初めての海とプール
下田の朝は、東京よりもずっと静かだった。
窓の向こうから聞こえてくる波の音と、カーテンの隙間から差し込む柔らかな日差し。目を覚ました俺は、しばらく天井を見つめてから、ゆっくりとベッドを起き上がった。
今日から、本格的に夏の休暇が始まる。
しかも、九条家の別荘で、陽菜や麗華、栞と一緒に過ごすことになるのだ。
「……なんだか、夢みたいだな」
思わず呟いた。
俺は水原悠斗だ。西園寺蓮としてここにいることを、決して忘れてはいけない。
それでも、この夏の時間を楽しみにしている自分がいる。
少しだけ複雑な気持ちを抱えながら、俺は着替えを済ませて部屋を出た。
別荘のダイニングには、すでに陽菜がいた。
「蓮、おはよう!」
明るい声とともに、彼女が手を振る。
「おはよう、陽菜。早いな」
「だって、今日は海に行くんでしょ? 楽しみすぎて、あんまり眠れなかったんだもん」
陽菜は頬を緩めながら、テーブルに並べられた朝食を眺めていた。
その隣では、麗華が紅茶を飲んでいる。
「おはよう、蓮。朝から騒がしいわね」
「おはよう、麗華。楽しみにしているのは麗華も同じだろ?」
「べ、別に……。夏の海を楽しむのは、当然のことよ」
彼女はカップを置き、ほんの少しだけ視線を逸らした。
その仕草を見ていると、つい笑いそうになる。
「栞は?」
「……お、おはようございます」
声のした方を見ると、栞が少し遅れてダイニングに入ってきた。
いつものように控えめな様子だったが、今日はどこか落ち着かない。
「おはよう、栞。眠れたか?」
「は、はい。大丈夫です。今日は……その、海なので」
「栞も楽しみなんだな」
「……はい」
小さく頷いた彼女の頬が、ほんのり赤くなった。
朝食を終えると、俺たちはそれぞれ水着に着替えるため、部屋へ戻った。
そして、しばらくしてから別荘のプールサイドに集合することになった。
先に到着した俺は、濃い色の水着に着替え、肩に薄手のシャツを掛けていた。
青く澄んだプールの水面が、朝の光を反射している。
その向こうには、下田の海が広がっていた。
「蓮くーん!」
最初にやってきたのは陽菜だった。
淡い水色のビキニに、白い小さなリボン。夏らしい爽やかなデザインで、彼女の明るい雰囲気によく似合っていた。
陽菜は少し恥ずかしそうにしながら、俺の前でくるりと一回転した。
「ど、どうかな?」
「うん。すごく似合ってる。陽菜らしくて、可愛いと思う」
「……っ!」
陽菜の顔が一瞬で真っ赤になった。
「か、可愛いって……蓮くん、いきなりそんなこと言わないでよ!」
「本当のことを言っただけだぞ?」
「そ、そういうところが……!」
陽菜は両手で顔を覆いながら、嬉しそうに笑った。
その反応を見ていると、こちらまで照れくさくなる。
「お待たせしたわね」
次に現れたのは麗華だった。
深い紫色のビキニは、華やかさを抑えた上品なデザインだった。長い青黒い髪はいつものように整えられ、編み込まれた部分には金色の花飾りが揺れている。
彼女は少しだけ顎を上げ、堂々とした態度を保っていた。
「どうかしら?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……綺麗だな」
「えっ?」
「麗華に似合ってる。上品で、すごく綺麗だと思う」
「な……っ!」
麗華の頬が赤く染まった。
「そ、そんな簡単に褒めないでちょうだい! 心の準備というものがあるでしょう!」
「褒められるのが嫌だったか?」
「嫌なわけないでしょう!」
言い切った直後、麗華は自分の言葉に気づいたように口を閉じた。
陽菜が目を輝かせる。
「麗華ちゃん、今のすっごく可愛かった!」
「陽菜、余計なことを言わないで!」
麗華は顔を背けたが、その耳まで赤くなっていた。
最後に、栞がゆっくりとプールサイドへやってきた。
紺色のシンプルなビキニに、薄い白の羽織り。短い黒髪が夏の風に揺れている。
彼女は俺たちの視線に気づくと、少しだけ肩を縮めた。
「……あの。お、お待たせしました」
「おはよう、栞」
「お、おはようございます……」
栞は落ち着かない様子で、羽織りの端を握っていた。
「その水着、栞に似合ってるよ。落ち着いた色で、可愛いと思う」
「……え?」
彼女の目が大きく開かれた。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。本当だ」
「……ありがとうございます」
栞は顔を伏せた。
その頬は、今まで見たことがないほど赤くなっていた。
陽菜がそっと栞の肩に手を置く。
「栞ちゃん、よかったね!」
「は、はい……」
「蓮、あなた……」
麗華が俺をじっと見つめる。
「三人とも、同じように褒めるのね」
「似合っていると思ったからな」
「……そう」
麗華は小さく呟いた。
だが、その表情にはどこか満足そうな色が浮かんでいた。
陽菜は嬉しそうに笑い、栞はまだ恥ずかしそうにしている。
それぞれの反応が違うのが、なんだか面白かった。
「よし! それじゃあ、海に行こう!」
陽菜が元気よく声を上げた。
俺たちは別荘の敷地を出て、すぐ近くの海岸へ向かった。
砂浜に足を踏み入れた瞬間、潮の香りが鼻をくすぐる。
白い砂浜と、どこまでも続く青い海。
東京では決して見られない景色だった。
「わあ……!」
陽菜が目を輝かせた。
「すごく綺麗!」
「本当に……」
栞も海を眺めながら、小さく息を吐いた。
麗華は少しだけ微笑み、髪を風に揺らしている。
「こういう場所で過ごす夏も、悪くないわね」
「そうだな」
俺も頷いた。
波打ち際へ近づくと、陽菜が突然こちらを振り返った。
「蓮くん、競争しよう!」
「競争?」
「どっちが先に海に入れるか!」
「おい、待てって!」
俺が言い終える前に、陽菜は駆け出した。
水しぶきを上げながら海へ飛び込む。
「やったー!」
その笑顔につられて、俺も海へ入った。
冷たい水が足元を包み込む。
「気持ちいいな……」
「でしょ!」
陽菜が笑いながら、両手で水をすくった。
次の瞬間。
バシャッ!
「うわっ!」
水が俺の顔に飛んできた。
「陽菜!」
「えへへ、先制攻撃!」
「やったな!」
俺も水をすくって彼女に返す。
「きゃあっ!」
陽菜は笑いながら逃げ回った。
その様子を見ていた麗華が、呆れたように息を吐く。
「まったく……子供みたいね」
「麗華も入ればいいだろ?」
「言われなくても入るわよ」
彼女は波打ち際まで歩いてきた。
その足が水に触れた瞬間、少しだけ表情が緩む。
「……冷たくて、気持ちいいわね」
「だろ?」
麗華は俺を見た。
「ただし、私に水をかけたら許さないわよ」
「それはフリか?」
「違うわ!」
その直後、陽菜が麗華の背後から水をかけた。
「きゃっ!」
「陽菜……!」
「ご、ごめん! つい!」
麗華は一瞬呆然としたが、やがて目を細めた。
「……なるほど。そういうことね」
彼女は水をすくい、陽菜へ向けて投げ返した。
「きゃああっ!」
海辺は一気に騒がしくなった。
栞は少し離れた場所で、その様子を眺めていた。
「栞、こっちに来ないか?」
「えっ……私も、ですか?」
「もちろん」
俺が手を差し出すと、栞は少し迷ってから、その手を取った。
波が足元に寄せてくる。
「……冷たいですね」
「最初だけだよ」
「……そうですね」
栞は小さく笑った。
その瞬間、陽菜がこちらへ近づいてきた。
「栞ちゃんも一緒に遊ぼう!」
「えっ、あの……」
陽菜が水をすくう。
「それっ!」
「きゃっ!」
栞の肩に水がかかった。
栞は驚いた顔をしたあと、少しだけ笑った。
「……陽菜さん」
「えへへ、ごめんね!」
栞もそっと水をすくい、陽菜へ投げ返す。
「……えい」
「きゃあっ! 栞ちゃん、やったなー!」
いつの間にか、俺も麗華も巻き込まれていた。
四人で水をかけ合いながら、笑い声を響かせる。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
昼が近づくと、俺たちは一度別荘へ戻った。
プールサイドには、冷たい飲み物と軽食が用意されていた。
「はあ……楽しかった!」
陽菜はタオルで髪を拭きながら、満足そうに笑った。
「蓮くん、また海で遊ぼうね!」
「ああ。もちろん」
麗華は椅子に腰を下ろし、涼しげな飲み物を口にした。
「……思ったより、楽しかったわ」
「麗華も?」
「ええ。たまには、こういうのもいいものね」
栞はカメラを手にしていた。
「海の写真、たくさん撮れました。皆さんの笑顔も……」
「見せてくれよ」
「はい」
栞がカメラの画面を見せてくれた。
そこには、海辺で笑う陽菜、少し照れた麗華、そして水をかけられて驚く俺の姿が映っていた。
「……いい写真だな」
「ありがとうございます」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
午後は別荘のプールで過ごすことになった。
海とは違い、波がない静かな水面。
陽菜は浮き輪を使って楽しそうに泳ぎ、麗華はプールサイドでゆっくりと足を水につけていた。
栞は水に慣れるまで、浅い場所で静かに過ごしている。
「蓮くん!」
陽菜が浮き輪から顔を出した。
「こっちに来て!」
「どうした?」
「一緒に泳ごうよ!」
俺がプールに入ると、陽菜は嬉しそうに笑った。
「やっぱり、蓮くんと一緒だと楽しいね」
「俺も楽しいよ」
「……本当?」
「ああ」
陽菜は少しだけ頬を赤くした。
その様子を見ていた麗華が、咳払いをする。
「……蓮。こちらにも来なさい」
「麗華?」
「別に、何か用があるわけではないけれど……。せっかくの休暇なのだから、全員で過ごすべきでしょう?」
「そうだな」
俺が麗華の近くへ移動すると、彼女は少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
栞もプールの浅い場所から、そっとこちらを見ていた。
「栞も、こっちに来るか?」
「……はい」
彼女はゆっくりと近づいてきた。
俺たち四人は、プールの中で並んだ。
陽菜が笑い、麗華が呆れたように微笑み、栞が静かに頷く。
その光景を見ていると、不思議な気持ちになった。
俺は本当は、ここにいるべき人間ではない。
西園寺蓮の代わりとして、彼女たちと過ごしている。
それなのに。
彼女たちの笑顔を見るたびに、胸の奥が温かくなる。
この時間を失いたくない。
そんな気持ちが、少しずつ強くなっていた。
「蓮くん?」
陽菜が俺の顔を覗き込む。
「どうしたの? ぼーっとして」
「……いや。何でもない」
「そっか」
陽菜は笑った。
「じゃあ、もう一回遊ぼう!」
「えっ、まだやるのか?」
「もちろん!」
彼女が水をすくう。
「それっ!」
「うわっ!」
また水しぶきが上がった。
麗華が笑い、栞も小さく声を上げる。
夏の空は、どこまでも青かった。
この夏が終わる頃、俺はどんな気持ちで東京へ戻るのだろう。
まだ、その答えは分からない。
ただ今は。
この眩しい時間を、彼女たちと一緒に過ごしたかった。




