試験前のプレッシャー
月曜日の朝。
私立星嶺学園の空気は、少しずつ変わり始めていた。
期末試験まで、残り二週間を切った。
まだ時間はあるものの、生徒たちは以前よりも真剣に授業へ取り組むようになり、休み時間には参考書を開いたり、友人同士で問題を出し合ったりする姿が目立つようになっていた。
一年一組でも、それは同じだった。
「嘘だろ……」
藤沢匠は手元の問題集を見つめ、絶望したような声を漏らした。
隣の席で参考書を読んでいた悠斗が顔を上げる。
「どうしたんだ?」
「覚えなきゃいけない公式が、俺の記憶容量を超えていることに気づいた」
「勉強を始めたばかりで、もう限界なのか?」
「違う! これは人間の記憶能力に対する挑戦なんだ!」
「大げさだな……」
悠斗は苦笑した。
文化交流祭が終わってから、彼は少しずつ試験勉強を進めていた。
徹の助言どおり、毎日取り組む内容を細かく分け、間違えた問題を記録しておく。苦手な分野を一度に克服しようとするのではなく、一つずつ確実に理解していく方法だ。
そのおかげで、以前よりも勉強が進めやすくなっていた。
「昨日の復習はどうだった?」
悠斗が尋ねると、匠は机に突っ伏した。
「その話はやめてくれ……」
「そんなにひどかったのか?」
「解答を見れば分かるんだ。解説を読めば理解できる。なのに、いざ自分で解こうとすると答えが出てこない!」
「それは解けるようになったとは言わないな」
「分かってるよ! だから困ってるんだ!」
匠が勢いよく顔を上げた。
悠斗は笑いながら、彼の問題集を指さした。
「昼休みに一緒に見てみるか? まずは自分で解いてみて、どこで分からなくなるのか確認しよう」
「本当か!?」
「その代わり、最初から答えを教えるつもりはないぞ」
「構わない! 俺は自分の力で未来を切り開く!」
「さっきまで絶望していた人間とは思えないな」
「希望が見えたからな!」
匠は拳を握りしめた。
そんな二人のやり取りを聞いて、陽菜が近づいてきた。
「何の話をしているの?」
「匠の数学を救済する計画だよ」
「なるほど。じゃあ、私もお昼休みに問題を持ってくるね。蓮の復習にも使えると思うし」
「ありがとう、陽菜。助かるよ」
「えへへ。どういたしまして!」
陽菜は嬉しそうに笑った。
そこへ、落ち着いた声が聞こえてきた。
「まだ数学で苦戦しているのなら、基本的な解法をもう一度確認したほうがいいと思うわ」
九条麗華だった。
彼女は数冊の参考書を抱え、手にしていたプリントを悠斗の机に置いた。
「応用問題は、複数の知識を組み合わせて解くものが多いでしょう? 途中の手順を理解していなければ、簡単な計算でも間違えてしまうわ」
「確かに、そのとおりだな」
悠斗はプリントを受け取った。
「ありがとう、麗華。これも参考にさせてもらうよ」
「どういたしまして。私がまとめたものだから、必要なら使ってちょうだい」
麗華は何でもないことのように答えた。
陽菜が隣からプリントを覗き込む。
「私もノートを貸してあげるよ!」
「ありがとう。陽菜のノートも助かる」
「じゃあ、明日持ってくるね!」
陽菜は満足そうにうなずいた。
その様子を見ていた匠が、悠斗の肩に手を置いた。
「なあ、蓮」
「何だ?」
「お前、恵まれすぎじゃないか?」
「どういう意味だ?」
「成績のいい二人が、わざわざ勉強を手伝ってくれるんだぞ。俺なんて、朝から一人で問題集と戦っているのに!」
「匠も一緒に勉強すればいいじゃない」
陽菜が笑顔で言った。
「もちろん、ちゃんと自分でも努力するんだよ?」
匠は目を見開いた。
「……まだ俺にも希望が残されていたのか」
「最初から残っているわよ」
麗華が冷静に指摘する。
「ただし、勉強する気があるのなら、だけれど」
「あります! ありますとも!」
匠は勢いよく返事をした。
教室に笑い声が広がる。
悠斗はその光景を眺めながら、少しだけ肩の力を抜いた。
一人で勉強していると、どうしても自分の間違いばかりが気になってしまう。
けれど、こうして友人たちと話していると、分からないことを一つずつ解決していけばいいのだと思える。
もちろん、試験に対する不安が消えたわけではない。
西園寺蓮として学校に通っている以上、彼には簡単に失敗できない事情がある。
それでも、少しずつ前へ進めているという実感はあった。
昼休み。
悠斗は電子工作部の部室を訪れていた。
部室では、栞が机に参考書を広げていた。傍らには小さなロボットの部品が並んでおり、彼女は眼鏡をかけて問題集とノートを交互に見ていた。
「こんにちは、栞」
「蓮くん。こんにちは」
栞は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「勉強していたのか?」
「うん。試験までに解いておきたい問題があるから」
悠斗は机の上を見た。
「数学か」
「そう。数学は好きなほうだけど、油断すると計算ミスをするから、今のうちに練習しておきたいの」
「俺も計算ミスには悩まされているよ」
「蓮くんも?」
栞が少し驚いたように目を瞬かせた。
「いつも落ち着いているから、何でも簡単に解けるのかと思っていた」
「そんなことはないよ。苦手なところだってある」
「……そうなんだ」
栞の表情が、わずかに柔らかくなった。
「それなら、一緒に問題を解いてみる? 似た形式の問題をいくつか用意してあるの」
「いいのか?」
「もちろん。誰かと一緒に解けば、自分では気づかなかった間違いを見つけられることもあるから」
悠斗は椅子を引き、栞の向かい側に座った。
二人は参考書を並べ、問題を解き始めた。
栞は落ち着いた口調で解法を説明し、悠斗はそれを聞きながら自分のノートに手順を書き込んでいく。
「……あ、また符号を間違えた」
悠斗は自分の答案を見て、苦笑した。
「ここまでは合っているよ」
栞がノートを指さす。
「だから、あとはこの部分を気をつければ大丈夫」
「本当だ。ありがとう」
「ううん。自分で気づけたのも大きいと思う」
栞は別の問題を差し出した。
「じゃあ、今度はこれを解いてみて。私のノートは見ないでね」
「分かった」
悠斗は問題文を読み、計算を始めた。
途中で何度か考え込んだものの、最後まで自分の力で解き終える。
「……できた」
栞が答案を確認する。
そして、小さくうなずいた。
「正解」
「よし!」
思わず声が大きくなった。
栞は驚いたあと、くすりと笑った。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ。最近、同じような間違いを繰り返していたからな」
「でも、今はちゃんと解けたでしょう?」
「そうだな」
悠斗はもう一度、問題の解法を確認した。
「やっぱり、苦手なところを整理して練習するのが大事なんだな」
「うん。自分がどこで間違えるのか分かれば、対策も立てやすくなるから」
栞はそう言って、参考書を閉じた。
「蓮くんなら、きっと大丈夫だと思う」
悠斗は顔を上げた。
「ありがとう、栞」
「……どういたしまして」
栞は少し照れたように視線を落とした。
机の上に置かれた小さなロボットが、二人の間に静かにたたずんでいる。
悠斗はそれを見て尋ねた。
「そういえば、次のプロジェクトも考えているんだよな?」
「うん。まだ具体的には決まっていないけど、いくつか試してみたいことがあるの」
「試験が終わったら、ぜひ見せてほしいな」
栞は顔を上げた。
「本当に?」
「もちろん。どんなものを作ろうとしているのか、気になるから」
彼女の表情が明るくなった。
「じゃあ、ちゃんと準備しておくね」
少し間を置いてから、栞は小さな声で付け加えた。
「それと……時間があったら、また話をしよう?」
「いいよ」
「電子工作の話だけじゃなくて……普通の話も」
「うん。もちろん」
悠斗が自然に答えると、栞はほんの少し頬を赤くした。
「そ、そう。なら、よかった」
彼女は慌てて参考書を片づけ始めた。
悠斗はその様子を見ながら、穏やかに微笑んだ。
栞との距離も、少しずつ変わってきている。
以前なら、会話のほとんどは電子工作のことだった。
けれど今は、勉強の話をしたり、日常の出来事を話したりすることも増えている。
その変化を、悠斗は素直に嬉しく感じていた。
やがて昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「そろそろ戻らないと」
悠斗が立ち上がる。
「うん。今日はありがとう、蓮くん」
「こちらこそ。おかげでいい復習になったよ」
「試験勉強、頑張ってね」
「栞もな」
悠斗が扉へ向かうと、栞はその背中を見送った。
「……また明日」
小さくつぶやいた声は、閉まりかけた扉の向こうまでは届かなかった。
それから数日間、悠斗は勉強を続けた。
陽菜から借りたノートを使って復習し、麗華がまとめたプリントで応用問題を解く。
分からないところがあれば、先生に質問することもあった。
匠も昼休みになると一緒に勉強するようになり、時には四人で問題を出し合うこともあった。
もちろん、匠が途中で弱音を吐くことは何度もあった。
「もう駄目だ……。俺の頭から公式が逃げていく……」
「逃がさないように復習しなさい」
麗華が即座に答える。
「厳しい!」
「何度も間違えているのだから、繰り返し練習するしかないでしょう?」
「分かってる! 分かってるけど、心が折れそうなんだ!」
「なら、少し休んでから再開すればいいよ」
悠斗がそう言うと、匠は感動したように顔を上げた。
「蓮……お前だけは俺の味方だ!」
「休憩が終わったら、ちゃんと続けるんだぞ」
「……やっぱり味方じゃない!」
陽菜が笑い、麗華も小さく肩を揺らした。
そんなやり取りを繰り返しながら、試験の日は少しずつ近づいていった。
ある日の放課後。
帰り支度をしていた悠斗に、陽菜が声をかけた。
「ねえ、蓮。試験が終わったら、ちゃんと休めそう?」
「そうだな。まずは結果を見てからだけど」
「もう、そんなことばかり考えなくてもいいのに」
陽菜は少し頬を膨らませた。
「前にも言ったでしょう? 試験が終わったら、少しゆっくり過ごそうって」
「ああ。覚えているよ」
「本当?」
「本当だよ」
悠斗が笑うと、陽菜はようやく安心したように微笑んだ。
「よかった。じゃあ、約束だからね」
「うん」
陽菜は満足そうにうなずき、自分の席へ戻っていった。
その直後、麗華が通りかかった。
「蓮。試験前だからといって、根を詰めすぎないようにね」
「心配してくれているのか?」
「当然でしょう。体調を崩したら、勉強した意味がなくなるもの」
「それもそうだな」
「それに、休むことも大切よ」
意外な言葉に、悠斗は少し目を見開いた。
「麗華がそんなことを言うとは思わなかった」
「……私を何だと思っているの?」
「いつでも勉強している人?」
麗華の眉がぴくりと動いた。
「蓮」
「ごめん、冗談だよ」
「本当にもう……」
麗華はため息をついたものの、やがて小さく笑った。
「とにかく、無理はしないこと。分かった?」
「ああ。ありがとう」
悠斗が素直に答えると、麗華は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……どういたしまして」
彼女は視線をそらし、そのまま廊下を歩いていった。
悠斗はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
陽菜も麗華も、以前よりずっと自然に自分を気遣ってくれるようになった。
そして栞も、部活動や勉強を通じて少しずつ心を開いてくれている。
それぞれ違う形ではあるけれど、三人との関係は確実に変化していた。
六月も、もうすぐ終わる。
これから期末試験があり、そのあとには前期の締めくくりが待っている。
まだ乗り越えなければならないことは多い。
それでも、悠斗は以前ほど不安を感じなくなっていた。
自分一人ですべてを完璧にこなす必要はない。
分からないことを学び、間違えたらやり直し、時には誰かの助けを借りればいい。
そうやって一歩ずつ進んでいけばいいのだ。
悠斗は鞄を肩にかけ、夕日に照らされた廊下を歩き始めた。
夏休みまでは、あと少し。
そして、その夏が近づくにつれて、一人の少女の胸の中では、ある計画が少しずつ形になり始めていた。




