「大義におじゃる」
左大臣の声が微かに震える。
「六条よ、姫君は幸せか?」
「はい。宰相様は大層お優しく
御廉中様は、お幸せであらしゃいます」
「姫君に伝えてくりゃれ。
末永く息災で幸せにとな」
「はい。宰相様と御廉中様からも…
左大臣様、御母宮様にも
幾久しく御健やかに、と」
左大臣は六条の局に近寄ると
その品やかで華奢な手を取り両手で優しく包んだ。
切れ長の眼光鋭い目には
綺羅りと涙が滲んでいる。
六条の局の瞳にも溢れそうな涙。
早川のじいと松島の目も赤い。
「早うお戻り。
姫君と宰相殿に呉呉も宜しゅうにな」
危険を冒してまで妻と岳父を会わせてくれた娘婿の気持ちを思うと、左大臣も一刻も早く娘を婿の元に返してやらねばならない。
六条の局は目に涙を溜めて、一礼すると
滑るように部屋を出た。
後ろ髪を引かれながら。
そして、扇で顔を隠して駕籠に乗った。
駕籠を開けられても怪しまれないよう
まだ泣いてはいけないと言い聞かせて。
帰り道も少し遠回りで、目立たぬ道を通るが
屋敷まであと少しという角を曲がって
駕籠が止まった。
…露見しちゃった?
六条の局の心臓が早打つ。
帯に隠した小判の包みに手を伸ばした時
駕籠の扉が開いた。
万事休す…
そこには
黒い打ち掛け姿の老女の常盤が微笑んでいて
六条の局の手を優しく引き、駕籠の外に出し
庭師の妻のお槙と共に
横付けされた馬に素早く乗せると
六条の代わりに空の駕籠に乗り込んだ。
六条は、気づけば
馬上の綱豊の黒い袖に包まれ
綱豊の腕の中で魔法は解け
六条の局は照姫に戻った。
「殿…おもうさんに会えました…」
照姫の瞳からは大粒の涙が零れ
安全な夫の胸に隠れた。
「そうか…戻るぞ、照」
心配で堪らない綱豊は耐えきれずに
照姫を迎えに来たのだ。
二人を乗せた疾風の如き馬が
家老の藤枝が開けた南の門から屋敷に滑り込むと
門は何事もなかったかのように
静かに閉じられたのだった。
『基煕公記』は、照姫の父 近衛基煕の日記です
延宝八年八月十八日
姫君御霊と会う 祝儀強飯と樽送られ
とあるのです
忠臣蔵で有名な吉良上野介と
夜に会ったとも記されています




