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星 その四

照姫と綱豊は、江戸湾を臨む濱屋敷から

千代田の城近くの本邸、櫻田御殿に戻り


部屋まで綱豊に送り届けられた照姫は

夫の腕の中で駕籠に揺られた疲れを労られながら

白く品やかで小さな両手を合わせて

愛らしい鈴のなるような声で余韻を囁く。


「殿と御一緒に見た濱の御屋敷の美しい海の景色

 照は一生忘れません」


「上様の将軍宣下が無事済んだら

 また直ぐに連れて行ってやろう」


「嬉しい、殿」


また海が見られると思うと嬉しい。

そして、綱豊との美しい時間が嬉しかった。


御茶屋から見た生まれて初めての海

馬上から見た海に沈む夕日

夜の海に浮かんだ月と銀色の波。


綱豊のゆりかごのような袖の中で

賢さも愛しいと言ってくれた。


和歌や物語は姫の必須教養で、漢学が好きな姫もいる。

照姫の大叔母の光圀の正室は漢学好きで

光圀と漢詩を詠んだ。


綱豊も照姫を、漢籍の講義に誘ってくれる。


しかし、天文学や蘭学となると、理解のある綱豊だって

女だてらにと嫌うかもしれなかった。


京から遠く離れた親戚もいない江戸で、頼れるのは

夫の綱豊しかいない。

綱豊に嫌われたら、侍女達にも肩身の狭い思いをさせてしまう。


嫌われないように、隠して慎重に暮らしてきたけど

月と海は夢みたいに美しいし

綱豊は父や弟達のように聡明で

袖の中はゆりかごのような安心感があるから

あの月のように、この世も丸いと

うっかり知識を漏らしてしまった。

でも、綱豊は天文学や蘭学も好きな照姫を

嫌いになるどころか、賢くて愛しいと慈しんでくれた。


隠し事などするな、とも言ってくれた夫。

心にふんわりとした思いが広がる。


綱豊はまだ幼さを残した微笑む妻に満足して

甘い口吻をした後、安心して表(オフィス)に向かった。


綱吉の将軍代替わりの祝賀と

朝廷の使者を迎えた将軍宣下の儀式の準備のために。


御城からの急な呼び出しにも応じられるよう

甲府家中は万端の構え。

些細な失敗もこれからは命取りになるだろう事を

綱豊は知っている。


綱豊を息子のように可愛がってくれた伯父の

先代将軍家綱とは違い、叔父の次期将軍綱吉は

綱豊を良く思っていない。

綱豊は綱吉の幼い息子 徳松と、未来の将軍の座を争う

相手(ライバル)なのだから。


綱豊は、綱吉から最愛の妻照姫、照姫の実家近衛家や

甲府家臣を守らなければならない。


厳しい時代になると覚悟していた。


だが、照姫が傍に居てくれるだけで、綱豊は幸せなのだ。




綱豊が表に詰めるようになり

照姫の部屋を訪れる回数が減った代わりに

綱豊は照姫の好きな物を毎日届けさせた。


「殿よりのお品、御領地の桃にございまする」


涼しげな笹の模様の小袖を着た甲府家老女の常磐が

大きな竹籠に盛られたふっくらとした桃を

照姫の前に置いた。


桃の甘い香りが部屋に満ち、華やぐ。


「甲府の御領地の桃なの?」


黒曜石の潤んだ瞳を輝かせ、弾む声で常磐に聞くので

厳格な老女の常磐も美しい頬を緩ませる。


「左様にございまする。

 初ものの桃との事にございます。

 殿が直ぐに御廉中様に届けよ、と申されました」


照姫は昨日綱豊から贈られた、千鳥と白波の描かれた

桜貝色の小袖の袖を揺らして

濃い桃色に色づいた大きな桃を両手でそっと持ち

うっとりと香りを吸い込む。


「美味しそうな桃。

 なんて甘い良い香りでしょう。

 常磐、桃を直ぐに冷やして。

 食べ頃になったら殿のあらしゃる表(おふぃす)と

 わたくしの部屋に運んで。

 同じお時間に頂きたいのです、と

 殿にお伝えしてね」


「畏まりましてございまする」


常磐は、若い夫婦の打てば響く思いやりあるやり取りに

甲府家の安泰を確信した。



井戸水で冷やして食べ頃になった桃は、櫛形に切られ

白く瑞々しい雫に照り輝き、青い瀬戸物のお皿に載せられ

表の綱豊に届けられた。


「御廉中が、この甲府の桃を

 わたしと同じ時間に食べたいと?

 これは粋な計らいだな、流石、我が妻よ」


綱豊は照姫の気持ちが嬉しい。

目の前の艶やかな白い桃に、最愛の妻を重ねた。


口に含んだ瑞々しく香り高い桃の味は、格別美味しく

今この桃を照姫も味わっていると思うと

余計に妻への思いが深まる。

夜が待ち遠しい。



「とっても美味しかったわ。

 もっと食べられたらいいのに」


照姫は名残惜しそうに

桃の姿の消えた青いお皿を見つめ、暫く考え込んだ後

可愛らしく小首を傾げて、乳母の松島に尋ねた。


「松島、桃の種、まだ台所に残っているかしら?

 あったら持って来させて。

 それから、森造を呼んで」


松島が袖口で口を隠してほほ、と笑う。


「畏まりまいた。早速呼びにやりましょう。

 御廉中様は、

 お小さい頃からちっともお変わりにならない」



暫くすると、台所から桃の種が届き

照姫の前に置かれた。


折敷の上の水を張った小鉢に、綺麗な桃の種が

金魚のように入っている。


大きな桃の実の種は、やはり大きくて

天の川の明るい星のようだわ、とも思った。


台所の料理人達は、深窓の姫君の御廉中が

食べ終わった桃の種など、どうするのだろうと

訝(いぶか)しく思ったに違いない。


照姫が種をまじまじと見ていたら

庭先に森造が来たと知らせがあった。


森造は、甲府家専属の庭師の棟梁で

三十半ばの気風のいい美男。


照姫が庭に面した簀の子縁に座ると

森造はお辞儀をした後

慣れた手つきで仕事に掛かった。


種を手拭いに包んで、金槌で軽く叩き

大きな瀬戸物の鉢の土に、竹の円匙(すこっぷ)で穴を空け

種を入れて、土を掛けた後、水をたっぷり注ぐ。


森造の手際良い仕事を、照姫は瞳を輝かせて観ていたが

そこに、妻に会いたい思いを抑えられなくなった綱豊が

現れた。


照姫が庭師とは言え、美男の森造を見ていたので

嫉妬に駆られた綱豊の顔が一瞬険しくなったが

藩主なので、次の瞬間には平静を装った。


「森造ではないか。

 御廉中とは、随分打ち解けているな」


藩主が突然現れたので、森造は手を止めて跪いた。


綱豊は照姫を袖に隠すように抱くが

照姫は夫の嫉妬心など気づきもせず

はんなりと説明する。


「殿に頂いた桃の種を、

 森造に植えて貰っていましたの」


 わたしの贈った桃の種を植えさせたのか

 なんと照は意地らしく愛らしいのだろう


綱豊の顔がぱっと明るくなった。


「森造、大義であった」


綱豊は重々しく森造に声をかけると

照姫を横抱きにして、部屋の奥に連れて行った。


御簾を降ろさせ、照姫を膝の上に乗せ

燃える嫉妬心を押し隠して、照姫の頬を撫でながら

照姫の心を探る。


「森造は役者のように美しいと

 女中達が騒いでいるようだが

 そなたはどう思うか?」


「役者にございますか?

 森造は確かに美しゅうございますが

 おもうさんより年上ですし、よくわかりません」


「…は…?

 そなたの父上より、森造は年上なのか…」


照姫にとって、森造は父親枠だった。


だが、照姫の事となると嫉妬心を滾(たぎ)らし疑心暗鬼な綱豊は

今後の照姫の庭の相談は

森造の妻にさせることとしたのだった。

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