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星 その伍

照姫の白く品やかな手が持つ朱塗りの提子(ひさげ)には

葵と牡丹の紋と藤模様の金蒔絵が鏤(ちりば)められ

注ぎ口から細い清らかな水が流れ

艶やかで大きな青い瀬戸物の

植木鉢の土に染み込んでいく。


「いつになったら、桃の実はなるのかしら」


まだ芽の出ない植木鉢の

柔らかそうな土を見つめ

切ない溜息をついた。


「桃栗三年柿八年、と申しますから」


照姫の手から提子を受け取りながら

上臈の秀小路が美しい微笑みを湛え

女主人を慰める。


「三年待たないと、あの美味しい桃が

 食べられないのね」


照姫は、詰まらなそうに小声で呟く。


あの桃が食べたいと、綱豊に強請(ねだ)れば

領地に早馬を飛ばさせ

桃を届けさせてくれるのはわかっている。

でも、綱吉の将軍宣下の儀式を控える大事な時に

夫を煩わせたくない。


照姫は桃色や青い朝顔の花と

流水の描かれた薄地の小袖の

長い裾の衣擦れの音をさせながら

簀の子縁の欄干近くまで歩いて、庭を眺めた。


燦めく陽の光を受け、百日紅(さるすべり)や

百合の花、日々草が美しく咲いている。


庭師の森造達が、毎日丹精込めて

手入れをしてくれている、美しく格調高い庭。


「お庭を散歩するわ」


照姫がそう言うと

階(きざはし)の下には、厚みのある草履が置かれ

侍女の楓が照姫の手を取って階を降りた。


護衛も兼ねる御庭番の女中が

日除け傘を照姫に差し掛け

乳母の松島や秀小路達、御庭番達

遠巻きに警護の藩士達が

照姫と共に御廉中御殿の庭を歩く。


自分の部屋の庭を散歩をするだけで

大勢が動くのだ。


つい半年前まで、京の御所内にある実家で

父母に甘えていたのに。


高貴な五摂家とはいえ

家禄は大名に比べるべくもない。


食べたい物は優雅に自分で手に入れるのが

公家の知恵である。


実家の庭には、橘や無花果や枇杷の木があった。

美味しい果物を貰ったら、種を植えて育てて

実った果実を狩って食べるのが楽しみだった。


この格調高く華麗な庭の花は咲き乱れていても

果実の実る花は咲いていない。


「松島、お槙を呼んで」


「畏まりまいた。直ぐに呼びにやりましょう」


松島は嬉しそうに応えた。

照姫が京にいた頃のように

生き生きとしているから。




照姫が畳敷きの入り側に座り

脇息に凭(もた)れながら庭を眺めていたら

庭沿いの入り側を

綱豊が足早に歩いてきている。


脇息から体を起こし、居住まいを正して

挨拶の姿勢をとろうとしたが

気づいたら綱豊の袖の中にいた。


「殿、ご機嫌よう」


見上げる照姫の頬を指先で撫で

優しく微笑んでいる綱豊の目は

笑っていない。


「お槙を呼んだそうだが」


「庭木の相談をしましたの」


綱豊の目に罪悪感を感じて上目遣いで

でも、微笑んで答える。


「欲しい庭木でもあるのか?

 夫のわたしに、先に言えば良い。

 気になるではないか」


「お忙しい殿に御相談する程では…

 小さな可愛い木を幾つか頼みました」


「そうか…」


「はい、楽しみですわ」


照姫が上目遣いで微笑む時は

何かを隠している。


妻を独り占めして、何もかも知りたい綱豊だが

しつこいと嫌われたくない。


綱豊は照姫を抱きしめると

後ろ髪を引かれる思いで執務に戻った。




幾日か過ぎ

広い御廉中御殿の周りを囲む

長い板敷きの簀の子縁を

薄紅色の小袖に撫子の刺繍美しい裾を

軽やかに翻して照姫が歩いていた。


庭師の棟梁、森造の妻のお槙が

簀の子縁の照姫を見上げ

植えた木の説明をしながらお供している。


お槙は背が高く

さっぱりとした粋な三十手前の

如何にも照姫が頼りにしそうな美人で

夫の森造も背が高いから似合いの夫婦。


照姫が注文した幾つかの小さな可愛い木は

森造が庭の景観に溶け込むよう配置して

照姫の希望で雨の日も愛でられるように

簀の子縁沿いに植えてくれた。


そこに、

照姫がお槙を従えて楽しそうにしていると

報告を受けた綱豊が疾風の如く現れた。


綱豊は、お槙にさえ嫉妬を覚える。

照姫に何かを秘密にされているようで

心穏やかではなく

しかし藩主なので、泰然を装い

庭を楽しむ振りをして植木を検閲。


簀の子縁沿いの所々にある小さな木の根元の土が

ふんわりこんもり盛られている。


どれも小さいから

園芸屋が軒を連ねる染井で買い付けても

誰も気にしない。


綱吉の将軍宣下を待つ緊張した時期だから

大きな木を買い付ければ

目立って良からぬ噂になるだろうが

これだけ小さい木なら、道具に紛れて

家中の者さえ気づかず

おそらく、森造とお槙夫婦しか

今回の植え付けは知らないだろう。


綱豊の立場を慮(おもんぱか)る

照姫の御廉中としての振る舞いに心温まり

その政治的感覚に驚いた。


しかし、植えられた小さな木は


無花果、枇杷、柿…


綱豊は呆れた。


「果物の木ばかりではないか…

 領地の桃が美味だったからだな。

 まったく、そなたは食いしん坊な…

 いや、待て…、これは妙案だぞ」


綱豊は、腕を組み暫(しば)し考えた後

照姫を徐(おもむろ)に抱き上げた。


「殿?」


今度は照姫がびっくりして綱豊を見下ろした。


「甲府の領地は米があまり育たぬ。

 父上は果樹栽培に力を入れておられた…


 出来(でか)したぞ、照!


 これまで以上に栽培を奨励するぞ。

 

 好きなだけ旨い果物を食べさせてやる。

 甲府から梨や林檎、葡萄の木も取り寄せて

 植えてやろう」


食いしん坊と呆れられると思っていたのに

褒められた上、あの瑞々しい桃のような

食べたことの無い美味しい果物も

食べられるかもしれない。

綱豊の治める甲府は珍しい果物の名産地。

照姫は嬉しくて夫に抱きついた。


「殿大好き!」


 大好き…


綱豊の頭の中に、照姫の『大好き』の声が

綺羅綺羅と何度も再生され

至福の喜びに満たされる。


照姫も、美味しい果物をたっぷり食べさせて

やる

と言ってくれる綱豊に嫁いで幸せだと思った。




照姫を抱き締める甘い余韻に

もっと浸っていたい綱豊だが

政務に戻らなくてはいけない。


妻の肩を袖に包みながら

もと来た簀の子縁を戻るが

庭に奇妙な木がある。


「ん?見慣れぬ木があるが、何の木だ?」


綱豊が木を見ながら呟く。

橘にしては、葉が違う気がする。


「…蜜柑にございます」


 どうして見つかってしまうの?

 殿のお通りになる反対側に植えたのに…


照姫は恥ずかしくて頬を紅く染め

夫の胸に潜り、肩を窄め小さくなった。 


「染井には売っていないはずだが?」


「…里から…持ってきました。

 御所で頂いた蜜柑の種を育てたのです」


「幕府が献上する八代蜜柑か。

 あれは旨いからな。

 …まったく、そなたは食いしん坊な…」


綱豊は呆れて、潜った照姫を見下ろしたが

雛鳥のような照姫が愛おしくて仕方ないのだった。

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