三人の想い
九条家の夏の別荘で迎える二日目の午後。
女性専用の露天風呂には、柔らかな湯気が立ち上っていた。周囲には自然石が配置され、小さな庭からは涼しげな水音が聞こえてくる。
陽菜、麗華、栞の三人は、ゆっくりと温泉を楽しんでいた。
「はぁ……気持ちいい。こんなところで毎日過ごせたら最高なのに」
陽菜は肩まで湯に浸かり、満足そうに息を吐いた。
「毎日というのは少し贅沢ね。でも、確かに素晴らしい施設だわ」
麗華は目を閉じ、落ち着いた声で答えた。
「……とてもリラックスできます」
栞も小さく頷いた。
しばらくの間、三人は静かな時間を過ごしていた。
しかし、陽菜がふと二人を見比べた。
「ねえ……」
「何かしら?」と麗華が尋ねる。
「私たちって、結構違うよね」
「違う?」
栞が首を傾げた。
陽菜は少しだけ頬を膨らませる。
「ほら……体格とか。麗華ちゃんも栞ちゃんも、私よりずっと大人っぽいじゃない」
「……ああ、そういうことね」
麗華は一瞬だけ言葉に詰まった。
栞も恥ずかしそうに視線を逸らす。
「そ、そんなに気にすることではないと思います……」
「でも、気になるんだもん! 二人と一緒にいると、私だけ子供っぽく見える気がするんだよ!」
陽菜は湯の中で頬を膨らませた。
麗華は小さくため息をつく。
「陽菜。人それぞれ体格は違うものよ。それを比べて落ち込む必要はないわ」
「麗華ちゃんは気にならないの?」
「私自身の外見が、私の価値を決めるわけではないもの」
「……さすが麗華ちゃん」
陽菜は感心したように呟いた。
栞も小さく頷く。
「それに……陽菜さんは笑顔がとても素敵です」
「えっ?」
「蓮くんと一緒にいるとき、陽菜さんはいつも楽しそうです。見ているこちらまで、明るい気持ちになります」
陽菜は目を丸くした。
「……ありがとう、栞ちゃん」
麗華も穏やかに言った。
「あなたにはあなたの魅力があるわ。自信を持ちなさい」
「うん……」
陽菜は少し照れくさそうに笑った。
だが、次の瞬間、彼女の表情が変わった。
「……ねえ。こんな話をしていたら、蓮くんのことを思い出しちゃった」
「蓮のこと?」
麗華が尋ねる。
「うん。昨日、私たちの水着を見て、それぞれ褒めてくれたでしょ?」
栞の頬がほんのり赤くなる。
「……はい」
「私は、あんなふうに褒めてもらえると思っていなかったから、すごく嬉しかった」
陽菜は湯面を見つめた。
「でも、それだけじゃないんだ」
彼女の声が少しだけ真剣になる。
「……私、蓮くんのことが好き」
温泉に静寂が訪れた。
麗華は目を開き、栞も顔を上げる。
「小さい頃からずっと一緒だったけど、最近はそれだけじゃ足りないって思うようになったの」
陽菜は指先を見つめた。
「蓮くんが誰かと楽しそうにしていると、嬉しい。でも、その相手が私じゃないと……少し寂しい」
「陽菜……」
「私は、蓮くんにとって特別な存在になりたい」
その言葉に、栞が静かに頷いた。
「……私も、同じです」
「栞ちゃん?」
栞は少し緊張した様子で、言葉を続けた。
「最初は、蓮くんが優しいから、ただ憧れているだけだと思っていました。でも……一緒にいる時間が増えるほど、もっと話したいと思うようになって」
彼女は小さく息を吸った。
「私の好きなことを、もっと知ってほしい。私のことも、特別に思ってほしい……そう考えるようになりました」
栞の頬が赤く染まる。
「……蓮くんが好きです」
陽菜は優しく微笑んだ。
「そっか……栞ちゃんもなんだね」
麗華は湯面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「……私も、もう隠す必要はないわね」
「麗華ちゃん?」
「蓮は、私にとって大切な存在よ」
麗華は少しだけ視線を逸らした。
「最初は、興味深い人だと思っていた。私の言葉に臆することなく返してくるし、時には腹立たしいほど率直だった」
「ふふっ。それ、麗華ちゃんらしいね」
「陽菜、黙りなさい」
麗華は軽く咳払いをした。
「でも、彼と一緒にいると、無理に自分を飾る必要がないと感じるようになった。私が失敗しても、恥ずかしい思いをしても、彼は私を笑わない」
その声は、いつもより柔らかかった。
「……私も、蓮が好きよ」
陽菜と栞は、静かに彼女を見つめた。
やがて陽菜が微笑む。
「……そっか」
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「ねえ。私たち、どうしよう?」
「どうする、とは?」と麗華。
「三人とも蓮くんが好きなんだよ。これからも、今までみたいに仲良くできるかな?」
栞は少し考えてから答えた。
「……私は、二人と友達でいたいです」
麗華も頷く。
「当然よ。恋愛感情があるからといって、友情を捨てる理由にはならないわ」
陽菜は二人を見つめた。
「私も、そう思う。蓮くんのことは諦めたくない。でも、麗華ちゃんや栞ちゃんと仲良くできなくなるのは嫌」
彼女は小さく笑った。
「だから……三人で頑張らない?」
「頑張る?」
「うん。蓮くんに自分の気持ちを伝えるために。それぞれが、ちゃんと自分の気持ちと向き合うの」
麗華は少しだけ考えた。
そして、手を差し出した。
「……いいわ。ただし、私は簡単には譲らないわよ」
陽菜はその手を握った。
「私だって!」
栞も、少しだけ躊躇ったあと、二人の手に自分の手を重ねた。
「……私も、頑張ります」
三人は顔を見合わせた。
やがて、同時に笑った。
それは、友情と恋心が共存する、新しい関係の始まりだった。
◇
温泉を出た後、三人はそれぞれ部屋へ戻った。
その頃、俺は別荘のテラスにいた。
目の前には、九条浩一さんと美佐さんが座っている。
浩一さんは四十四歳。整った黒髪と落ち着いた瞳を持ち、夏の軽装であっても、どこか威厳を感じさせる男性だった。
隣の美佐さんは、長い青紫色の髪を上品にまとめ、紫色の瞳で穏やかに微笑んでいる。麗華によく似た気品を感じさせる女性だ。
「蓮君」
浩一さんが俺を呼んだ。
「はい、九条さん」
浩一さんは微笑んだ。
「そんなに堅苦しくしなくてもいい。私のことは浩一と呼んでくれて構わないよ」
「……本当ですか?」
「ああ。せっかく一緒に休暇を過ごしているんだからね」
美佐さんが小さく笑った。
「主人は、気に入った相手には意外と親しみやすいんですよ」
「美佐……」
「ふふっ。事実でしょう?」
俺も思わず笑った。
「それでは……浩一さん」
「うん。そう呼んでくれると嬉しいよ」
浩一さんはコーヒーを一口飲んだ。
「ところで、蓮君。麗華はどうかな?」
「麗華ですか?」
「ああ。最近、彼女は君と過ごす時間をとても楽しみにしているようだ」
美佐さんも頷いた。
「以前よりも、表情が柔らかくなった気がします。家ではなかなか見せない笑顔も増えました」
「……そうなんですか」
「ええ。私たちも嬉しく思っています」
俺は少しだけ照れくさくなった。
「麗華は、とても努力家だと思います。でも、時々、自分に厳しすぎるところもありますね」
浩一さんは静かに頷いた。
「そうなんだ。昔から、周囲の期待に応えようとする子だった」
美佐さんは少し寂しそうに微笑んだ。
「完璧であろうとするあまり、無理をしてしまうこともあります。母としては、もっと気楽に過ごしてほしいのですが……」
「麗華は、きっとこれから少しずつ変わっていくと思います」
俺はそう答えた。
浩一さんが興味深そうに俺を見る。
「そう思う理由は?」
「麗華は、自分が信頼している人の前では、少しずつ素直になっているように感じるからです」
美佐さんは優しく微笑んだ。
「……そうですか」
その表情には、母親としての喜びが浮かんでいた。
浩一さんは、しばらく海を眺めた後、口を開いた。
「蓮君。君は将来、どんな道に進みたいと考えているんだい?」
「将来……ですか」
「ああ。高校を卒業した後のことだ」
俺は少し考えた。
「まだ、はっきりとは決まっていません。でも、自分が本当に納得できる道を選びたいと思っています」
「納得できる道?」
「はい。他人の期待だけで決めるのではなく、自分自身の意思で選び、その責任を持てるようになりたいです」
浩一さんは静かに頷いた。
「なるほど。良い考えだね」
美佐さんも微笑む。
「若いうちから、そう考えられるのは素晴らしいことだと思います」
浩一さんはカップを置いた。
「西園寺家のような家庭に生まれると、多くの選択肢が与えられる。しかし、その分、責任も大きくなる。時には、自分の望みだけでは決められないこともある」
「……はい」
「それでも、自分の意思を持つことは大切だ」
浩一さんは俺を見つめた。
「私は、麗華にもそうあってほしいと思っている」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
「麗華なら、きっと大丈夫だと思います」
浩一さんは微笑んだ。
「君がそう言ってくれると、安心するよ」
しかし、次の瞬間。
「蓮君」
「はい?」
浩一さんの表情が少しだけ真剣になった。
「君は、麗華のことをどう思っているんだい?」
俺の心臓が跳ねた。
「……麗華のこと、ですか?」
「そうだ。娘を持つ父親として、少し気になってね」
美佐さんも、静かに俺を見つめていた。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「麗華は、とても素晴らしい人だと思います」
「素晴らしい?」
「はい。努力家で、責任感が強くて……それでいて、優しい人です」
浩一さんは黙って聞いていた。
「時々、少し不器用なところもありますけど……そこも含めて、麗華らしいと思います」
美佐さんの表情が柔らかくなった。
「……嬉しいですね」
浩一さんも、穏やかに笑った。
「ありがとう、蓮君」
俺は少しだけ頭を下げた。
「こちらこそ」
美佐さんは海を眺めながら言った。
「麗華には、これからも自分らしく生きてほしいと思っています。誰かの期待に応えるためだけではなく、自分が幸せだと思える道を選んでほしい」
浩一さんが頷いた。
「そして、その選択を尊重してくれる人がそばにいてくれれば、父親としてこれ以上のことはない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
ただ、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
俺は本当は、西園寺蓮ではない。
水原悠斗だ。
彼らが信頼してくれている相手は、本当の俺ではない。
それなのに、こうして温かい言葉をかけられるたび、俺は彼らとの距離を縮めてしまっている。
……いつか、真実を告げなければならない日が来るのだろうか。
俺は海を眺めながら、静かに息を吐いた。
◇
その夜。
陽菜、麗華、栞の三人は、再び一つの部屋に集まっていた。
「さて……」
陽菜が勢いよく立ち上がる。
「これからどうするか、決めよう!」
「……もう決めたのではなかったかしら?」と麗華。
「そうだけど、具体的な計画を立てたいの!」
栞は小さく頷いた。
「……私も、少し考えていました」
麗華は紅茶のカップを置いた。
「では、一人ずつ蓮と過ごす機会を作りましょう」
「一人ずつ?」
「ええ。最初は陽菜。あなたは幼馴染なのだから、誘いやすいでしょう」
「……確かに!」
陽菜の顔が明るくなった。
「じゃあ、明日は私が蓮くんを誘う!」
栞が少し緊張した様子で尋ねた。
「……その次は?」
「栞よ」と麗華。
「えっ……私?」
「あなたにも、蓮と二人きりで過ごす時間が必要でしょう」
栞は頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「そして、最後は麗華ちゃん!」
「当然よ。私にも機会が必要だもの」
麗華は堂々と答えた。
陽菜は拳を握りしめる。
「よーし! 絶対に負けない!」
栞も小さく頷いた。
「……私も、頑張ります」
麗華は二人を見つめた。
「ただし、一つだけ約束しましょう」
「約束?」
「誰かが蓮と過ごしている間、邪魔をしないこと。そして、結果がどうなっても、私たちの友情を壊さないこと」
陽菜はすぐに頷いた。
「もちろん!」
栞も微笑んだ。
「……はい」
三人は互いに手を重ねた。
「それでは、決まりね」
「うん!」
「……頑張りましょう」
その夜、三人はそれぞれの想いを胸に、明日への期待を膨らませていた。
そして、俺はそのことを何も知らずに、自分の部屋で海を眺めていた。
星が輝く夜空。
静かな波の音。
夏の休暇は、まだ始まったばかりだ。
明日、陽菜が俺を誘いに来ることも。
その後、麗華と栞がそれぞれ特別な時間を作ろうとしていることも。
俺は、まだ知らなかった。




