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星 その貳

先代将軍家綱の葬儀が終わり


徳川一門や重臣達は連日

綱吉へ御機嫌伺いのために登城していたが

毎日の伺候は及ばずとの告知がされ

綱豊も漸(ようや)く、一息つくことが許された。


梅雨空の薄暗い居間で摂る

久しぶりの夫婦の昼餉。


綱豊は吸物を一口含むと

傍らで静かに美味しそうに

食事を始めた照姫を眺める。


薄い紫や水色の花模様の小袖が

いつもの可憐で華やかな装いとは違う

涼しげな透明感を溢れさせて

それが綱豊の心の水面に甘い波紋を広げた。


父親代わりと慕う伯父の家綱を亡くした悲しみに

寄り添ってくれた最愛の妻。


悲しみの中の連日の登城も

照姫が屋敷で帰りを

待っていてくれると思うだけで

気持ちが和らいだ。


照姫は箸の進まない綱豊を

心配して顔を向けるが

目が合った綱豊がふ、と笑ったので

安心して遠慮がちに

上目遣いの愛らしい微笑みを返した。


家綱薨去の重い空気から

綱吉への代替わりの厳かな祝いの空気への

変化に合わせるように、装いも所作も変える照姫。


東福門院の御所(サロン)で遊びながら

その時に相応しく振る舞う術を

照姫は知らず知らずに身につけたのだろうと

綱豊は察した。


東福門院は公武合体の象徴だが

御所(サロン)に見込みのある公家の姫君を呼び

品定めをして遊ばせながら教育を施し

縁組を整え、続々と江戸に送り込み

公武合体を強固にした。


偉大なる国母(ゴッドマザー)、東福門院和子


和子は、綱豊の父の綱重と同じく

二年前にこの世を去ったが

死して尚、徳川と朝廷に権威の光を放つ。


綱豊の大叔母でもある和子が

とっておきの孫娘(義理だけどね!)を

お前の嫁にしてあげたわよ、と

勝ち誇った眼差しで高らかに笑う幻影が

綱豊の心に浮かんだ。


綱吉の正室、新しい御台所の鷹司信子も

東福門院が選んだという。

それならば御台所として

相応しいのだろうと思う。


綱吉が側室に二人の子供を産ませても

信子との仲は睦まじいと聞く。


綱豊がそんな事を考えながら

照姫を見ているままなので

流石の照姫も気まずくて声をかけた。


「殿?

 わたくしの顔に何か付いていますの?

 何か変でしょうか?」


困り顔の照姫が可愛くて

綱豊はついニヤリと笑ってしまう。


「殿、酷い」


照姫が泣きそうな顔になってしまったが

それがまた可愛い。


「そなたは何をしても愛(う)い。

 食いしん坊なところもな」


「もう、殿…」


今度は拗ねて頬を膨らませてしまった。

表情豊かな照姫が愛おしくてならない。

思わず肩を揺らしてしまうが

これ以上、揶揄うのも大人げないから本題へ移った。


「冗談はさておき、少し落ち着いたゆえ

 明日は別邸の濱屋敷に様子を見に行く。

 そなたも参るが良い」


「濱の御屋敷へ?」


照姫の瞳が輝いた。

濱屋敷は江戸湾を望む別邸。

京の都育ちの照姫にとって

憧れの海が見られるのである。


拗ねて膨らんだ顔が、瞬く間にうっとりと溶けた。

綱豊はくるくると変わる照姫が愛おしく

くっくと笑った。




翌日、葵と牡丹の紋が鏤(ちりば)められた

豪奢な駕篭に乗せられた照姫は

大勢の家臣に傅(かしず)かれながら江戸の南をゆく。


途中、将軍家菩提寺の増上寺の前を通るという。


駕篭の傍に付き添う早川のじいが

小さな声で駕篭の中の照姫に教えてくれた。


「御簾中様、間もなく右手に

 増上寺の御成門が見えて参ります」


照姫は黒曜石の瞳を輝かせ

櫻の描かれた檜扇を広げ

目だけ覗かせ

白い指先でほんの少しだけ

駕篭の窓を開けた。


御成門

金と漆と極彩色で装飾された将軍専用の壮麗な門


想像よりも大きく煌びやかな門に

照姫は息を飲む。


徳川将軍家の権威と財力に。


将軍家綱は上野寛永寺に葬られたが

増上寺でも法要は行われた。

照姫は扇を置き

しなやかな白い手を合わせて

家綱の冥福を祈った。


しばらくすると、駕籠は動き出し

次第に外の空気の匂いが変わるのがわかった。


心が華やぐような不思議な匂い。


町の喧噪から離れ、音も静かになった。

濱の屋敷の辺りも

大名屋敷が建ち並んでいるという。


早川のじいに叱られてもいいわ!と思いながら

好奇心旺盛な照姫は駕籠の窓を開けて

建ち並ぶ大名屋敷の流れる景色を眺める。


どの屋敷も立派だが、一際石垣の立派な

重厚で大きな門が見えてきた。

塀も長く続いているようで端がわからない。


「御廉中様、濱の御屋敷の御門にございます」


早川のじいの声が駕籠の外から聞こえたので

開けた窓からじいの顔をちらりと見たが

その目は「はしたないですぞ」と

三角になっていて

照姫は少し肩を窄めて

反省している意思を伝えた。


それより、下屋敷だと聞かされていたのに

想像よりも大きな立派な門に、照姫は驚く。


これが将軍連枝とは言え

一大名の、しかも下屋敷とは。


流石、二十五万石の甲府徳川家!



しかし、門を通り屋敷に着いたと言うのに

一向に駕籠は止まらなかった。


木々の間を抜け、あの心華やぐ匂いは強くなり

聞いたことのない音が聞こえてきた。


漸(ようや)く駕籠が止まり、駕籠の戸が開けられると

明るい光とともに、華やぐ香りが押し寄せ

見上げれば、先に屋敷に到着していた綱豊が

柔やかに、でも、少し心配そうに

手を差し出してくれていた。


「待っていたぞ、照。疲れてはいないか?」


狭い駕籠の中でちんまりと座り揺られ

遠回りもしたので、正直ちょっと疲れたが

せっかく濱の屋敷に誘ってくれた

綱豊を心配させたくない。

照姫ははんなりと微笑み返すと

綱豊の端正で頼もしい手に

しなやかな白い手を預け

駕籠の外に置かれた上質な

厚みのある草履を履こうと

足を置いて体を起こそうとした瞬間

体がふわりと宙に浮いた。


気付けば綱豊に横抱きにされ

目が合った綱豊はニヤリと笑い

照姫を軽々と抱き上げたまま歩き出した。


「あの…殿、ご機嫌よう」


照姫は戸惑いながら挨拶をして綱豊を見上げるが

綱豊は照姫を甘く見つめたまま

大きな御茶屋に上がり込むと

くるりと体を反転させた。


「照、外を見るが良い」


照姫は夫の肩に手を置いて

顔だけ振り向いて、明るい光の方を見た。



青い空に白い雲が浮かび

果てしなく続く青い海が

目の前に広がっている。


遠くには富士の山、舟が霞み

海鳥(うみどり)が優雅に飛び交う。


潮風がそよぎ、磯の香りが心ときめかせ

穏やかな波音が漣(さざめ)き

白波が綺羅綺羅と輝いている。


「殿、これが海ですの…?」


海のない京の都育ちの照姫は

生まれて初めて海を見た。


濱の屋敷の、海を臨む御茶屋からの絶景。


「そうだ、これが江戸の海だ。

 気に入ったか?

 もっと早くに連れて来たかったのだがな」


あまりの絶景に茫然としている照姫に

綱豊は満足げな、甘い視線を注ぐ。

この自慢の絶景を

己の腕の中で妻に見せたかった。


照姫は京のお山の紅葉を思い出した。

紅や黄色が織る、心打つ美しさだった。


江戸の海と空の透き通る青

目を通して魂まで広がる

濱の屋敷の絶景に照姫は魅入られた。


心から愛し慈しんでくれる夫の腕の中で

照姫は美しい海を見たのであった。

照姫は濱屋敷が気に入っていたようで

綱豊が将軍家宣になってからも

毎年春と秋に訪れています


甲府徳川家の濱屋敷は綱豊(後の家宣)が

綱吉の養子になったことで将軍家の濱御殿となり

迎賓館として公家の接待に使われました

公家出身の照姫の好みが取り入れられたものと思われます


また、十代将軍家治の御台所倫子は

京から下向し結婚するまでの間、濱御殿で育ち

家治は毎日のように通っていたそうです


奇しくも家宣の側室の法心院と蓮淨院も

濱御殿に住んでおり

この二人は生きた大奥を知る貴重な存在でした


八代将軍吉宗の正室は紀州藩主時代に亡くなり

九代将軍家重の正室は西の丸時代に亡くなっており

本丸大奥は御台所不在の時代が長く続いていました


法心院と蓮淨院の二人が、倫子を守り育て

大奥の御台所(照姫、後の熙子)の暮らしを伝えたのです




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