星 その参
江戸湾の広大な芦原を埋め立て、造った濱屋敷。
京生まれの照姫は、濱屋敷で初めて海を見た。
濱屋敷の南側の海沿いに建てた御茶屋から
夫の綱豊の腕の中で照姫は初めて海を臨み
その絶景に魅入られた。
「殿、海がこんなに美しいなんて。
潮の香りも、なんて好い香りなのでしょう」
綱豊は照姫を横抱きにしたまま
ふかふかの波のような水色の絹の茵に座った。
照姫は綱豊のゆりかごのような袖の中で
唯、美しい夏の江戸の海を眺めていたら
照姫の乳母の松島が、綱豊の前に
そっとおやつを差し出してくれた。
淡くて白い波のような模様の寒天が
青い瀬戸物のお皿に盛られている。
照姫は海の夢の中から、漸く我に帰り
御茶屋の設えを見渡した。
襖には、美しい白波と松原と
可愛い千鳥が飛んでいる絵が描かれ
欄間の松の彫刻も風情があり
組み木細工と細木の戸も涼やかで
二人の傍らに置いてある桜貝色の茵や几帳は可愛らしい。
この御茶屋、涼やかで可愛らしい設えだわ。
きっと、殿がわたくしのために
調えてくださったのね
根津のわたくしのお部屋のように
照姫は綱豊の優しさが嬉しい。
「殿、この御部屋とっても素敵です。
なんて御礼を申し上げたら良いか…」
うっとりと嬉しそうな妻に
綱豊は満足して微笑みかけると
置かれた青いお皿を手に取り、寒天を十文字で切って
照姫の桜貝のような口に与えた。
白い波模様は甘酒で、寒天の爽やかさと相俟って
美味くて、麹の甘さが駕籠に揺られた疲れを癒す。
照姫の美味しそうな顔に、綱豊は肩を揺らして笑い
自分も寒天を一口食べた。
二人で海の景色を堪能しながら
甘くて冷たい寒天のおやつを楽しんだ後
綱豊は照姫を馬に乗せ
腕に抱いてゆっくりと夕暮れの海辺を散歩。
照姫が綱豊の馬に乗せられたのは
染井から根津の屋敷に帰った時以来である。
馨しい潮風に吹かれ海を眺めながら
時々、綱豊の端正な横顔を見上げた。
殿のお袖の中はとても落ち着くわ
何故かしら?
それに、一人で見る景色よりも
殿と御一緒に見る景色の方が綺麗
透き通る青空の海の景色も美しかったけれど
茜色に染まってゆく海や富士の山も美しい。
胸が切なくなるほどに。
おとなしく体を預け、うっとり海を見る照姫に
綱豊は甘く囁く。
「照、夕日が美しいな。
この濱屋敷は父上自慢の屋敷、わたしにとってもだ。
父上が先代の家綱公より賜った。
隣は尾張殿の屋敷。
つまり、我らに江戸の海を守れと仰せなのだ。
だから時折、異変はないか様子を見に参っておる。
これからは女主人のそなたも連れて参るゆえ
何か気付いたことがあれば
遠慮なくわたしに知らせるように」
照姫は黒曜石の瞳を輝かせ、綱豊を見上げ頷いた。
「御意にございます、殿」
江戸に着いた頃の照姫は、綱豊とは
形ばかりの夫婦になるだろうと思っていたのに
妻として勤めを果たせと言れるほど信頼されているのが
嬉しくて綱豊の胸に潜った。
甘い囁きよりも
任務を言い付けられて嬉しそうな照姫に
綱豊は肩を揺らして笑う。
茜色の陽が海に溶けて行くのを二人で見届け
御茶屋に戻ると、菫色の空に星が瞬いていた。
新鮮な江戸の海の幸の夕餉を終える頃
夜空には白く丸い月が輝き
月の輝きの欠片が綺羅綺羅と落ちて
藍色の海が銀色に燦めいた。
美しい夏の夜の絶景に見蕩れる照姫の肩を
綱豊は胸に引き寄せ、甘い囁きを再開。
「照、月が綺麗だ」
「はい、殿、
誠に美しゅうございます」
最愛の妻の愛らしい声を発する唇を
綱豊は端正な長い指先で撫で、甘い口吻をした。
口吻の余韻の中、照姫は綱豊の胸に甘えながら囁く。
「お馬から見た空と海の間の線は
丸くなっているような気がしました。
殿とわたくしのいるこの世も
あの美しい月のように丸いのでしょうか?」
綱豊は呆気にとられて照姫を見下ろした。
甘い声が紡いだ言葉が天文学、いや蘭学か。
賢い姫とは思っていたが、蘭学まで嗜んでいたとは。
照姫は綱豊が思うよりも遙かに賢かったのだ。
綱豊の呆れた表情に気付いた照姫は
悲しそうな顔をして俯いてしまい
綱豊は愛する妻の様子に慌て
泣きそうな、その顔を覗き込む。
「照、どうした?」
照姫は綱豊の艶やかで滑らかな翡翠色の絹織の
葵の紋のある袖をぎゅっと掴んで、泣くのを我慢した。
「やっぱり、わたくし、変なのですね。
女が蘭学に興味など持ってと
殿も呆れていらっしゃるのね。
殿は聡明であらしゃるから、つい…」
「京で嫌な思いをしたのか?」
照姫は下を向いたまま、こくり、と頷いた。
「近衛の実家で普通に話していた事を
余所の姫君達と遊んだ時にお話してもつまらなそうで
大きくなってもお話が合わない時があって…
姫君達に付き添う女房達もぽかんとして…
だからわたくし、変な姫なのです…
学問が好きなの、殿にも秘密していたかった…」
「ならぬ!ならぬぞ!照!
夫のわたしに隠し事など許さぬ!」
秘密と聞いて動揺した綱豊は、思わず照姫を
手加減無しに抱き締めてしまった。
「と…の、ぐる…じ…ぃ…」
「あぁ、すまぬ。
そなたが秘密などと言うから」
藻掻く照姫に気付いて腕の力を緩めた綱豊だが
照姫は綱豊の袖の中に潜り込んで小さくなっている。
賢い照姫は、人の心を手に取るように読んでしまう。
愚かなら気付かずにいられるのに
賢いばかりに傷ついてしまうのだろう。
それ故、空気を壊さぬように振る舞っていたのだ。
黒曜石の瞳が涙で潤んで雛鳥のように怯えている。
今にも泣きそうな照姫が可愛いくて
綱豊はニヤリと笑い、照姫を優しく撫で、慰める。
「何を今更。
流石、陽明家の異名を持つ学識高い近衛の姫。
天文学や蘭学を語れるほど、そなたが賢いとはな。
隠したところで、何時かは世間にも知られよう。
それに、父上は能力有る者を見出せ、と
わたしに教えてくださったのだ。
そなたの賢さは、この甲府家の宝。
きっとあの世でそなたを褒めてくださっておる」
「お父上さまが?
殿はわたくしをお嫌いにならない?」
黒曜石の瞳に涙を溜めて不安そうに見上げる照姫は
儚く堪らなく愛らしく、綱豊の保護本能を掻き立て
恋心を揺さぶり激情を溢れさせた。
「賢く愛らしい、そなたが愛しいのだ。
そなた以外、到底物足りぬ。
照が愛しくてならぬ」
綱豊は照姫の涙を指で拭い、そのまま頬を滑らせ
小さな顎を包み、ゆっくりと長く甘い口吻をしたのだった。
銀色に輝く月と燦めく星
柔らかな潮風とさざめく波に見守られながら。
綱豊の父、徳川綱重は数学の天才、関孝和を抱えていました
綱豊(将軍家宣)は、天才儒学者の新井白石と
将軍吉宗に「わしもあのような家臣が欲しかった」と
言わしめた、忠臣の間部詮房を抱えており
白石と詮房は共に、家宣家継の正徳の治を支えました




