第4話 変態への扉
「わあ、今日はハンバーグなのね。おば様」
いつものように、彼女が僕の家で晩御飯を食べていた。
朝晩はいつも僕の家でご飯を食べ、お風呂も入っていく。
「そうなの。ひき肉が安かったのよ。大きめに作ったから一杯食べてね、アリサちゃん」
どうしてこんなことになっているのかというと、アリサちゃんの両親が交通事故で1年前に亡くなっているからだ。
中等部の3年生になったばかりだった彼女は、それで天涯孤独になってしまった。
ヨーロッパの名も知れぬ小国からの移住だったので、頼れる親戚がこの国には誰もいない。勘当同然の移住だったらしく、アリサちゃんは両親の母国のことを何も知らないと言った。
昔から彼女を娘のように可愛がっていた僕の両親は、それを知ると彼女の後見人を当たり前のように引き受けた。そしてそれを機に、また再び昔のように親しく接し出す。
アリサちゃんが綺麗に成長するにつれて疎遠になっていた僕も、一人きりになった彼女を放っておけなかった。
長い金髪と透き通るような白い肌、そして華奢な体つきが妖精のようにも見える彼女は、両親の事故死で本当に儚く消えてしまいそうだった。
平凡で冴えない僕とは月とスッポンで、まったく釣り合わないとみんなにからかわれていたことを気にしている場合ではもはやない。
ショックのあまり糸が切れた人形のようになってしまったアリサちゃんに、僕はご飯を食べさせたり時には歯まで磨いてあげ、着替えやお風呂を促したりして親身に世話を焼く。
夜は僕の家で寝るよう僕の親たちもすすめたけれど、アリサちゃんは両親との思い出が詰まった屋敷を離れたがらなかった。
仕方ないのでしばらくのあいだ僕は、彼女の家のリビングのソファで明かりを付けたまま寝ながら番をした。彼女が夜の不安に突発的な行動に出るのが怖かったのだ。それほど彼女は憔悴して見えた。
そしてこれもショックの後遺症なのか、次第にアリサちゃんは昔のようにお兄ちゃんと僕に甘えてくるようになる。
突然の両親の死という受け止めきれない現実から、どうやら軽い幼児退行が彼女の中で起こっているようだ。幸せだった昔に、彼女の心が戻りたがっているのだろう。
幼さと女らしさとが危険にバランスする彼女に抱き着かれたりするのは正直困惑を隠せないのだけど、その頃の僕は湧き上がる不純な気持ちを必死に押し殺しながら不安定な彼女を支えるしかなかった。両親を失った彼女が、今またお兄ちゃんに裏切られるわけには絶対にいかないからだ。
家族ぐるみの世話が良かったのか、それとも時の経過によるものなのか。少しずつアリサちゃんの心は回復していった。
それでも時折不意に涙ぐむなど、彼女の心の傷はやはり深い。
いつまでもアリサちゃんの家で夜を過ごすわけにもいかない僕は、考えあぐねた挙句、遠く秋葉原で盗聴器を買って彼女の部屋にそれを仕掛けた。
これがあれば夜に何か異常があってもすぐに駆け付けることができる。
ただ、電波式は周囲の人間に音声を拾われる可能性があってセキュリティ面が不安なので、アリサちゃんが安定してきた頃合いを見計らってICレコーダーに切り替え今に至っている。その方がクリアな音質で録音が可能だというのは嬉しい誤算だろうか。
せっかくならそれを機に盗聴をやめるという選択肢が、その頃の僕にはもう残っていなかった。もうすっかり、僕はアリサちゃんにまいっていたのだ。
回復してきてもアリサちゃんの甘え癖はなかなかなおらなかった。よく僕に抱き着いてくるし、昔のように平気で下着姿で僕の前をうろつき、脱ぎ散らかした下着が洋服とともに転がっていることもよくあった。
その度に困った顔をする僕を、最初はきょとんと、そして段々と何か意味ありげに彼女はからかってくる。
その年相応な反応に戻っていく様子を回復と喜べばいいのか、それとも僕の困惑を分かっていてあえて幼馴染の遠慮なさを装う彼女をまだ不安定だと心配すればいいのか。僕にはよく分からない。
確かなのは、そんなアリサちゃんの魅力に負けてついに僕が下着ドロを働くようになったということくらいだろうか。
それにつれて盗聴内容も変わってくる。
両親が亡くなった当初は「ママ……」とか「どうして死んじゃったの、パパ」とかいうつぶやきが多かったのに、段々と僕に関するものが増えていく。
最初の方は、またお兄ちゃんといられて嬉しいという幼児退行じみたもので微笑ましかった。
だけどそれは少しずつ僕をからかってその反応を楽しむものに変わっていき、やがて完全に僕への悪口になる。
それはまるで、お父さんのお嫁さんになると言っていた女の子が、お父さんのと一緒に洗濯しないでと顔をしかめるのと同じだった。
つまり着実に、彼女の精神状態は回復しているということだった。
そして僕は、確実に薄汚い変態野郎へと変貌していた。
せめて彼女を傷付けることのない、変態紳士たらんとすることだけが僕にできる精一杯の抵抗だった。
「あ、そうそうアリサちゃん。今日変な放送があったのを知ってる? なんだか宇宙戦争が起こるんじゃないかって大騒ぎみたいね」
「そうみたいですね。私は部屋にいて直接は見てないんですけど、もし本当だったらとっても怖いです」
「まあどうせ誰かのイタズラでしょ。そんなことして一体何が面白いのかしらねえ」
母さんの言葉に僕はドキリとした。
だけどアリサちゃんの反応はとても自然だった。怪しい地下室で市ヶ谷やペンタゴンのシステムがどうのと言っていた様子をまったく感じさせない。
「あ、でももし本当に宇宙戦争が起こったら、お兄ちゃんはもちろんアリサのことを守ってくれるよね?」
アリサちゃんがわざとらしく僕に聞いてくる。
「う、宇宙戦争なんか起こったら……、ぼ、僕に何もできるわけ、ないじゃないか」
地下室でのことで頭が一杯な僕は、うろたえながらそう返すしかなかった。
だけどそれは、紛れもない事実でもある。平凡で冴えない僕に一体何ができるというのか。
「えー、ならせめてピーマンからは私を守ってよね」
そっちの方が本命だったのかという鮮やかさで、彼女は野菜炒めからピーマンだけを僕の皿へひょいひょいと移してくる。
「ちゃ、ちゃんと野菜も食べないと、大きくなれないんだよ」
僕はいつも両親から言われている言葉を反射的に返しながら、一方ではアリサちゃんが口にした箸で移されてくるピーマンの存在にドキドキとしていた。
「それって、何か私の胸に文句があるってことなのかな。お兄ちゃん?」
控えめな胸のことを密かに気にしている彼女が怖い笑顔で僕を睨んでくる。
「そ、そうじゃなくて。野菜も食べなきゃ栄養をうまく吸収できないんだよ。だから、ハイッ」
僕はそう言ってアリサちゃんの皿へ野菜炒めのナスをのせた。それも僕が既に半分かじっているものをだ。
僕の思わぬ反撃に、彼女が一瞬ドキッとした顔になる。
それでもすぐ、彼女はまたいつもの幼馴染へと戻っていく。
「もー、お兄ちゃんは心配性なんだからあ」
ぶつくさ言いながらも、アリサちゃんは僕が置いたナスをモグモグとちゃんと食べた。
絶対に付着しているであろう僕のツバが、彼女の口の中で彼女自身のものと混ざり飲み下されていく。
そう、仲のいい幼馴染の立場を守るなら、そして母さんの前なら彼女はそうするしかない。たとえ大嫌いな僕が一度口にしたものだとしてもだ。
その光景に僕はゾクゾクとした。
だけどアリサちゃんは、好き嫌いする幼馴染を心配しただけの僕を決して正面から責めることができない。
なぜならこれは、あくまで彼女のためを思ってした行為だからだ。そこに彼女をいじめたり傷付けたりする意図などあるはずがなかった。
「ピ、ピーマンの代わりにナスならいいじゃないか」
適当にそんなことを言いながら、今度は僕がアリサちゃんが気まぐれに与えてくれたご褒美を食べる。
苦いはずのピーマンは、なぜかとても甘く感じられた。




