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俺がまだ知らない、蓮の一面

月曜日の朝。


俺はいつもより少しだけ軽い気持ちで学校へ向かっていた。


土曜日に陽菜と一緒に出かけてから、まだ二日しか経っていない。


それなのに、不思議と学校へ行くのが楽しみになっていた。


最初は、ただ蓮の代わりをするだけだと思っていた。


決められた時間に学校へ行き、決められた席に座り、周囲に怪しまれないように振る舞う。


それだけの仕事。


けれど、実際に学校生活を始めてみると、思っていたよりもずっと普通だった。


授業を受ける。


友達と話す。


昼休みに誰かと一緒に食事をする。


放課後に寄り道をする。


そんな当たり前の日常が、今の俺には少し新鮮だった。


そして、その日常の中には――陽菜がいる。


「おはよう、蓮」


教室に入ると、すぐに陽菜が声をかけてきた。


「おはよう、陽菜」


「……あれ?」


陽菜が俺の顔を覗き込む。


「何?」


「今日、なんか嬉しそうじゃない?」


「そう?」


「うん」


陽菜はじっと俺を見る。


「昨日もそうだったけど、最近ちょっと笑うようになったよね」


「俺、そんなに笑ってなかった?」


「うん。前はもっと無表情だった」


「……そうなのか」


「そうだよ」


陽菜は楽しそうに笑った。


そして、自分の鞄から何かを取り出す。


「そうだ。これ見て」


「それ……」


土曜日に買った小さなアクセサリーだった。


「まだ持ってたんだ」


「当たり前でしょ」


陽菜は嬉しそうにそれを見せる。


「気に入ってるから」


「似合ってると思う」


「本当?」


「うん」


陽菜は少しだけ頬を赤くした。


「……なら、買ってよかった」


「そんなに気に入ったなら、よかったな」


「うん」


陽菜はアクセサリーを大切そうにしまった。


その後、午前中の授業が始まった。


俺はノートを取りながら、教師の話を聞いていた。


授業そのものは難しくない。


けれど、時々思う。


本当に俺がここにいていいのだろうか、と。


ここにいるのは、本来なら西園寺蓮だった。


俺はその代わりだ。


そう考えていた、そのとき。


前の席に座っていた男子生徒が、机の上に積んでいた教科書を落とした。


「うわっ!」


何冊もの教科書とノートが床に散らばる。


「大丈夫?」


俺はすぐに席を立った。


「悪い、手伝ってくれるか?」


「もちろん」


俺は床に落ちた本を拾い始める。


「これ」


「ありがとう、助かる」


「気にするな」


拾った本を渡して、俺は席に戻った。


それだけのことだった。


けれど。


少し離れたところから、陽菜がこちらを見ていた。


「……」


俺はその視線に気づく。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


陽菜はそう答えた。


しかし、どこか不思議そうな顔をしていた。


休み時間。


陽菜が俺の席までやってくる。


「ねえ、蓮」


「何?」


「さっきのことなんだけど」


「さっき?」


「教科書を拾ったでしょ?」


「ああ」


「前はああいうこと、あまりしなかったよね」


「そうなの?」


「うん」


陽菜は少し考える。


「別に優しくなかったって意味じゃないよ?」


「分かってる」


「ただ、前の蓮なら誰かが拾うまで待ってたと思う」


「……なるほど」


俺は苦笑する。


「じゃあ、俺も少し変わったのかもな」


「うん」


陽菜は微笑んだ。


「でも、私は今のほうが好き」


「……またそれ?」


「だって、本当だもん」


陽菜は悪びれずに言った。


俺は返事に困ってしまう。


その日の昼休みも、俺たちは一緒に昼食を食べた。


土曜日に一緒に出かけたこともあって、以前よりずっと自然に会話ができるようになっていた。


「そういえば、土曜日の写真」


陽菜がスマートフォンを取り出す。


「これ見て」


画面には、土曜日に撮った写真が何枚か表示されていた。


「こんなの撮ってたのか」


「うん」


「いつの間に?」


「秘密」


「なんだそれ」


俺は笑う。


陽菜も笑った。


写真の中の俺たちは、普通の友達にしか見えなかった。


そのことが少し不思議だった。


俺は偽物なのに。


こうしていると、自分が本当にこの場所にいるような気がする。


昼食を終え、午後の授業も終わる。


放課後。


今日は教室の掃除当番だった。


俺は箒を持って床を掃く。


「蓮、そこはもういいよ」


陽菜が言う。


「大丈夫」


「でも、私の担当だから」


「一緒にやれば早く終わるだろ」


「……」


陽菜が黙った。


「どうした?」


「ううん」


彼女は少しだけ笑った。


「やっぱり変わったなって思って」


「また?」


「うん」


陽菜は机を拭きながら言う。


「前の蓮って、こういうことはもっと人に任せてたから」


「そうなのか?」


「うん」


「じゃあ、俺は面倒なことまで自分でやるようになったってこと?」


「そういう言い方すると、ちょっと違うけど」


陽菜は笑う。


「でも、前より周りを見てる感じがする」


俺は手を止めた。


「周りを?」


「うん」


陽菜は俺を見る。


「誰かが困ってたら助けるし、自分から話しかけるようになったし」


「……」


「昔より、人との距離が近くなった気がする」


俺は少し考えた。


それはたぶん、俺が特別なことをしているわけではない。


俺は昔から、祖父に言われてきた。


困っている人がいたら助けろ。


自分にできることならやれ。


だから、今まで通りにしているだけだ。


でも――


本物の蓮は、俺とは違う環境で育った。


同じ顔をしていても、同じ人間ではない。


「……俺って、そんなに変だった?」


俺が聞くと、陽菜は少し考えてから笑った。


「変っていうより……」


「より?」


「ちょっと遠かったかな」


「遠い?」


「うん」


陽菜は窓の外を見る。


「昔から優しかったよ。でも、どこか一線を引いてる感じがした」


俺は何も言わなかった。


それは、俺の知らない蓮の一面だった。


資料に書かれている性格だけでは分からない。


陽菜だからこそ知っている蓮。


「でも」


陽菜は俺を見る。


「今は、ちょっと近くなった」


「……そうか」


「うん」


陽菜が微笑む。


「私は、こっちのほうが好き」


また同じ言葉だった。


けれど、今度は少しだけ嬉しかった。


掃除が終わる。


俺たちは一緒に教室を出た。


夕方の廊下には、ほとんど人が残っていない。


窓から差し込む夕日が、床をオレンジ色に染めている。


「ねえ、蓮」


「ん?」


「将来、何したい?」


「将来?」


突然の質問だった。


俺は足を止める。


将来。


そんなこと、今まで真剣に考えたことがあっただろうか。


学校へ行って。


アルバイトをして。


祖父を助けて。


それだけで精一杯だった。


「……誰かの役に立てる人になりたい」


気づけば、そんな答えが出ていた。


「誰かって?」


「大切な人とか」


「家族?」


「うん」


俺は祖父の顔を思い浮かべる。


「自分の大切な人が困っていたら、助けられるようになりたい」


陽菜は静かに俺を見つめていた。


そして、ふっと笑った。


「それ、蓮らしいね」


「俺らしい?」


「うん」


陽菜は頷く。


「変わったところはいっぱいあるけど、そういうところは昔から変わってないと思う」


俺は少し驚いた。


「そうなのか?」


「そうだよ」


陽菜は歩きながら続ける。


「昔から、私が困ってるときは助けてくれたから」


「……」


俺には覚えていない。


でも、きっと本当なのだろう。


「だから、そういうところは今も好き」


「……」


思わず足が止まりそうになる。


陽菜自身も、自分の言葉に気づいたらしい。


「……あ」


顔が赤くなる。


「いや、その……!」


「陽菜?」


「違うから!」


「何が?」


「今のは、その……友達としてっていうか!」


「……?」


俺には何が違うのか分からない。


陽菜は顔を赤くしたまま、少し早足になる。


「もう! 忘れて!」


「いや、陽菜が勝手に言ったんだろ」


「忘れてってば!」


俺も思わず笑ってしまう。


「分かった、分かった」


「本当に?」


「本当に」


陽菜も少しだけ笑った。


そのまま二人で校門へ向かう。


「じゃあ、また明日」


「うん」


「明日もお昼一緒に食べようね」


「もちろん」


陽菜は小さく手を振った。


「じゃあね、蓮」


「また明日」


陽菜が歩いていく。


俺はその背中をしばらく眺めていた。


最初は、ただの仕事だった。


西園寺蓮の代わりになって学校へ通う。


それだけのはずだった。


でも、今は違う。


陽菜と話すことが楽しい。


一緒に笑うことが楽しい。


そして――


もっと彼女のことを知りたいと思っている。


「……これって、友達ってことなのかな」


俺は小さく笑った。


その頃。


陽菜もまた、帰り道で今日の会話を思い返していた。


「……私、何言ってるんだろ」


自分でもよく分からない。


昔から知っている幼馴染。


ずっと大切にしてきた男の子。


でも、最近の蓮は少し違う。


以前よりよく笑う。


以前より話しかけてくれる。


そして、以前よりもずっと近くに感じる。


「……もっと話したいな」


陽菜は小さく呟いた。


まだ、その気持ちに名前をつけるつもりはなかった。


ただ――


昔から知っているはずの幼馴染を、もう一度知っていく。


そんな毎日が、少しだけ楽しかった。

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