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夏はまだ少し先

六月上旬。


文化交流祭が終わってから一週間ほどが過ぎ、私立星嶺学園には、ようやくいつもの日常が戻ってきていた。


廊下を彩っていた装飾は取り外され、教室も普段どおりの配置に戻っている。生徒たちの話題も、文化交流祭の思い出から、部活動や授業のことへと少しずつ移り変わっていた。


そして、そんな穏やかな日常に戻ったばかりの水原悠斗には、早くも新たな問題が訪れようとしていた。


「では、授業を終える前に大切な連絡をしておく」


教壇に立った教師が、手元の資料を置いて教室を見渡した。


「六月末から七月初めにかけて、前期の期末試験を実施する予定だ。まだ少し先だが、今のうちから計画的に勉強しておくように」


その瞬間、教室のあちこちから小さなうめき声が上がった。


「ええっ、もう期末試験の話ですか! 文化交流祭が終わったばかりなのに!」


悠斗の隣で、藤沢匠が大げさに頭を抱えた。


「祭りが終わったからといって、勉強まで休みになるわけじゃないぞ」


「先生、そこはもう少し夢のある言い方をしてください!」


「ならば、今から毎日勉強すれば、試験前に慌てずに済むという夢のある話をしてやろう」


クラスから笑い声が起こった。


悠斗も思わず口元を緩めたが、黒板に書かれた試験予定を見て、すぐに気を引き締めた。


まだ三週間近くあるとはいえ、油断はできない。


何しろ、彼は西園寺蓮として、この学園で生活しているのだ。


成績優秀で知られる蓮の立場を考えれば、試験で大きく順位を落とすわけにはいかない。少しずつ学力は身についてきたものの、すべての科目を余裕でこなせるほどの自信はなかった。


「なあ、蓮」


匠が机に頬杖をつきながら、こちらを向いた。


「お前は試験の心配なんてしてないだろ?」


「どうしてそう思うんだ?」


「だって、普段から落ち着いてるし。きっと問題を見ただけで答えが浮かんでくるんだろ?」


「そんな便利な能力があったら、先生たちが真っ先に研究していると思うぞ」


「それもそうか……。いや、でも、お前ならあり得る気がする!」


「まずは自分の勉強を心配したほうがいいんじゃないか?」


「うっ……。正論はやめてくれ」


匠が肩を落とした。


悠斗は小さく笑った。


こうして友人とくだらない話をしている時間は、嫌いではなかった。


西園寺家で過ごす時間には、常に蓮の代わりとして振る舞わなければならないという緊張がつきまとう。けれど、学校では少しずつ、自分自身の居場所もでき始めていた。


だからこそ、その日常を守るためにも、試験の準備はきちんとしておかなければならない。


そう考えていたところで、隣から明るい声が聞こえてきた。


「蓮、もしよかったら、一緒に勉強しない?」


桜井陽菜が、いつの間にか二人のそばまで来ていた。


長い明るい茶色の髪を揺らしながら、彼女は手に持っていたノートを悠斗の机に置く。


「私の家に勉強できる部屋があるの。静かだし、参考書もたくさんあるから、きっと集中できると思うよ」


「陽菜の家で?」


「うん! 放課後に集まって、苦手なところを教え合うの。もちろん、蓮がよければだけど」


言葉こそ自然だったが、陽菜の瞳は期待に満ちていた。


悠斗は少し考えてから答えた。


「いいと思う。まずは自分がどの科目を重点的に勉強するべきか、整理してみるよ」


「じゃあ、一緒に計画を立てよう!」


「計画を立てるところから一緒なのか?」


「だって、一人で考えるより二人で考えたほうがいいでしょ?」


陽菜は満面の笑みを浮かべた。


その様子を見ていた匠が、何かを察したように口を挟む。


「なるほど。勉強会という名目で、放課後に蓮と一緒に過ごす作戦か」


「た、匠!」


陽菜の頬が赤くなった。


「別にそんなつもりじゃ……。ちゃんと勉強するんだから!」


「まだ何も言ってないけど?」


「顔がそう言ってるの!」


「顔だけでそこまで判断されるとは……。俺も気をつけないとな」


匠はわざとらしく自分の頬を押さえた。


悠斗は笑いをこらえながら、二人のやり取りを見守った。


そのとき、もう一人の女子生徒が近づいてきた。


「勉強会をするのなら、最初に各科目の目標を決めておくべきね」


九条麗華だった。


艶やかな黒に近い濃紺の髪を整え、紫色の瞳をこちらへ向けている。彼女は手にしていた本を胸元に抱え、落ち着いた口調で続けた。


「ただ集まって勉強するだけでは、時間を無駄にする可能性があるわ。苦手分野を把握して、何をどこまで進めるのか、事前に決めておくべきよ」


「べ、別に、ただ集まるだけなんて言ってないでしょ!」


陽菜がすぐに反論した。


「そう。なら問題ないわね」


「その言い方が気になるの!」


麗華は涼しい顔で首を傾げた。


「私は一般論を述べただけだけれど?」


「絶対に私を見ながら言ったよね!?」


「自覚があるのなら、改善すればいいと思うわ」


「麗華!」


悠斗は苦笑しながら、二人の間に入った。


「麗華の言うとおり、勉強する範囲を決めておくのはいいと思う。でも、あまり細かく決めすぎると、かえって疲れるかもしれないな」


「……確かに、そうね」


麗華は素直にうなずいた。


「蓮の言うことなら、考慮する価値があるわ」


「ちょっと! 私が言ったときと反応が違わない!?」


「あなたの意見を否定したわけではないでしょう?」


「そういう問題じゃないの!」


またしても言い合いが始まりそうになり、悠斗は困ったように笑った。


文化交流祭が終わっても、この二人の関係は相変わらずらしい。


もっとも、以前と少し違うこともあった。


麗華は蓮と話すとき、ときおり以前よりも柔らかな表情を見せるようになった。陽菜もまた、彼と過ごす時間を以前にも増して大切にしているように見える。


二人の変化に気づいていないわけではなかったが、悠斗にはまだ、それぞれの気持ちにどう向き合えばいいのか、はっきりとした答えが見つかっていなかった。


「ところで、試験が終わったら夏休みだよね」


陽菜が話題を変えるように言った。


「まだ少し先だけど、今から楽しみ!」


「気が早いな」


悠斗が笑うと、陽菜は少しだけ頬を膨らませた。


「いいじゃない。楽しみにするくらい」


「それはそうだな」


「麗華は夏休み、何か予定があるの?」


陽菜が尋ねると、麗華は少し考えてから答えた。


「まだ具体的には決めていないわ。家族と過ごす時間もあるでしょうし、勉強も続けるつもりよ」


「さすが麗華。夏休みまで勉強するんだね」


「当然でしょう。休みだからといって、学ぶことをやめる理由にはならないもの」


「うっ……。私も少しは見習わないと」


陽菜が肩を落とす。


「でも、せっかくの夏休みなんだから、どこかへ出かけたりするのもいいと思うけどな」


その言葉に、麗華の視線がほんの一瞬、悠斗へと向いた。


しかし、彼が気づくより先に、麗華はいつもの澄ました表情へ戻っていた。


「そうね。休息も必要だとは思うわ」


「でしょう?」


陽菜は嬉しそうに笑った。


「夏休みになったら、みんなで何かできたらいいね」


「そうだな。試験が終わってから考えよう」


悠斗がそう答えると、陽菜は満足そうにうなずいた。


麗華は何も言わなかったが、その表情はどこか考え込んでいるようにも見えた。


悠斗はその理由を深く考えず、次の授業の準備を始めた。


まだ六月が始まったばかりだ。


夏休みの予定を決めるには、少し早いだろう。


そう思っていた。


このときの彼は、数週間後、自分が夏休みの予定をめぐって頭を悩ませることになるなど、想像もしていなかった。


昼休みが終わると、悠斗は午後の授業を受けたあと、電子工作部の部室へ向かった。


扉を開けると、水野栞が机に向かい、書類を整理していた。


黒い短髪は少しだけ乱れており、青みがかった灰色の瞳は、手元の部品リストを真剣に見つめている。


「こんにちは、栞」


「蓮くん。こんにちは」


栞は顔を上げると、少しだけ表情を和らげた。


「今日は部活の予定はなかったよな?」


「うん。でも、文化交流祭で使った部品を確認しておきたくて。次の活動を始める前に、必要なものを整理しているの」


机の上には、モーターやセンサー、細かな予備部品の一覧が並べられていた。


文化交流祭で完成させたミライリンクは、部員たちにとって大切な成果だった。


あの経験を一度きりのものにせず、次へつなげたい。


そんな栞の気持ちが、几帳面な資料からも伝わってきた。


「もう次の計画を考えているんだな」


「考えずにはいられないから」


栞は少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、今は試験の準備もしないといけないね」


「栞も苦手な科目があるのか?」


「もちろんあるよ。数学は好きだけど、ほかの科目は覚えることも多いから」


「実は俺も、少し勉強の計画を立て直そうと思っているんだ」


「そうなの?」


栞は意外そうに目を瞬かせた。


「蓮くんは、いつも何でもできるように見えるから」


「そんなことはないよ。苦手なことだってある」


「……そうなんだ」


栞の表情が少しだけ柔らかくなった。


「それなら、数学の問題を解く順番や、復習する範囲を整理するのは手伝えると思う。何から始めればいいか分かるだけでも、勉強しやすくなるから」


「助かるよ。ありがとう」


「ううん。私も、誰かと一緒に勉強するのは嫌いじゃないから」


そう言ったあと、栞は少し迷うように視線を落とした。


「それで……試験が終わったら、また部室に来てくれる?」


「もちろん。ミライリンクの次の計画も気になるし」


「それもあるけど……」


栞の声が小さくなった。


「その……電子工作の話だけじゃなくて、普通の話もできたらいいなって」


悠斗は一瞬、目を瞬かせた。


栞は慌てたように言葉を付け加える。


「べ、別に、何か特別な話をしたいわけじゃないよ。ただ、せっかく仲良くなれたんだから、いろいろな話もできたらいいなって思っただけで……」


「うん。俺もそう思うよ」


悠斗が微笑むと、栞はぴたりと動きを止めた。


「……本当に?」


「もちろん。電子工作の話も好きだけど、栞がほかにどんなことを考えているのか知るのも楽しいから」


栞の頬が、ゆっくりと赤くなっていった。


「そ、そう……。なら、よかった」


彼女は顔を伏せ、部品リストを必要以上に丁寧にそろえ始めた。


悠斗は不思議に思いながらも、それ以上は追及しなかった。


栞が自分からこうした話をしてくれるようになったことが、素直に嬉しかったからだ。


「でも、試験勉強は忘れないでね」


栞は気持ちを落ち着けるように、いつもの真面目な口調へ戻った。


「部活に夢中になって、勉強がおろそかになったら困るから」


「分かっているよ」


「本当に?」


「……努力します」


「そこは、ちゃんと約束してほしかったな」


栞が小さく笑う。


その笑顔を見て、悠斗も自然と笑みを浮かべた。


部室を出るころには、放課後の校舎に夕方の光が差し込んでいた。


昇降口へ向かう途中、悠斗は窓の外に広がる空を見上げた。


梅雨の時期らしい湿った空気が漂っているものの、雲の切れ間からは明るい日差しが差し込んでいる。


夏が近づいている。


その事実を意識すると、少しだけ気持ちが浮き立った。


とはいえ、今はまだ試験が先だ。


目の前のことを一つずつ片づけていかなければならない。


昇降口を出ると、陽菜が待っていた。


「あ、蓮!」


彼女は悠斗の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「もう帰るところ?」


「ああ。陽菜もか?」


「うん。今日は少し早く終わったの」


二人は並んで校門のほうへ歩き始めた。


しばらくは、授業や試験の話をしていた。だが、校門が近づいたころ、陽菜はふと歩く速度を落とした。


「ねえ、蓮」


「どうした?」


「試験が終わったら、少しゆっくりできるよね」


陽菜は前を向いたまま続けた。


「文化交流祭は楽しかったけど、準備も本番も忙しかったでしょう? だから今度は、何かのために頑張るんじゃなくて、ただ一緒に過ごす時間があったらいいなって」


その声は、いつもの明るさよりも少し落ち着いていた。


「昔みたいに、特別な理由がなくても話したり、のんびりしたり……そういう時間も大切にしたいな」


悠斗の胸に、わずかな痛みが走った。


陽菜が思い浮かべている「昔」は、本当の蓮と過ごした時間だ。


彼女が大切にしてきた思い出を、自分がすべて共有できるわけではない。


それでも、今の彼女が自分と過ごす時間を大切にしてくれていることは、確かだった。


「そうだな」


悠斗は穏やかに答えた。


「試験が終わったら、少し時間を作ろう。ゆっくり話すのもいいと思う」


陽菜が顔を上げた。


「本当?」


「ああ。せっかくの休みなんだから、勉強ばかりじゃ疲れるだろうし」


「約束だよ?」


陽菜は笑顔を浮かべると、小指を差し出した。


悠斗は少し驚いたものの、その指に自分の小指を絡めた。


「約束」


「えへへ。絶対だからね」


陽菜は満足そうに笑った。


やがて、桜井家の車が停まっている場所が見えてきた。


「じゃあ、また明日ね、蓮!」


「ああ。また明日」


陽菜は車へ向かいながら、何度か振り返って手を振った。


悠斗も手を振り返し、その姿を見送った。


少し離れた場所では、西園寺家の車が彼を待っていた。


車に乗り込み、座席に身を預けると、悠斗は窓の外へ視線を向けた。


六月上旬。


夏休みまでは、まだ時間がある。


まずは期末試験を乗り越えなければならない。学校での生活も、部活動も、そして蓮として過ごす日々も、これから先も続いていく。


それでも、陽菜や麗華、栞と交わした何気ない会話を思い返すと、夏が来るのを少しだけ楽しみにしている自分がいた。


もちろん、その夏がどれほど賑やかなものになるのか、今の悠斗には知る由もない。


ただ一つ確かなのは、彼の周囲にいる三人の少女たちもまた、それぞれの思いを胸に、少しずつ次の季節を意識し始めているということだった。


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