期末試験の始まり
月曜日の朝。
私立星嶺学園は、いつもより静かな雰囲気に包まれていた。
生徒が少ないわけではない。むしろ、いつもと変わらない人数が登校している。
ただ、ほとんどの生徒が参考書を開いていたり、友人同士で問題を出し合っていたりして、普段のような賑やかな会話が少なくなっていた。
今日から、前期の期末試験が始まるのだ。
悠斗は昇降口の前で、試験に必要な筆記用具をもう一度確認していた。
「蓮」
声をかけられて振り返ると、陽菜が小さなファイルを抱えて近づいてきた。
「おはよう、陽菜」
「おはよう。いよいよ試験だね」
「そうだな。準備はできたか?」
「うーん……まあまあかな」
陽菜はいつものように笑っていたが、少し緊張しているようだった。
「昨日も遅くまで復習していたんだけど、予想していなかった問題が出たらどうしようって考えちゃって」
「それは誰にでもあることだよ」
「蓮も?」
「もちろん。俺だって全部の問題を予測できるわけじゃないからな」
陽菜は少し安心したように笑った。
「そっか。蓮も同じなんだね」
「ああ。でも、今まで勉強してきたことを信じて、落ち着いて解けばいいと思う」
「うん! 二人とも頑張ろうね!」
陽菜は小さく拳を握った。
そのとき、廊下の向こうから麗華が歩いてきた。
「おはよう」
「おはよう、麗華」
「もう復習は終わったの?」
麗華は手に持っていたノートを閉じながら尋ねた。
「一通りはね。でも、最後まで確認しておきたいところがいくつかあるわ」
「さすが麗華。やっぱり余裕そうだね」
「余裕というわけではないわ。ただ、必要だと思うことは一通り準備しただけよ」
陽菜は小さく息を吐いた。
「私も麗華みたいに自信を持てたらいいのに」
「私と比べる必要はないわ。大切なのは、焦って普段なら解ける問題を間違えないことよ」
麗華はそう言ってから、悠斗へ視線を向けた。
「蓮も同じよ。落ち着いて取り組みなさい」
「分かった。ありがとう」
「……健闘を祈っているわ」
「麗華もな」
一瞬だけ視線が重なり、麗華はすぐに顔をそらした。
「じゃあ、教室に行きましょう」
陽菜に促され、三人は一年一組の教室へ向かった。
試験開始の時間が近づいていた。
最初の科目は数学だった。
教師が問題用紙を配り終えると、教室は完全な静寂に包まれた。
悠斗は机の上に置かれた問題用紙を見つめた。
代数、関数、そして応用問題。
見覚えのある形式もあれば、少しひねられた問題もある。
悠斗は一度、深く息を吸った。
焦る必要はない。
これまで麗華に教えてもらった解法。陽菜と一緒に練習した問題。栞と確認した計算の手順。
その一つ一つを思い出しながら、最初の問題に取りかかった。
まずは確実に解ける問題から進める。
難しい問題は後回しにして、最後にもう一度考えればいい。
途中、以前にも見たことのある形式の問題が出てきた。
ただし、練習したものとまったく同じではない。
悠斗は数秒考えたあと、栞が説明してくれた解き方を思い出した。
最初から答えを求めようとするのではなく、手順を分けて考える。
一つずつ式を書き、途中の計算を確認する。
やがて、答えが導き出された。
悠斗は念のため計算を見直してから、次の問題へ進んだ。
そして、試験終了を告げるチャイムが鳴る。
「そこまで。筆記用具を置いてください」
教師の指示に従い、悠斗はペンを置いた。
問題用紙を回収してもらったあと、ようやく肩の力が抜けた。
教室を出ると、廊下で匠が待っていた。
「蓮!」
「どうだった?」
匠は両手で頭を抱えた。
「最後の問題だよ! 最後の問題!」
「解けなかったのか?」
「いや、解けたんだけど……本当に合っているのか分からないんだ!」
「それなら、結果を待つしかないな」
「そんな冷静なことを言わないでくれ! 今は安心できる言葉が欲しいんだ!」
悠斗は苦笑した。
そこへ陽菜もやってきた。
「二人とも、もう終わったの?」
「ああ。数学は終わったよ」
「どうだった?」
「難しい問題もあったけど、何とか解けたと思う」
「よかった! 私も最後の問題まで解けたよ」
陽菜はほっとしたように笑った。
その言葉を聞いた匠は、ゆっくりと顔を伏せた。
「……もう数学の話はやめよう」
「どうして?」
「これ以上聞いていると、精神的なダメージが増えるからだ」
陽菜がくすくすと笑った。
その直後、麗華も廊下へ出てきた。
「もう答え合わせをしているの?」
「いいえ。匠が少し落ち込んでいるだけです」
陽菜が答える。
「そう。試験が終わったばかりなのだから、今は気にしても仕方ないでしょう」
「麗華まで正論を言うのか……」
匠が肩を落とした。
「次の試験に備えたほうが建設的よ」
「分かってるよ!」
悠斗はそんな二人のやり取りを見ながら笑った。
最初の試験は終わった。
まだ残りの科目はあるものの、最も心配していた数学を無事に終えられたことに、少しだけ安心していた。
その後も、試験は順調に進んでいった。
二日目には英語と歴史。
三日目には理科をはじめとする科目が続いた。
悠斗は毎回、落ち着いて問題に取り組むよう心がけた。
すべての問題を簡単に解けたわけではない。
それでも、分からない問題に必要以上に時間をかけず、解ける問題から確実に進めることができた。
休み時間には、陽菜がよく声をかけてきた。
「蓮、さっきの英語の問題はどうだった?」
「長文は少し難しかったけど、何とか最後まで読めたよ」
「よかった。私も同じところで少し悩んじゃった」
麗華は残りの試験科目について確認し、必要な資料を整理していた。
匠は相変わらず大げさに苦戦を訴えていたが、それでも毎回最後まで問題に取り組んでいた。
そして、栞も自分の試験に集中していた。
ある日の試験終了後、悠斗は電子工作部の部室に立ち寄った。
栞は帰り支度をしているところだった。
「こんにちは、栞」
「蓮くん。今日の試験はもう終わったの?」
「ああ。栞もか?」
「うん。私も今日は全部終わったよ」
「どうだった?」
栞は少し考えてから答えた。
「悪くなかったと思う。少し考えなければならない問題もあったけど、何とか解けたから」
「それならよかった」
「蓮くんは?」
「俺も大丈夫だと思う。結果が出るまでは分からないけどな」
栞は小さく笑った。
「私たち、同じことを言っているね」
「そうだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあと、栞は机の上に置かれた小さなロボットへ視線を向けた。
「試験が終わったら、新しい計画を始めたいと思っているの」
「前に話していた新しいシステムか?」
「うん。小型の車両を、もっと正確に制御できるようにしたいの。まだ実現できるか分からないけど、いくつか試してみたい方法があるんだ」
「面白そうだな」
「必要な部品がそろうかどうかも確認しないといけないけどね」
栞は少し楽しそうに話した。
「夏休み中に、少しずつ試してみるつもり」
「それなら、かなり忙しくなりそうだ」
「うん。でも、少しくらいは休むつもりだよ」
栞はそこで一度言葉を切った。
「それに……蓮くんと話す時間も欲しいし」
悠斗は彼女を見た。
「もちろん。時間があれば、また話そう」
「……うん」
栞は小さくうなずいた。
その表情には、どこか嬉しそうな色が浮かんでいた。
二人は少しだけ雑談を交わしたあと、それぞれ帰り支度を始めた。
「明日の最後の試験も頑張ってね、蓮くん」
「ありがとう。栞もな」
「うん。また明日」
悠斗は部室を出た。
試験が終われば、また新しい活動が始まる。
そう考えると、残りの試験も頑張ろうという気持ちになれた。
そして、試験最終日。
最後の試験が終わり、終了を告げるチャイムが鳴った瞬間、教室には安堵の声が広がった。
机に突っ伏す生徒もいれば、友人と顔を見合わせて笑う生徒もいる。
匠はその中でも、ひときわ大きな声を上げていた。
「終わったあああ!」
両手を高く掲げ、まるで大きな勝負に勝ったかのように喜んでいる。
悠斗は筆記用具を片づけながら笑った。
「そんなに嬉しいのか?」
「当たり前だろ! 俺はこの一週間を生き延びたんだぞ!」
「まだ結果が残っているけどな」
「今はその話をするな!」
陽菜が二人のそばにやってきた。
「二人とも、お疲れさま!」
「陽菜もお疲れ」
「これでようやく終わったね」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「残るのは結果発表と、学期末の行事くらいかな」
「そうだな」
麗華も近づいてきた。
「とりあえず、試験が終わってよかったわ。これからは前期の残りの活動に集中できるわね」
陽菜が首を傾げる。
「麗華は少し休まないの?」
「もちろん休むわよ。ただ、次の学期に向けて確認しておきたいこともあるから」
匠が信じられないという顔をした。
「試験が終わったばかりなのに、もう次の学期の話か……」
「復習することに問題はないでしょう?」
「俺とは住んでいる世界が違う気がする」
「大げさね」
悠斗は笑った。
「今日は勉強のことを忘れて、少しくらい楽しもうよ」
「それだ!」
匠がすぐに反応した。
「蓮、ようやく分かってくれたか!」
陽菜も嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、みんなで何か食べに行かない? 試験が終わったお祝いに!」
「いいわね。今日は特に予定もないし」
麗華も同意した。
「俺も行く! 甘いものが食べたい!」
匠が勢いよく手を挙げた。
「それなら、みんなで行こう」
悠斗がそう言うと、四人は教室を出た。
久しぶりに、試験のことを忘れて過ごせる時間だった。
その日の夕方。
悠斗は西園寺家の車に乗り込み、窓の外を眺めていた。
七月の空はよく晴れており、柔らかな日差しが街並みを照らしている。
期末試験は終わった。
残るのは結果発表と、前期を締めくくるいくつかの行事だけだ。
悠斗は座席に身を預け、目を閉じた。
「お疲れのようですね、蓮様」
向かいに座っていた徹が、穏やかに声をかけた。
「少しだけね。でも、何とか終わったよ」
「それは何よりでございます。この数週間、ずいぶんと努力なさっていましたから」
「まだ結果が出ていないけどな」
「結果は大切ですが、そこに至るまでの努力もまた大切なものです」
悠斗は小さく笑った。
「ありがとう、徹」
徹は静かに一礼した。
車はそのまま西園寺家の屋敷へと向かっていく。
悠斗は再び窓の外を眺めた。
ようやく、勉強から少しだけ解放された。
もうすぐ前期が終わり、夏休みが始まる。
学校で過ごす日々から一度離れ、今までとは違う時間を過ごせるかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と期待が膨らんできた。
しかし、彼はまだ知らなかった。
その夏休みに向けて、すでに一人の少女が動き始めていることを。
九条麗華。
彼女の胸の中には、はっきりとした願いがあった。
今年の夏は、蓮と一緒に過ごしたい。
そのために、彼女は近いうちに一つの決断をすることになる。
けれど、その誘いを口にするまでには、もう少しだけ勇気が必要だった。




