勉強会は誘惑だらけ
水曜日の放課後。
悠斗は机の上に積み上げられた参考書を前に、深いため息をついていた。
数学、英語、歴史、そして理科。
決して山のように高いわけではない。けれど、今の彼にとっては、それらすべてが乗り越えなければならない壁のように見えていた。
「……さすがに多すぎないか、これ」
悠斗は手にしていたペンを机に置いた。
以前の自分なら、こんな環境で勉強することになるとは想像もしなかっただろう。
裕福な家庭の屋敷で、専用の勉強部屋を使い、名門校の試験対策に追われる。
人生とは本当に分からないものだ。
「どうかなさいましたか、蓮様?」
ちょうど紅茶を運んできた徹が、机の上を見て尋ねた。
「そんなに分かりやすい?」
「廊下にいても、ため息が聞こえてまいりました」
「それは困ったな……」
「いえ、試験までに終わるかどうかという点では、こちらの参考書のほうが心配ですが」
徹は穏やかな表情で紅茶を置いた。
悠斗は恨めしそうに彼を見上げる。
「徹、どっちの味方なんだ?」
「もちろん、蓮様の学業を応援する側でございます」
「つまり、勉強しろってことか」
「ご理解が早くて助かります」
「少しは優しくしてくれてもいいだろ……」
悠斗は紅茶を一口飲み、机の上の参考書へ視線を戻した。
「……蓮として、周りの期待に応えたいんだ。でも、全部を完璧にこなそうとすると、どこから手をつければいいのか分からなくなる」
ぽつりと漏らした言葉に、徹は静かに耳を傾けた。
「皆が蓮様に期待していることは、すぐには変わらないでしょう。しかし、すべてを一度に背負う必要もございません」
「……」
「小さな目標を一つずつ達成していけばよろしいのです。休息を取ることも、必要なときに誰かを頼ることも、決して悪いことではありません」
悠斗はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「それ、栞にも言われたよ」
「水野様も同じことを?」
「うん。苦手なところを整理して、順番に取り組めばいいって」
「なるほど。水野様は的確な助言をなさるようですね」
「そうだな。……よし、まずは今日の分を終わらせるか」
悠斗が参考書を開くと、徹は満足そうに一礼した。
「その意気でございます」
「でも、今日の分が終わったら少しくらい休んでもいいよな?」
「予定どおりに終われば、もちろんでございます」
「やっぱり条件つきか……」
悠斗は苦笑しながら、再びペンを握った。
少なくとも、何から始めればいいのかは分かった。
今はそれだけでも十分だった。
翌日の昼休み。
「蓮! 勉強会の予定を立ててきたよ!」
陽菜が嬉しそうにノートを持ってきた。
机の上に広げられたページには、科目ごとの予定や復習する範囲が丁寧に書き込まれていた。ところどころに色分けされた印もついている。
「もう作ったのか?」
「うん! 時間を有効に使いたいからね」
陽菜は得意げに胸を張った。
「最初に数学、その次に英語。それから歴史を復習して、最後に問題を出し合うの。どうかな?」
悠斗はノートを覗き込み、感心したようにうなずいた。
「よく考えられていると思う。これなら何を勉強するのか迷わずに済みそうだ」
「本当?」
「ああ。ありがとう、陽菜」
「えへへ……」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「それでね、勉強が早く終わったら、みんなでお茶でも飲めたらいいなって思ってるの」
「いいんじゃないか?」
「よかった!」
陽菜の笑顔が、さらに明るくなった。
そこへ、匠が横から顔を出した。
「なるほど。勉強会という名目で、放課後に蓮と過ごす時間を確保する作戦か」
「た、匠!」
陽菜の頬が一気に赤くなる。
「ち、違うよ! ちゃんと勉強するためなんだから!」
「俺はまだ何も言ってないけど?」
「その顔が何か言いたそうなの!」
「顔だけで判断されるとは……。俺も表情には気をつけないとな」
匠はわざとらしく頬に手を当てた。
悠斗は笑いをこらえながら、二人のやり取りを眺めていた。
そのとき、落ち着いた声が割って入った。
「勉強会をするのなら、各科目の目標も決めておいたほうがいいわね」
振り返ると、九条麗華が立っていた。
長い濃紺の髪を整えた彼女は、手にしていたファイルから一枚の紙を取り出した。
「ただ集まって問題を解くだけでは、時間を無駄にする可能性があるもの。苦手な分野を確認して、どこまで進めるのか決めておくべきよ」
陽菜が少しだけ眉を寄せた。
「私だって、ちゃんと考えてるよ」
「ええ。あなたの計画もよくできていると思うわ」
「……え?」
思いがけない返事に、陽菜が目を瞬かせる。
麗華は差し出した紙を机に置いた。
「ただ、こちらの問題も追加すれば、応用力を確認できると思うの」
悠斗は二人の計画を見比べた。
陽菜の予定は無理なく進められるように組まれている。一方、麗華の計画には少し難しい応用問題まで含まれていた。
「どっちも役に立ちそうだな」
悠斗は顔を上げた。
「陽菜の予定を基本にして、麗華が用意してくれた問題を追加するのはどうだろう?」
「私は構わないわ」
麗華はすぐに答えた。
「蓮がそう考えるのなら、それが合理的ね」
「じゃあ、私も賛成!」
陽菜も笑顔でうなずいた。
その反応を見て、悠斗はほっと息をつく。
ところが、陽菜はすぐに新しい提案をした。
「それじゃあ、勉強が終わったあとも三人で過ごさない? お茶を飲みながら、少しゆっくりするの!」
麗華は一瞬だけ考え込んだ。
「……時間に余裕があれば、いいわよ」
「本当? やった!」
陽菜が喜ぶ。
悠斗はその様子を見ながら、心の中で小さくつぶやいた。
どうやら勉強会を開くまでにも、いろいろと調整が必要らしい。
土曜日の午後。
悠斗は桜井家の屋敷を訪れていた。
陽菜に招かれた勉強会に参加するためだ。
案内された部屋は広く、窓からは手入れの行き届いた庭が見えた。大きな机と本棚があり、勉強するには申し分のない環境だった。
「蓮、こっちだよ!」
陽菜が手を振る。
机の脇には紅茶と小さな菓子が用意されていた。
「今日は招いてくれてありがとう」
「ううん。来てくれて嬉しいよ!」
陽菜が笑顔で答えたところへ、麗華も到着した。
「こんにちは」
「麗華、いらっしゃい!」
陽菜が出迎える。
「お茶とお菓子も用意してあるから、休憩のときに食べようね」
「ありがとう。でも、まずは勉強を始めましょう」
「はーい……」
陽菜は少しだけ肩を落とした。
悠斗は二人の様子に苦笑しながら席についた。
最初の一時間は、驚くほど順調だった。
数学の問題を解き、英語の文法を確認し、歴史の重要事項を整理する。
麗華は分からないところを的確に説明し、陽菜は用意した問題を使って理解度を確かめてくれた。
「ここは公式の使い方は合っているけれど、移項するときに符号を間違えているわ」
麗華が悠斗のノートを指さした。
「あ、本当だ。気づかなかった」
「試験本番では、こういう小さなミスが点数に響くから注意して」
「ありがとう。気をつけるよ」
隣から陽菜もノートを覗き込んだ。
「私も昨日、同じ間違いをしたんだよ!」
「それなら、もう一度練習しておいたほうがいいわね」
「うん! 頑張る!」
陽菜は元気よく返事をした。
悠斗は二人を見て、素直に感心していた。
誰かと一緒に勉強すると、自分では気づかなかった間違いが見つかる。
それに、一人で机に向かっているときよりも、ずっと集中しやすかった。
これなら、期末試験にも十分に備えられそうだ。
そう思っていたのだが……。
「そろそろ休憩しない?」
陽菜が鉛筆を置いた。
麗華は時計を確認する。
「前の休憩から、まだ四十分しか経っていないわ」
「四十分も勉強したんだよ?」
「四十分程度でしょう?」
「麗華はどうしてそんなに平気なの!?」
「集中していれば、それほど長く感じないもの」
「もしかして、麗華って生まれたときから参考書を読んでいたんじゃ……」
「それは両親に聞いてみないと分からないわね」
「そこで真面目に答えないでよ!」
悠斗は思わず吹き出した。
麗華は彼を見て、少しだけ目を細めた。
「……蓮まで笑うのね」
「ごめん。でも、二人の会話が面白くて」
「ほら! 蓮も休憩したほうがいいって思ってるよ!」
「蓮は笑っていただけでしょう?」
「細かいことは気にしないの!」
陽菜が勝ち誇ったように胸を張る。
麗華は小さく息をついた。
「仕方ないわね。十分だけ休憩しましょう」
「やった!」
陽菜はすぐに立ち上がり、用意していたお菓子を持ってきた。
悠斗は紅茶を受け取りながら、ようやく肩の力を抜いた。
「こういう時間も大切だな」
「でしょう?」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「ずっと勉強しているだけじゃ疲れちゃうもの」
「休憩も勉強の一部、ということかしら」
麗華が静かに言った。
「そうそう! 麗華も分かってくれたんだね!」
「私は最初から休憩に反対していたわけではないわ」
「でも、最初は嫌そうだったよ?」
「……気のせいよ」
麗華は紅茶を口に運んだ。
その横顔を見ながら、悠斗は再び笑った。
文化交流祭が終わってからも、この二人のやり取りは変わらない。
けれど、以前よりも一緒に過ごす時間が増えたせいか、二人とも少しずつ遠慮がなくなってきたように思えた。
そんなことを考えていると、ふと麗華と目が合った。
彼女は一瞬だけ視線を止めたあと、すぐに顔をそらした。
「……何かしら?」
「いや、楽しそうだなと思って」
「そ、そう?」
麗華の頬がわずかに赤くなった。
「別に、特別なことはないわ。勉強会なのだから、少しくらい楽しくても問題ないでしょう」
「うん。俺もそう思うよ」
悠斗が微笑むと、麗華はさらに視線をそらした。
その様子を見ていた陽菜が、首を傾げる。
「麗華、顔が赤いよ?」
「少し暑いだけよ」
「でも、部屋は涼しいよ?」
「……陽菜」
「な、何?」
「そろそろ勉強を再開しましょう」
「ええっ、今の話は!?」
「休憩時間は終わりよ」
麗華は何事もなかったかのように参考書を開いた。
陽菜は納得できない様子だったが、結局、自分も鉛筆を手に取った。
悠斗は二人の間に流れる微妙な空気を感じながら、そっとノートに目を落とした。
余計なことを言わないほうがよさそうだ。
午後五時を過ぎたころ、勉強会は無事に終了した。
数学の応用問題をいくつか解き、英語の文法も復習できた。歴史についても、重要な出来事を整理し直すことができた。
悠斗はノートを閉じ、満足そうに息をついた。
「今日は本当に助かったよ。二人ともありがとう」
「どういたしまして!」
陽菜が嬉しそうに答える。
麗華も静かにうなずいた。
「この調子で続ければ、試験までに十分な準備ができると思うわ」
「麗華の説明は分かりやすかったよ。ありがとう」
悠斗がそう言うと、麗華はわずかに目を見開いた。
「……別に、たいしたことではないわ」
そう答えながらも、彼女の頬には薄い赤みが残っていた。
陽菜はその様子を見て、すぐに口を挟む。
「私だって、問題をたくさん用意したんだからね!」
「もちろん。陽菜の問題もすごく役に立ったよ」
「本当?」
「ああ。ありがとう」
陽菜の顔がぱっと明るくなった。
「えへへ……。それなら、次も頑張って用意するね!」
「次もあるのか……」
悠斗が思わずつぶやくと、陽菜は不思議そうに首を傾げた。
「もちろんだよ。試験までまだ時間があるんだから!」
「そうだった……」
悠斗は苦笑した。
勉強会が一度で終わるとは思っていなかったが、どうやら陽菜はすでに次の予定まで考えているらしい。
帰り支度を終えたあと、陽菜は玄関まで二人を見送りに来た。
麗華は迎えの車が待つ場所へ向かう前に、悠斗へ声をかけた。
「蓮。今日の復習は忘れないでね」
「分かっているよ」
「本当に?」
「……努力します」
「そこは、きちんと約束してほしかったわね」
麗華が小さく笑った。
悠斗は肩をすくめた。
「善処します」
「もう。蓮まで匠みたいなことを言わないで」
陽菜が呆れたように笑った。
三人の間に、穏やかな笑い声が広がった。
やがて麗華は自分の車へ向かい、陽菜も玄関先で悠斗を見送った。
「今日は来てくれてありがとう、蓮」
「こちらこそ。楽しかったよ」
「……勉強会だけじゃなくて、また一緒に過ごせたらいいな」
陽菜は少しだけ声を落とした。
「勉強が終わったあとでも、何か別のことをしてもいいし……」
言い終えると、彼女は照れたように笑った。
「もちろん、時間があればだけどね!」
悠斗は穏やかにうなずいた。
「そうだな。試験が終わったら、また考えよう」
「うん! 約束だよ!」
陽菜は嬉しそうに手を振った。
悠斗も手を振り返し、迎えの車へと向かった。
車が走り出すと、彼は窓の外を眺めながら、今日のことを振り返った。
陽菜の明るさ。
麗華の的確な助言。
そして、二人と過ごした時間。
勉強は大変だったが、決して苦痛ばかりではなかった。
誰かと一緒に努力することが、こんなにも心強いものだとは思わなかった。
屋敷に戻ると、悠斗は自分の部屋へ向かった。
机に座り、今日のノートを開く。
復習すべき箇所。間違えた問題。覚え直す必要のある単語。
やるべきことは、まだまだ残っていた。
それでも、数日前に参考書の山を前に途方に暮れていたときとは違う。
今は何をすればいいのか分かっている。
悠斗はペンを握り直した。
「……よし、もう少し頑張るか」
小さくつぶやき、問題集を開く。
期末試験までは、まだ時間がある。
焦らず、一つずつ進めていけばいい。
そして、試験が終わったあとには、少しだけ楽しみな時間が待っているかもしれない。
そんな期待を胸に、悠斗は再び勉強に取り組み始めた。
夏はまだ遠い。
けれど、その季節へ向かう日々は、少しずつ動き始めていた。




