変態! どうしてここにいるの!?
九条家の夏の別荘で迎える二日目の朝は、昨日とは打って変わって穏やかなものだった。
海で遊び、プールで泳ぎ、思い切り夏を満喫した翌日。
今日は全員、ゆっくり過ごすことになっていた。
朝食を終えた俺は、二階の廊下を歩いていた。
「……この家、やっぱり広すぎるだろ」
別荘の構造にはまだ慣れていない。
部屋の数も多いし、廊下も長い。似たような扉がいくつも並んでいるせいで、目的の場所を探すだけでも一苦労だった。
今の俺の目的は、ただ一つ。
浴室を見つけることだった。
昨日の海水やプールの水を浴びた後、もう一度さっぱりしたいと思ったのだ。
廊下の奥に、少しだけ開いている扉が見えた。
「ここかな?」
中から物音は聞こえない。
俺は特に深く考えることもなく、扉を押した。
そして。
「……え?」
目の前に広がっていた光景に、俺の思考が停止した。
陽菜、麗華、栞の三人が、浴室の脱衣所にいた。
それぞれ着替えの途中だったらしく、慌てて手元のタオルを引き寄せる。
一瞬、時間が止まったような気がした。
「……」
「……」
「……」
最初に声を上げたのは陽菜だった。
「きゃあああああっ!!」
続いて麗華の鋭い声が響く。
「ちょっと、蓮っ! 何をしているのよ!!」
栞も顔を真っ赤にして叫んだ。
「れ、蓮くんっ! こっちを見ないでくださいっ!」
「うわあああああっ!?」
俺は反射的に後ずさった。
「ご、ごめん! 間違えた!!」
慌てて扉を閉める。
バタンッ!
廊下に取り残された俺は、壁に背中を預けたまま固まっていた。
「……終わった」
心臓が尋常ではない速度で動いている。
いや、違う。
これは俺の人生が終わったという意味だ。
幼馴染の陽菜。
気高いお嬢様の麗華。
大人しい栞。
その三人が同時にいる場所へ、何も知らずに入ってしまった。
しかも、着替えの最中に。
「……じいちゃん。俺、今日こそ本当に助けてほしい」
水原健司の言葉が脳裏に浮かんだ。
別人のふりをするのはいい。だが、自分まで別人になるな。
……いや、今はそんな哲学的なことを考えている場合じゃない。
俺はただ、ひたすらに後悔していた。
数分後。
脱衣所の扉が開いた。
「蓮」
麗華の声がした。
その声は、普段よりもずっと低かった。
俺は背筋を伸ばした。
「は、はい!」
扉の向こうから三人が現れる。
陽菜は顔を真っ赤にしていて、麗華は腕を組みながら俺を睨んでいた。栞は二人の後ろに隠れるように立っている。
「どういうつもりなのかしら?」
麗華が問いかけた。
「ち、違うんだ! 本当に浴室を探していただけで……!」
「だからって、ノックくらいするでしょう!?」
陽菜が声を上げる。
「そ、それは……!」
「……蓮くん」
栞が小さく口を開いた。
「本当に、わざとじゃないんですよね?」
「もちろんだ!」
俺は即座に答えた。
「本当に何も知らなかった。扉が少し開いていたから、誰もいないと思って……」
「……そうですか」
栞は少しだけ安心したように息を吐いた。
しかし、陽菜はまだ納得していない様子だった。
「でも、蓮くん! これからは絶対にノックしてね!」
「分かった! 絶対にする!」
「本当に?」
「本当だ!」
麗華は小さくため息をついた。
「……まあ、悪意がなかったことは分かったわ」
「麗華……!」
「ただし」
彼女の目が鋭くなる。
「今回の件は、簡単に許すわけにはいかないわね」
「……え?」
嫌な予感がした。
陽菜がにっこりと笑う。
「そうだよね。蓮くんには、ちゃんと反省してもらわなくちゃ」
栞も小さく頷いた。
「……私も、そう思います」
「ま、待ってくれ! 反省ならもう十分している!」
「それとこれとは別よ」
麗華は堂々と言い切った。
俺は思わず頭を抱えた。
「……何をすればいいんだ?」
陽菜は少し考えた後、楽しそうに言った。
「今日は、私たちのお願いを聞いてもらうことにしよう!」
「お願い?」
「うん! せっかくの夏休みだし!」
麗華も頷く。
「もちろん、無理なことをさせるつもりはないわ。ただ、今日一日は私たちに付き合ってもらう」
栞は少し恥ずかしそうに付け加えた。
「……写真を撮るのも、手伝ってほしいです」
「……それだけでいいのか?」
三人は顔を見合わせた。
「うん!」
「ええ」
「……はい」
俺は深く息を吐いた。
「分かった。俺にできることなら、何でもする」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の顔がぱっと明るくなった。
「やったー!」
麗華は満足そうに微笑み、栞も小さく笑った。
……何だか、嫌な予感しかしない。
だが、俺はまだ知らなかった。
この一言が、今日一日をどれほど長いものにするのかを。
◇
一時間後。
俺はリビングにいた。
「蓮くん、こっち!」
陽菜が手を振る。
「まずは、私とカードゲームをしよう!」
「……カードゲーム?」
「そう! 昨日の続き!」
テーブルの上には、すでにカードが並べられていた。
俺が席につくと、陽菜は嬉しそうに笑った。
「今日は絶対に勝つからね!」
「昨日も同じことを言っていた気がするんだが……」
「う、うるさい!」
その後、俺たちはしばらくカードゲームを楽しんだ。
陽菜は負けるたびに悔しそうな顔をするが、最後には笑っていた。
次に、栞の番だった。
「蓮くん、少しだけお願いしてもいいですか?」
「もちろん」
栞はカメラを取り出した。
「昨日撮った写真を整理したいんです。それで……蓮くんにも、どの写真がいいか選んでほしくて」
「いいぞ」
彼女はカメラの画面を見せてくれた。
そこには、海辺で笑う陽菜、少し照れた麗華、そして水をかけられて驚く俺の姿が映っていた。
「……いい写真だな」
「ありがとうございます」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「蓮くんが笑っている写真も、たくさん撮れました」
「俺の写真?」
「……はい」
栞は少しだけ視線を逸らした。
「大切にしたいと思っています」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
最後は麗華だった。
「蓮。少し、テラスまで付き合ってちょうだい」
「分かった」
テラスへ向かうと、海から吹く風が心地よかった。
麗華は手すりに寄りかかり、遠くの海を眺めていた。
「……今日は、随分と騒がしい一日になったわね」
「そうだな。朝から色々あった」
「あなたのせいでしょう?」
「……返す言葉もない」
麗華は小さく笑った。
「でも……」
彼女は少しだけ顔をこちらへ向けた。
「こうして一緒に過ごすのも、悪くないわ」
「麗華……」
「勘違いしないで。別に、特別な意味があるわけじゃないから」
「分かってるよ」
「……本当に?」
彼女は俺を見つめた。
その瞳には、いつもの気高さとは少し違う、柔らかな色が浮かんでいた。
「……ありがとう、蓮」
その声は、風に消えそうなほど小さかった。
俺は微笑んだ。
「こちらこそ」
その日の夕方。
俺たちはリビングに集まり、夕食までの時間をゆっくりと過ごしていた。
陽菜は俺の隣に座り、栞はカメラの写真を整理し、麗華は紅茶を飲んでいる。
朝の騒動が嘘のように、穏やかな時間だった。
……ただし。
「蓮くん」
陽菜が突然、俺の耳元で囁いた。
「明日も、ちゃんとノックしてね?」
「……分かってる」
「ふふっ」
麗華が紅茶のカップを置く。
「当然よ。次に同じことをしたら、もっと厳しい罰を与えるわ」
「……はい」
栞も小さく頷いた。
「……私も、忘れませんから」
「何を!?」
三人が笑った。
俺は深いため息をついた。
この夏、俺は何度こうして彼女たちに振り回されるのだろう。
それでも。
彼女たちの笑顔を見ていると、悪くないと思ってしまう。
……ただ、一つだけ。
これからは、どんな場所であっても。
必ず、ノックをしてから扉を開けよう。
俺は心の底から、そう誓った。




