幼い頃の写真
一週間が、ゆっくりと過ぎていった。
俺にとっては、それだけでも大きな変化だった。
西園寺蓮の代わりとして学校へ通い始めたばかりの頃は、誰かと話すたびに緊張していた。
どんな言葉を使えばいいのか。
どんな態度を取ればいいのか。
蓮ならどうするのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、最近は少し違う。
授業を受けて。
クラスメイトと話して。
昼休みには陽菜と一緒に過ごす。
そんな日常にも、少しずつ慣れてきた。
特に陽菜とは、以前より自然に話せるようになった。
「蓮」
その日の休み時間。
俺が席で次の授業の準備をしていると、陽菜がやってきた。
いつもの明るい笑顔だ。
「どうした?」
「ちょっと見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「うん」
陽菜は肩にかけていた鞄から、一冊の小さなアルバムを取り出した。
「これ」
「……アルバム?」
「そう」
陽菜は俺の机の上にアルバムを置いた。
「私たちの昔の写真」
「俺たちの?」
「うん」
俺の心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
写真。
それは、俺が最も警戒しなければならないものの一つだった。
実際に存在する蓮と、俺。
二人の違いを知らない人から見れば、ほとんど同一人物に見える。
だから写真そのものが問題になるわけではない。
問題なのは、その写真に写っている思い出を俺が知らないことだ。
「見てもいい?」
「もちろん」
陽菜は嬉しそうにアルバムを開いた。
最初のページには、一枚の写真が貼られていた。
そこには、小さな男の子と女の子が並んで写っている。
男の子は黒い髪。
女の子は今と同じ、淡い茶色の髪。
「……これ」
俺は思わず写真を見つめた。
「蓮、可愛いでしょ?」
「……俺なのか?」
「そうだよ」
陽菜が笑う。
確かに顔立ちは今の蓮とほとんど変わっていない。
それでも、俺には不思議な感覚だった。
自分と同じ顔をした少年が、写真の中で笑っている。
でも、俺ではない。
「この写真、いつ撮ったんだ?」
「小学校に入る前くらいかな」
「そんな昔か」
「うん」
陽菜はページをめくる。
そこには、二人で撮った写真が何枚も並んでいた。
誕生日。
家族同士での食事。
旅行。
庭で遊んでいる写真。
学校行事。
どの写真にも、陽菜と蓮が一緒に写っている。
「……本当に、ずっと一緒だったんだな」
俺が呟くと、陽菜は嬉しそうに頷いた。
「うん」
さらにページをめくる。
「あっ、これ!」
陽菜が一枚の写真を指差した。
そこには、泥だらけになった小さな蓮が写っていた。
「……何があったんだ、これ」
「覚えてない?」
「うん」
「ふふっ」
陽菜が楽しそうに笑う。
「蓮がカエルを捕まえようとした日だよ」
「カエル?」
「そう」
「俺が?」
「そうだよ」
陽菜は写真を見ながら笑っている。
「『俺は怖くない』って言ってたのに、カエルがこっちに跳んできた瞬間、すごい勢いで逃げたんだから」
「……それは恥ずかしいな」
「すごかったよ」
「陽菜はどうしたんだ?」
「私が捕まえた」
「本当に?」
「本当」
陽菜は得意そうに胸を張った。
「昔から私のほうが勇敢だったんだから」
「……それ、ずっと競争してたのか?」
「うん」
陽菜は笑う。
「蓮と私は、昔から何でも競争してたよ」
「へえ」
俺は写真を見る。
今の陽菜からは想像できないような、幼い二人の姿。
その一枚一枚を見るたびに、知らなかった過去が少しずつ埋まっていく。
「これも好き」
陽菜が次の写真を指差した。
そこには、大きな木の下に座っている二人が写っていた。
二人ともまだ幼い。
そして、今よりずっと無邪気な顔をしている。
「この写真が好きなの?」
「うん」
陽菜は少しだけ声を落とした。
「この日はね、私たちがずっと友達でいようって決めた日なんだ」
「……そうだったのか」
「うん」
陽菜は写真を見つめたまま、微笑んだ。
「もちろん、当時はそんなに大げさな意味で考えてなかったけどね」
「それでも覚えてるんだな」
「覚えてるよ」
陽菜は迷いなく答えた。
「私にとっては、大事な思い出だから」
俺は黙って写真を見つめた。
その言葉を聞いていると、少しだけ胸が苦しくなる。
陽菜にとって、この写真の中の少年は本物の蓮だ。
その少年と過ごした時間は、誰にも奪うことのできない大切な思い出なのだろう。
そして今、俺はその少年の代わりをしている。
「……陽菜」
「ん?」
「俺……変わったかな?」
陽菜が俺を見る。
「どうして?」
「昔の写真を見てたら、今の俺とは結構違う気がして」
「うん」
陽菜は素直に頷いた。
「変わったと思う」
「やっぱり?」
「うん」
俺は少し不安になる。
けれど、陽菜は笑った。
「でも、嫌じゃないよ」
「……」
「人って変わるものだから」
陽菜はアルバムを閉じた。
「それに、私は今の蓮も好き」
「……どういうところが?」
「え?」
「いや……」
自分から聞いてしまった。
陽菜は少し考える。
「前よりよく話してくれるところ」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ」
陽菜は指を一本ずつ折りながら話し始める。
「前より笑うようになったところ」
一本。
「困ってる人がいたら、すぐ助けるところ」
二本。
「私の話をちゃんと聞いてくれるところ」
三本。
「それから……」
陽菜は少しだけ考えた。
「一緒にいて楽しいところ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ笑った。
「それなら、よかった」
「何が?」
「陽菜が俺といて楽しいなら」
陽菜は少し驚いた顔をした。
「……うん」
それから、小さく笑った。
「私も、嬉しい」
そのとき、教室のチャイムが鳴った。
「もう授業始まるね」
「そうだな」
陽菜はアルバムを鞄へ戻した。
「また今度、続きを見せてあげる」
「まだあるの?」
「いっぱいあるよ」
「そんなに?」
「うん。蓮の恥ずかしい写真もたくさんある」
「……それは見せなくていい」
「駄目」
「なんで?」
「面白いから」
陽菜が笑う。
「じゃあ、楽しみにしてるよ」
「本当?」
「うん」
陽菜は嬉しそうに自分の席へ戻っていった。
その日の放課後。
俺が帰る準備をしていると、陽菜が再び近づいてきた。
「蓮」
「ん?」
「今度の日曜日って暇?」
「日曜日?」
「うん」
「たぶん暇だけど」
「じゃあ、私の家に来ない?」
「……陽菜の家?」
「うん」
俺は少し驚いた。
「何かあるの?」
「あるよ」
陽菜は鞄を抱えながら答える。
「昔のものを置いてある場所があるの」
「昔のもの?」
「写真とか、昔遊んでたものとか」
「なるほど」
「もっと見せてあげたい」
陽菜は笑った。
「嫌なら無理しなくていいけど」
「いや」
俺は少し考えてから答える。
「行ってみたい」
陽菜の表情が明るくなる。
「本当?」
「うん」
「じゃあ決まり!」
「ただ……」
「何?」
「俺、本当に覚えてないこと多いから」
陽菜は少しだけ考えたあと、優しく笑った。
「大丈夫だよ」
「え?」
「思い出せなくてもいい」
陽菜は俺を見る。
「私が覚えてるから」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「だから、私が教えてあげる」
「……そっか」
「うん」
俺も笑った。
「じゃあ、よろしく」
「任せて!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
そして、教室を出ていく。
俺はその背中を見ながら、しばらく動けなかった。
最初は、ただの仕事だった。
西園寺蓮の代わりとして学校へ通う。
それだけのはずだった。
けれど今は、少し違う。
陽菜と過ごす時間が楽しい。
陽菜から蓮の昔の話を聞くことも楽しい。
そして、もっと知りたいと思う。
本物の蓮がどんな人だったのか。
どんな子供だったのか。
陽菜とどんな時間を過ごしてきたのか。
それを知ることは、演技を完璧にするためだけではない。
俺自身が、蓮という少年を少しずつ理解したいと思い始めていた。
そして――
次の日曜日。
俺は初めて、桜井家を訪れることになる。
そこには、学校では見ることのできない陽菜のもう一つの顔と、俺がまだ知らない二人の過去が待っていることを、このときの俺はまだ知らなかった。




