星 その壱
馨しい風が
千代田の御城を吹き抜けていく。
贅を凝らした本丸の黒書院で
綱豊は威儀を正し座して
次期将軍の綱吉の御成を待っている。
ほんの一月前
目の前の上段の間には
長きに渡り君臨した将軍家綱が
慈愛に満ちた眼差しで
日光から帰還した綱豊を
労ってくれたというのに。
父親代わりの優しき伯父の家綱が
もうこの世に居ない現実を突きつけられ
綱豊の胸中からどうしようもない寂しさと
悲しみが染み出し、それは体中に溢れ
空の御座所の上に家綱の思い出が
幾つも浮んでは消えていく。
やがて、綱吉の黒書院御成が告げられた。
黒書院は白書院に格式は劣るが
将軍の住居空間に近い。
その黒書院に御三家より早く
綱豊は呼ばれた。
綱豊は深々と平伏して
老中達を従えた綱吉を迎える。
「上様には御機嫌麗しく
恭悦至極に存じ上げまする」
綱豊の重々しく麗しい声が黒書院に響いた。
「面を上げよ」
上段の間から聞こえた綱吉の声は高く
前将軍の家綱の泰然とした声とは異り
どこか奇妙な印象だった。
違和感を隠し、綱豊は恭しく体を起こし
上段の間に座る綱吉を見る。
やはり違う、そう感じた。
生まれながらの将軍の家綱とは
何もかもが違うのだ。
違和感はゆらりと揺れると
大きく膨らみ
将軍家綱の幻影が現れ
綱吉を覆い隠した。
竹千代の名を与えられ
三歳で元服し
未来の将軍と教育され
僅か十歳で将軍に就き君臨して
老中達に傅かれた家綱の偉大さを
まざまざと見せられた。
綱吉とて、将軍家光の子として生まれた。
兄の将軍家綱に傍近く仕え
長年館林藩主を務めた壮年の綱吉。
その綱吉でさえ、家綱とはこれ程違う。
綱豊は自身が将軍に指名されずに
助かったと思った。
甲府藩主を継いで僅か二年の若輩者。
将軍になったとしても
綱吉との衝突は避けられず
いずれ徳川は混乱に陥ると
綱吉を覆い隠した家綱の幻影が教える。
亡くなって尚
優しき伯父は綱豊を導く。
綱豊は目頭が熱くなるのを、懸命に堪えた。
「近う」
綱吉の高い声が綱豊を呼ぶ。
「はっ」
綱豊は端正な所作でにじり寄ると
神経質を滲ませる綱吉の手から、熨斗を受け取った。
綱吉は恭順な綱豊の様子に
満足そうに頷く。
内心ほっとしながら。
綱吉の兄 綱重が生きていれば
綱重が将軍となり
綱豊は将軍の世継として
いずれ西の丸に入っていただろう。
その負い目が綱吉にはあった。
綱豊こそ次期将軍になるべきと主張した
徳川の長老、水戸の光圀への言い訳も。
綱吉が側室のお伝の方に産ませた徳松は、まだ赤子。
先代将軍家綱の遺言で
徳松には館林藩を継がせた。
成人した甥の綱豊に将軍の補佐をさせ
経験を積ませ、次世代の将軍家を繋ぐ狙いが
家綱にはあったのだろう。
綱豊は自身が背負った重責を理解していた。
家綱の深慮に感謝しながら
家綱の遺志に報いんが為
徳川に、天下万民に尽くそうと誓った。
綱豊に熨斗を渡した後
綱吉は御三家に会うため白書院に渡り
その後、二の丸に戻って行った。
次期将軍に指名された綱吉は
館林藩主だったため
将軍世子の住む西の丸ではなく
二の丸に入った。
後の世の八代将軍の吉宗も
紀伊藩主だったので
同様に二の丸に入っている。
その吉宗を時期将軍に指名して
死に瀕した幼将軍家継の代わりに
大奥で熨斗を渡したのは
家宣(綱豊)の御台所、天英院となる照姫。
「お帰りなさりませ、殿」
照姫がはんなりと愛らしい微笑みと声で
御城から櫻田御殿に戻った綱豊を迎えた。
いつもなら瞬く間に可憐な花の如き照姫を
腕に抱く綱豊なのだが
照姫の部屋の意外な光景に、立ったまま部屋を見渡す。
綱豊の祖母の順性院が
照姫と仲良く並んで座り
照姫の侍女達と順性院の侍女達も
打ち解けた様子であちらこちらに塊を作り
女達の色とりどりの衣や、夏らしい爽やかな
翡翠色を効かせた几帳などの設えが
宛ら絵巻物から抜け出たような煌びやかさで
綱豊の帰りを待っていたのだから。
「これは…
御婆様もおいでとは」
驚きながら綱豊が微笑む照姫の隣に座ると
勝ち誇る順性院が扇を閉じながら朗らかに尋ねた。
「ほほ…
殿、御城は如何でございました?」
「黒書院にて、上様から直々に熨斗を
いただきました」
綱吉手ずから渡された熨斗の意味を
家光の側室順性院は知っている。
涼しげで飄々とした孫の返しに
順性院もまた朗らかなまま。
「ほほ…まぁ、
それは宜しゅう遊ばされました。
水戸様も御納得されたことでしょう。
殿の御報告も聞けた事でございますから
婆はそろそろ退散いたしましょう」
ほほ…と上品な声を棚引かせながら
順性院は若い夫婦の元から
颯爽と去って行った。
綱豊は順性院の後ろ姿が見えなくなると
早速照姫を袖の中に納め、照姫の頬を
長い指先で愛おしいと撫でる。
「私の居ぬ間に、
御婆様とこれ程仲良くなっているとは」
袖の中の照姫が黒曜石の瞳を
綺羅綺羅させ、あどけなく嬉しそうに
綱豊を見上げながら言う。
「順性院様は、殿の御留守の日は
わたくしが寂しくないようにと
訪ねてくださいますの。
先代の上様の御代替わりの時の事など
細やかに教えてくださるのです。
わたくし、とっても嬉しゅうございます」
「大姑どころか、侍女達同士も
仲良うしているとはな。
全く、そなたには敵わぬ」
まだあどけない幼妻の社交手腕に
驚きと呆れを含んだ甘い視線で見つめる夫を
照姫は不思議に思った。
「?…
順性院様がお優しいのです。
それに、東福門院様の御所は
親戚の方々も侍女達も仲が良くて
とっても華やかで楽しゅうございました」
仲が良いのが普通では?
と言いたげな照姫の表情に
綱豊は宮中の社交界を垣間見た。
愛妾が数多いる後水尾法皇の後宮で
確固たる地位を築いた中宮東福門院徳川和子
は綱豊の大叔母。
その人柄と社交手腕も伺い知ることとなった。
そして、照姫は東福門院のお気に入りの孫娘。
東福門院は照姫を赤子の頃から
度々御所に呼んで可愛がったという。
綱豊の血の繋がりはあるのに
会ったこともない大叔母に
義理の孫娘の照姫が愛されていた不思議な縁。
照姫は中宮御所で遊びながら薫陶を受け
東福門院は照姫の天性の利発さ愛らしさ
人懐こさを見抜いて江戸に送り出したのだ。
東福門院に選ばれた姫。
綱豊は、遠い未来を見せられた気がした。
もし…万が一その時が来たら…
その時を見越して
東福門院と家綱が選んだ姫なら…
綱豊はあどけなく見上げる照姫の瞳の中に
己に課せられた運命を見たのだった。




