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下田への旅の始まり

夏休み初日の朝。


東京の空は晴れ渡り、夏の日差しが西園寺家の屋敷を照らしていた。


玄関前には、悠斗の小さな旅行用のバッグが置かれている。


「蓮様、お荷物の確認はお済みでしょうか?」


徹が尋ねる。


「うん。必要なものは全部入れたよ」


悠斗はバッグを持ち上げ、軽く肩に掛けた。


今日は九条家の夏の別荘がある下田へ向かう日だ。


九条家が用意した専用の車が、悠斗を迎えに来ていた。


「それでは、空港までお送りいたします」


「ありがとう、徹」


悠斗は車に乗り込む前に、スマートフォンを取り出した。


そして、祖父の健司に電話をかける。


「もしもし、じいちゃん。今から出発するよ」


『おお、いよいよか。夏休みを楽しんでこいよ』


「うん。下田の別荘で何日か過ごす予定なんだ」


『そうか。しっかり休んで、ちゃんと飯も食べるんだぞ』


「分かってるよ」


少しだけ沈黙が流れた。


『悠斗』


「ん?」


『蓮の代わりをするのはいい。だが、自分まで別人になるな。せっかくの休みなんだ。お前自身も楽しんでこい』


悠斗は静かに目を伏せた。


「……ありがとう、じいちゃん」


『気をつけてな』


「うん。着いたら連絡するよ」


電話を切った悠斗は、スマートフォンをポケットにしまった。


徹が穏やかに尋ねる。


「お祖父様とのお電話ですか?」


「うん。楽しんでこいって」


「それは何よりでございます」


悠斗は小さく笑った。


「じゃあ、行ってくるよ」


「いってらっしゃいませ、蓮様」


徹に見送られ、悠斗は車に乗り込んだ。


車は静かに走り出し、九条家が用意した専用空港へと向かっていった。


***


東京の喧騒から離れた専用空港。


そこには、すでに一機のプライベートジェットが待機していた。


悠斗が車から降りると、すぐに明るい声が響いた。


「蓮くん!」


振り返ると、陽菜が駆け寄ってきた。


白地に小さな花柄が散りばめられたワンピースを着ており、長い明るい茶色の髪が風に揺れている。


「おはよう、陽菜」


「おはよう! やっと旅行が始まるね!」


陽菜は嬉しそうに笑った。


「うん。楽しみだな」


「私も! 海も見たいし、別荘も楽しみだし……それに、蓮くんと一緒だし!」


最後の言葉を口にした瞬間、陽菜は自分の発言に気づき、頬を赤くした。


「……えへへ」


悠斗は少し困ったように笑った。


「そうだね。みんなで楽しもう」


その直後、落ち着いた声が聞こえてきた。


「陽菜、朝からずいぶんと元気ですわね」


九条麗華が姿を現した。


淡いラベンダー色のワンピースを身にまとい、長い青みがかった黒髪を上品に整えている。


「おはよう、麗華」


「おはよう、蓮」


麗華は悠斗に向かって微笑んだ。


その表情は普段と変わらず優雅だったが、ほんの少しだけ頬が赤くなっていた。


陽菜はそれを見逃さなかった。


「麗華ちゃん、蓮くんを見て嬉しそうだね?」


「なっ……! そ、そんなことありませんわ!」


「本当かなぁ?」


「陽菜!」


悠斗は二人のやり取りを見て、思わず笑った。


「二人とも、まだ飛行機に乗る前だよ?」


「蓮くんはどちらの味方なの!?」


「えっ?」


陽菜の突然の質問に、悠斗は困惑した。


麗華もわずかに身を乗り出す。


「蓮、正直に答えてくださいませ」


「いや、どちらの味方というわけでも……」


「ふーん」


「……そうですの」


二人の声が同時に少しだけ低くなった。


悠斗は心の中で呟いた。


(旅行が始まる前から、これなのか……)


***


少し遅れて、栞が両親とともに到着した。


首から小さなカメラを下げ、白いブラウスと涼しげなスカートを着ている。


「蓮くん……おはよう」


「おはよう、栞」


栞は少し緊張した様子で頭を下げた。


「無事に着いてよかった……」


「ありがとう。栞も準備は大丈夫?」


「うん。カメラも予備のバッテリーも持ってきたよ」


陽菜が嬉しそうに近づく。


「栞ちゃん、旅行中にたくさん写真を撮ろうね!」


「う、うん。みんなの写真も撮りたいな」


麗華が腕を組む。


「蓮の写真ばかり撮るのは控えてくださいませ」


栞は思わずカメラを握りしめた。


「……そんなつもりじゃ」


「麗華ちゃんだって、蓮くんの写真が欲しいんじゃないの?」


「陽菜!」


悠斗は苦笑した。


「写真なら、みんなで撮ればいいんじゃないかな」


三人の少女は一瞬、顔を見合わせた。


「……それもそうね」


「うん!」


「……そうだね、蓮くん」


それぞれの表情に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。


***


搭乗前、九条家の両親と西園寺家の両親が若者たちを見送っていた。


九条家当主の光一が穏やかに告げる。


「皆、準備はいいかな?」


「はい、お父様」


麗華が答える。


陽菜と栞も頷いた。


「蓮くん、楽しんできてね」


西園寺葵が微笑む。


「はい。ありがとうございます、お母様」


悠斗は西園寺雅宏に向かって頭を下げた。


「お父様も、お見送りありがとうございます」


「うむ。皆と仲良く過ごすんだぞ」


「はい」


美沙は麗華に優しく声を掛けた。


「麗華、皆さんに迷惑をかけないようにね」


「分かっていますわ、お母様」


陽菜の母親も笑顔で言った。


「陽菜、楽しんできなさい」


「うん!」


栞の母親は娘のカメラを見て微笑んだ。


「栞、たくさん思い出を残してきてね」


「……うん、お母さん」


若者たちは搭乗口へ向かった。


***


プライベートジェットの内部は、落ち着いた雰囲気に包まれていた。


広々とした座席と大きな窓。


悠斗は窓際の席に腰を下ろした。


その隣には陽菜が座っている。


「蓮くん、隣でよかった!」


「そうだね」


陽菜は満面の笑みを浮かべた。


通路を挟んだ向かい側には麗華が座り、栞は窓際でカメラを手にしていた。


「栞、窓の外を撮影するの?」


麗華が尋ねる。


「うん。空からの景色を撮ってみたくて」


「いいですわね。私も後で見せてくださいませ」


「うん」


やがて、飛行機はゆっくりと滑走路を進み始めた。


陽菜が悠斗の袖を軽く引く。


「蓮くん、もうすぐ離陸だよ!」


「うん。シートベルトを確認しておこう」


「もうしてるよ!」


陽菜は得意げに胸を張った。


飛行機が加速する。


窓の外の景色が流れ、やがて機体が空へと舞い上がった。


東京の街並みが少しずつ遠ざかっていく。


「わあ……!」


陽菜が窓の外を見つめる。


栞もカメラを構えた。


「……綺麗」


麗華は静かに景色を眺めていた。


悠斗も窓の外に目を向ける。


青い空と広がる海。


その景色を見ていると、胸の中にあった緊張が少しずつほどけていくようだった。


「……いい景色だな」


陽菜が悠斗を見た。


「蓮くん、楽しんでる?」


「ああ。こうして皆と旅行するのは楽しいよ」


その言葉に、陽菜の頬が赤くなった。


麗華もそっと視線を向ける。


栞はカメラを下ろし、小さく微笑んだ。


***


しばらくして、飛行機は伊豆大島の空港へと着陸した。


乗客たちが降りると、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。


「わあ! 海の空気だ!」


陽菜が嬉しそうに両腕を広げる。


栞は周囲の景色をカメラに収めた。


麗華は髪を軽く整えながら、待機している車へと視線を向ける。


そこには、長く優雅な黒い高級車が停車していた。


運転手が一行に向かって丁寧に頭を下げる。


「皆様、お待ちしておりました。下田の別荘までお送りいたします」


「ありがとう」


麗華が答えた。


陽菜は車を見上げる。


「すごい……! こんなに大きな車、初めて見たよ!」


「全員が乗れるように手配したのですわ」


麗華は少し誇らしげに言った。


「さすが麗華ちゃん!」


「当然ですわ」


悠斗は苦笑しながら車に乗り込んだ。


車内は広く、ゆったりとした座席が並んでいた。


陽菜は悠斗の隣に座り、栞は窓際の席に腰を下ろす。


麗華は向かい側に座った。


荷物が積み込まれると、車は静かに走り始めた。


***


伊豆の海岸沿いを走る道路。


窓の外には青い海が広がり、緑豊かな山々が続いていた。


栞はカメラを構え、次々と景色を撮影していた。


「……本当に綺麗」


「栞、いい写真が撮れた?」


悠斗が尋ねる。


「うん。蓮くんにも後で見せるね」


「楽しみにしてるよ」


栞の頬がほんのり赤くなった。


陽菜は窓の外を指差す。


「蓮くん! あそこ、海がすごく綺麗だよ!」


「本当だ」


「早く泳ぎたいなぁ!」


麗華が呆れたように言う。


「陽菜、別荘に着く前からはしゃぎすぎですわ」


「だって楽しみなんだもん!」


「……まったく」


しかし、麗華の口元にも小さな笑みが浮かんでいた。


悠斗は三人の様子を見ながら、心の中で呟いた。


(賑やかな旅行になりそうだな)


それは、間違いなく楽しい予感だった。


やがて車は海岸沿いの道を抜け、緑に囲まれた静かな場所へと進んでいく。


その先には、九条家の夏の別荘が待っていた。


夏の思い出は、まだ始まったばかりだった。

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