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風

将軍宣下の儀式に出席するために

江戸滞在中だった照姫の父 左大臣は

後水尾法皇の病の知らせを受け

綱吉の将軍宣下の儀式の後

慌ただしく京へ帰ってしまった。


朝廷を篤く敬う新将軍綱吉は

宣下を祝う千代田の御城での、町入り能を延期。


そして、八月二十七日

後水尾法皇崩御の知らせが、京よりもたらされた。


照姫を可愛がってくれた祖父は、もう居ない。


生まれ育った京から

遠く離れた江戸の月を眺め、祖父の冥福を祈る。


京で見上げた月も、江戸で見上げる月も同じ月。

祖父に御所で遊んでもらった懐かしい思い出が

天に輝く月に幾つも重なり、滲んでゆく。


照姫が流れる涙を袖で拭こうとしたら

ふわりと包まれ

柔らかな絹で涙を拭われた。


千代田の御城から戻った綱豊が

簀の子縁に出て月を見ながら泣いている妻を

袖の中に包んだのだ。


照姫は黒曜石の瞳から真珠の涙を零して

夫を見上げる。


「…お許し…くださいませ…

 わ…わたくし、いつも…泣いていて…

 御城でお祝いですのに…

 殿も参議に昇られて…おめでたいのに…」


「御爺(おじじ)さまが御隠れになられたのに

 泣かぬ薄情な妻など願い下げだ。

 伯父上の家綱公が御隠れの折には

 そなたがわたしを慰めてくれたではないか」


照姫は優しい眼差しで見つめてくれる夫の胸に凭(もた)れ

その袖にしがみついた。


「殿…

 家綱公が御隠れになられて、たった三月(みつき)で

 後水尾院さまも御隠れなんて…」


「時代が変わった…、ということだろう。

 悲しいが」


そういいながら

綱豊はまだ幼さを残す照姫の大粒の涙を

絹の手拭いで優しく拭う。


二年前、綱豊は父 綱重を亡くし

照姫も祖母の東福門院を失っている。

今度は家綱と後水尾院が続けて亡くなった。

後水尾院と東福門院は夫婦

家綱と綱重は兄弟。


綱豊は照姫とは、前世よりの縁が深いのだろうと

思わずにはいられない。



二人が見上げる白く照る月を雲が隠し

秋の匂いが微かに薫る風が吹いた。


「風が少々冷たくなった。

 体に障らぬよう部屋に戻ろう」


綱豊は優しくそう言うと、妻を抱き上げ

照姫の小袖の長い裾を翻しながら

侍女の広げた入り側の御簾を潜(くぐ)った。





「御廉中さま、お足元にお気をつけて。

 こちらにございますよ」


粋な縞の着物のすらりとした庭師の妻のお槙が

大勢のお付きに守られ、薄い桃色に

桔梗の花を遇(あしら)った小袖の照姫を案内する。


父とゆっくり過ごす時間も取れず

祖父を亡くした照姫の気を紛らわせようと

綱豊は甲府の領地から果物の木を届けさせた。


その綱豊も、宣下の一連の儀式に追われているから

お槙に照姫を案内させたのだ。


御廉中御殿の庭の瓢箪池の、小さいけれど

新しい朱塗りの柵のある太鼓橋を渡り

その先の陽当たりのいい一角の

小さな梨の木や林檎の木、桃の木に葡萄棚が

植えられた、宛(さなが)ら妖精の国の果樹園に

照姫は目を輝かせた。


「なんて可愛いの」


 来年の春、甘い香りの可愛い花が

 咲くのが楽しみ

 いつか実がなったら

 殿とご一緒に採って食べよう

 みんなにも食べてもらいたいわ


そんな風に思いながら、可愛らしい果樹園の

一本一本の木を愛で、ゆっくりと歩く。


照姫の祖父の後水尾院と祖母東福門院は

美しい修学院離宮を造り、愛でていた。


照姫にとって祖父母はお手本。

二人を偲びながら、夫の造ってくれたこの庭を

愛して育てようと思った。




綱豊は忙しい日々を送っていて

九月六日には朝廷から正三位を賜り

その十日後には、綱吉から十万石が加増され

甲府徳川家は三十五万石になった。


「殿、御昇進に御加増の重ねての御慶事

 誠にお目出度う存じ上げまする」


照姫は正装の袿を着て衵扇(あこめおうぎ)を手に、恭(うやうや)しく

鈴の鳴る愛らしい声で、綱豊に挨拶を述べた。


「うむ」


裃姿の綱豊は、重々しく頷いた後

早速、照姫を腕に抱いた。


綱豊は、昇進して加増されたというのに

相変わらず飄々と、腕の中の照姫の耳元に囁く。

傍に侍る女房達に聞こえないように。


「おそらく上様は、御子息の徳松君を

 西の丸に入れるぞ。

 それゆえの昇進と加増の御配慮だろう。

 そなたも心得よ」


「御意に、殿」


妻の、のほほんとした返事に、ふ、と笑う。

欲のない、あどけない妻が愛おしい。


照姫も、欲のない夫が慕わしい。

争いを好まない綱豊は

真摯に徳松を支えていくつもりだろう。

夫がそれでいいなら、照姫もそれでいい。

自分が前に出るよりも、この日の本の国のため

尽くす夫だから照姫は好きなのだ。

妻として夫を支えたい。


でも、綱豊が将軍にならないという事は

父の左大臣にとっても辛い時代なりそう。

左大臣は霊元天皇とは仲が良くない。

霊元天皇の同腹の姉は

照姫の生母だというのに。

大好きな姉を、左大臣に取られた悔しさ

なのかもしれない。


綱豊も可愛がってくれた前将軍の家綱とは違い

新将軍の綱吉に一線を引かれるのは必須。


 殿と上様は

 おもうさんと主上(おかみ)(霊元天皇)みたいになりそう


それも仕方ないと、照姫はのんびりと思う。

きっとそんな巡り合わせなのだわ、と。


綱豊は腕の中に収まる雛鳥のような妻に

にやりと笑いかけ、揶揄(からか)う。


「加増はされたが、冷や飯食いだぞ」


照姫も、のほほんと夫を見上げる。


「殿とご一緒に、お庭の果物をいただきます。

 飛び切り美味しいに決まっています」


「水菓子か。それも良いな」


二人はくすくすと笑う。

世間の冷たい風が吹いても

それだけ静かな時間を二人で過ごせるのだから。

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