三つの計画、それぞれの想い
翌朝、悠斗は星嶺学園へ向かいながら、文化交流祭の準備について考えていた。
準備は順調に進んでいる。生徒会との打ち合わせも、麗華とのプレゼンテーションの練習も、少しずつ形になってきた。
それでも、確認しなければならないことは次々と増えていく。
そして昨夜、麗華から届いたメッセージが頭から離れなかった。
『明日は発表のつなぎ方を重点的に練習します。遅刻しないでくださいね、蓮』
その数秒後、もう一通。
『それと、きちんと睡眠を取ること。疲れた顔で壇上に立つわけにはいきませんから』
「……あのメッセージを読んで、ぐっすり眠れる人がいるのかな」
悠斗は苦笑しながらスマートフォンをしまい、教室へ向かった。
教室に入ると、陽菜が自分の席のそばで何かを熱心に書き込んでいた。手には小さな花の模様が描かれたノートを持っている。
「あっ、蓮! おはよう!」
「おはよう、陽菜。何をしてるんだ?」
「な、何でもないよ!」
陽菜は慌ててノートを閉じた。
そのあまりにも素早い反応に、悠斗は思わず首をかしげる。
「何でもないって……」
「えっと、正確には何でもなくはないんだけど……文化交流祭で準備する夏の庭園について考えてたの!」
そう言って、陽菜はノートを開いた。
そこには花壇や石畳の小道、小さな休憩スペース、そして庭を彩る灯籠などが丁寧に描かれていた。
「来てくれた人たちが、ゆっくり散歩したり、休憩したりできる場所にしたいの。夏の間に見頃が変わる花も植えたいし、庭の雰囲気に合うように小道も工夫したいんだ」
「へえ……ずいぶん細かく考えてるんだな」
悠斗はノートを覗き込み、描かれた庭園をじっくり眺めた。
「この小道、休憩スペースにつながってるんだな。見て回るだけじゃなくて、気に入った場所でゆっくり過ごせるようになってる。いいと思うよ」
「ほ、本当?」
陽菜の表情がぱっと明るくなった。
「ああ。きっと来てくれた人たちも楽しめると思う」
「じゃあ……完成したら、蓮も見に来てくれる?」
いつもより少し控えめな声だった。
悠斗は顔を上げ、彼女を見た。
「もちろん。どんな庭園になるのか、俺も楽しみだよ」
「そっか……!」
陽菜はノートを胸に抱きしめた。
「それなら、もっと頑張らなくちゃ!」
「いや、無理して疲れないようにな」
「大丈夫! だって、蓮が見に来てくれるんだもん。中途半端なものにはしたくないよ!」
あまりにも真剣な様子に、悠斗は返す言葉を探した。
「……楽しみにしてるよ」
「うん!」
陽菜は再びノートを開き、選んだ花の種類や配置について説明し始めた。
悠斗も興味深く耳を傾け、ときどき質問を挟みながら彼女の話を聞いた。
その間、陽菜はノートの隅に小さく書き込まれたメモを、悠斗に気づかれないように手で隠していた。
『蓮の好きな花を聞く』
せっかく一緒に話せる機会なのだから、もう少し彼のことを知りたい。
幼い頃から一緒に過ごしてきたはずなのに、最近は知らなかった一面を見つけるたびに、胸が少しだけ温かくなる。
完成した庭園を見たとき、蓮がどんな顔をするのか。
そんなことを想像するだけで、陽菜の心は弾んでいた。
一方、別の教室では、麗華も文化交流祭の準備に取り組んでいた。
彼女が担当するのは、芸術と音楽を組み合わせたサロン形式の展示だった。
絵画や美術作品を展示するだけではなく、クラシック音楽の演奏を取り入れ、訪れた人々が作品と音楽の両方を楽しめる空間を作る。
「演奏は作品の解説が終わったあとに配置しましょう。そのほうが自然に次の展示へ移れますわ」
麗華は進行表を指しながら、協力する生徒たちに説明した。
「確かに、そのほうが落ち着いて鑑賞できそうですね。ところで、麗華さんが演奏する曲は決まったんですか?」
「ええ。曲はもう決めてあります。ただ、まだ練習が必要ですわね」
麗華は手元の楽譜に視線を落とした。
選んだのは、静かな旋律から始まり、少しずつ力強さを増していくクラシックの一曲だった。
その旋律には、不思議と蓮の姿が重なっていた。
以前の彼は、何でも簡単にこなしてしまうように見えた。成績は常に優秀で、周囲から一目置かれ、いつも自信に満ちている。
けれど、最近の蓮は少し違う。
相手の話を最後まで聞き、困っている人には自然に手を差し伸べる。誰かの努力を家柄や成績で判断せず、その人自身を見ようとしている。
そんな彼の変化に、麗華はいつから惹かれていたのだろう。
気づけば、以前よりも彼の言葉や表情を意識するようになっていた。
「九条さん?」
「……っ、はい!」
声をかけられ、麗華は慌てて顔を上げた。
「大丈夫ですか? 楽譜を見たまま、ずっと考え込んでいたので」
「も、もちろんですわ。演奏をよりよいものにするため、少し考えていただけです」
麗華は髪を耳にかけ、いつもの優雅な表情を取り戻した。
「せっかく発表するのですから、妥協はできませんもの。きちんと練習して、皆様に満足していただける演奏にしなければ」
「はい! 私たちも頑張ります!」
協力する生徒が作業に戻ると、麗華は再び楽譜を見つめた。
「……蓮に、聴いてもらいたいですわね」
その言葉は、誰にも届かないほど小さかった。
演奏を通じて気持ちを伝えようなどと、大げさなことを考えているわけではない。
ただ、自分が心を込めて準備したものを、彼に見てもらいたかった。
家柄でも、成績でも、完璧な振る舞いでもない。
自分自身が大切にしているものを、彼と分かち合いたかったのだ。
「ふふふ……」
麗華は小さく笑った。
そして、すぐに自分が一人で笑っていたことに気づき、背筋を伸ばす。
「いけませんわ。今は集中しなければ。芸術に妥協は許されませんもの!」
そう言いながらも、彼女の心には蓮の姿が残り続けていた。
放課後、蓮は電子工学部の部室を訪れた。
扉を開けると、栞が机に向かって試験結果を確認していた。美緒が隣で画面を覗き込み、匠と康平はロボットの部品について何やら言い合っている。
「蓮! ちょうどいいところに来たな!」
匠が勢いよく振り返り、画面を見せてきた。
「見てくれよ。ミライリンクの走行プログラム、かなり改善できたんだ! まだ確認しなきゃいけない部分はあるけど、動きがずっと安定したんだぜ!」
画面には、ロボットが進む予定の経路が表示されていた。
「それはよかったな。テストの結果はどうだった?」
「昨日よりはずっといいよ。ただし、匠がまた速度を上げれば全部解決すると思い込んでいたけどな」
康平が冷静に付け加える。
「おい! 速度を上げるのが悪いとは限らないだろ!」
「その結果、ロボットが同じ場所で三回転したのは誰のせいだったかな?」
「そ、それは一回だけだ!」
優奈が吹き出し、美緒も口元を押さえて笑った。
栞は三人のやり取りを聞きながら、作業用の画面を蓮に向けた。
「でも、今日の変更は役に立っています。センサーが信号を読み取る精度も上がりました。分岐点での反応には、まだ改善の余地がありますけど……」
最初こそ控えめな口調だったものの、説明が進むにつれて栞の声には少しずつ自信が宿っていった。
「ミライリンクでは、体験する人が自分で進む道を選びます。選択が変われば、ロボットの動きも変わる。その仕組みを、実際に触って楽しんでもらいたいんです」
「なるほど。ロボットだけで結果が決まるわけじゃないんだな。使う人の選択も、結果につながっている」
蓮がそう言うと、栞は嬉しそうに頷いた。
「はい。そこが、この企画で一番伝えたいところなんです。小さな選択でも、その後の道が変わることがある。必ずしも、正解が一つだけとは限らないんです」
蓮はしばらく黙っていた。
栞の言葉が、自分自身の状況と重なったからだ。
祖父を助けるために、蓮の身代わりになると決めた。
最初は、顔や声を似せ、勉強をして、周囲に怪しまれないように振る舞えばいいと思っていた。
ところが、気づけば予想もしなかった関係が生まれていた。
陽菜は自分を信頼してくれている。麗華は一緒に何かを成し遂げようと努力してくれる。そして栞は、自分の好きなことを少しずつ周囲に伝えられるようになった。
彼女たちとの関係が深まるほど、演じている自分と本当の自分を切り離すことが難しくなっていた。
「蓮くん……?」
栞の声に、蓮は我に返った。
「ごめん。ちょっと考え事をしてた」
「何か気になることがあったんですか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。今の話を聞いて、いい企画だと思ったんだ」
蓮は画面を見つめた。
「ただロボットを動かすだけじゃなくて、みんなが何を伝えたいのかも分かる。完成したら、きっと面白い体験になると思う」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。ここまで工夫してきたんだろう?」
栞は少し頬を赤くし、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、蓮くん」
その様子を見ていた美緒が、優奈と目を合わせた。
「ねえ、栞。最近、蓮くんが部室に来ると嬉しそうだよね」
「えっ?」
「前は誰かが入ってくるだけでも緊張していたのに、今は蓮くんが来るのを待っているみたい」
「そ、そんなことありません!」
栞の顔が一気に赤くなった。
「なるほどねえ。蓮くんが来ると、いつもより説明にも熱が入るもんね」
優奈も楽しそうに頷く。
「違います! 私はただ、企画の進み具合を見てもらいたいだけで……!」
「はいはい。とっても科学的な理由ですね」
美緒が真面目な顔で言った。
「美緒ちゃん!」
栞が声を上げると、匠と康平まで笑い始めた。
蓮は周囲を見回し、不思議そうに首を傾げる。
「……俺、何か邪魔をしたかな?」
「ち、違います! 何でもありません!」
栞は慌てて首を横に振った。
蓮は納得したような、していないような表情を浮かべたものの、それ以上は追及しなかった。
「それなら、走行テストを手伝おうか? 体験する人の立場で、操作が分かりやすいか確認できると思う」
「は、はい! お願いします」
栞はほっと息をつき、蓮を作業台へ案内した。
優奈が操作用のカードを渡し、蓮は指示に従って進行方向を選択した。
ロボットは指定された道を進み、分岐点の手前で一度停止する。そしてセンサーが選択された信号を読み取ると、迷うことなく正しい方向へ進んだ。
「おおっ! 成功だ!」
匠が声を上げた。
康平が記録されたデータを確認し、優奈はロボットの動きを嬉しそうに見守る。
栞もほっとしたように微笑んだ。
「まだ細かい部分は調整しないといけませんけど、確実に前に進んでいます」
「そうだな。みんな、かなり頑張ってると思う」
蓮の言葉に、栞は胸の前でそっと手を握った。
以前の彼女なら、褒められても何と答えればいいか分からず、俯いてしまっていたかもしれない。
けれど、今は違う。
「文化交流祭では、もっと多くの人に楽しんでもらいたいんです。部の存続がかかっているからというだけじゃなくて……私たちの作ったものを通じて、誰かに何かを感じてもらえたら嬉しいんです」
栞は蓮を見つめた。
「だから、最後まで頑張ります」
「うん。きっと伝わるよ」
蓮が微笑むと、栞の頬が再び赤くなった。
二人の間に、ほんの短い沈黙が流れる。
先に視線を逸らしたのは栞だった。
「……あ、あの! もう一度テストしてみませんか? 別のルートも確認したいので!」
「もちろん。何度でも付き合うよ」
その返事を聞き、栞は小さく頷いた。
少し離れた場所では、美緒が何か言いたそうに口を開きかけていたが、優奈がそっと肘でつついた。
「今はそっとしておこうよ」
「……まだ何も言ってないのに」
「顔に書いてあるよ」
二人は声を抑えて笑った。
その後も蓮は走行テストを手伝い、部員たちと一緒に工具や資料を片付けた。
帰る時間になると、栞が部室の入口まで彼を見送りに来た。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。ミライリンクの完成がますます楽しみになったよ」
「……また、見に来てくれますか?」
栞は少しだけ不安そうに尋ねた。
「もちろん。完成したところを見たいからね」
「それなら……待っています」
栞は恥ずかしそうに微笑んだ。
蓮が廊下の向こうへ歩いていっても、彼女はしばらく入口に立ったままだった。
やがて部室へ戻ると、美緒が待ち構えていた。
「『待っています』だって」
「もう! 聞いていたの?」
「聞こえちゃっただけだよ」
「絶対にわざとです!」
栞の抗議に、部室には再び笑い声が広がった。
その頃、蓮は生徒会室へ向かっていた。
扉を開けると、麗華が書類を抱えて待っていた。
「蓮。ちょうどよかったですわ」
「今日も練習?」
「当然です。発表の順序を見直しましたし、予定が変更された場合に備えて、短縮版の原稿も用意しましたわ」
差し出されたファイルからは、何枚もの書類が顔を覗かせている。
蓮は思わず目を丸くした。
「……これ、昨日から準備してたの?」
「それほど大したことではありませんわ」
その量を見れば、とてもそうは思えなかった。
「麗華、ちゃんと眠れた?」
「ね、眠れましたけれど……どうしてそんなことを?」
「いや、文化交流祭を三回くらい開催できそうな量の資料だったから」
麗華はぴたりと動きを止めた。
「……それは言い過ぎですわ」
「じゃあ、二回?」
「蓮!」
麗華は抗議するように彼を睨んだが、やがて堪えきれずに小さく笑った。
「本当に……あなたは、時々思いがけないことを言いますわね」
「褒められてると思っていい?」
「あなたの練習態度次第ですわ」
「それなら、真面目に頑張らないとな」
「ええ。そうしてください」
麗華は満足そうに頷き、ファイルを開いた。
二人は原稿を確認しながら、発表の順序や、それぞれの説明をつなぐ言葉を練習していった。
前回よりも蓮は原稿に頼らず話せるようになり、発表の流れも自然になっていた。
一つの区切りを終えると、麗華は満足そうに頷いた。
「ずいぶんよくなりましたわね。自分の言葉で話すことにも、少しずつ慣れてきたようです」
「麗華の説明が分かりやすいからだよ。いい先生を持つと助かるな」
「せ、先生……?」
麗華の頬がほんのり赤くなった。
「教え方が上手だって意味だよ。ありがとう、麗華」
蓮は何気なく礼を言った。
しかし、麗華にとっては何気ない言葉ではなかった。
「そ、そんなことを急に言わなくても……わたくしは、担当として当然のことをしているだけですわ」
「それでも、感謝してる」
麗華はファイルへ視線を落とした。
「……分かりました。では、感謝の気持ちは今後の練習態度で示してくださいませ」
「厳しいなあ」
「当然ですわ!」
麗華は顔を上げ、いつもの調子を取り戻した。
「完璧な発表を目指すのですから、途中で妥協するわけにはいきませんもの」
「それじゃあ、完璧になるまで付き合ってもらわないとな」
「ええ。もちろんですわ」
そう答えた麗華の表情は、先ほどよりもずっと柔らかかった。
しばらくして練習を終えると、麗華は書類を片付けながら、ぽつりと言った。
「……蓮が、真剣に取り組んでくれてよかったですわ」
蓮は彼女を見た。
「どういう意味?」
「最初は、わたくし一人で準備を進めることになるのではないかと、少し心配していたんです。けれど、あなたはきちんと向き合ってくれる。だから……一緒に頑張れると思いましたの」
その言葉には、いつもの自信に満ちた響きとは違う、素直な気持ちが込められていた。
蓮は静かに頷いた。
「俺も、麗華と一緒に準備できてよかったと思ってるよ」
麗華は一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……そうですか」
窓の外では、夕日が校舎を柔らかな橙色に染めていた。
二人は生徒会室を出て、並んで廊下を歩いた。明日の練習について話し合いながら、文化交流祭の準備が少しずつ形になっていることを確かめる。
けれど、蓮の胸の奥には、簡単には消えない不安が残っていた。
陽菜が準備する夏の庭園。
麗華が心を込めて練習する音楽。
栞と部員たちが力を合わせて作るミライリンク。
それぞれの計画には、彼女たち自身の想いが詰まっている。そして、その想いは少しずつ自分へと向けられていた。
蓮として振る舞う自分を、彼女たちは信じてくれている。
しかし、本当の自分は悠斗だ。
いつか本物の蓮が戻ってきたとき、この関係はどうなるのだろう。
その答えは、まだ見つからない。
「蓮?」
隣を歩いていた麗華が、顔を覗き込んできた。
「どうしましたの? また考え事ですか?」
「……少しだけね。でも、大丈夫」
蓮は小さく笑った。
「文化交流祭を成功させるためにも、今できることを頑張らないと」
麗華は彼の顔を見つめ、それから静かに頷いた。
「ええ。一緒に頑張りましょう、蓮」
「うん。一緒に」
二人は再び歩き始めた。
文化交流祭の開幕は、もうすぐそこまで迫っている。
けれど、祭りを彩るのは華やかな会場や豪華な展示だけではない。
誰かに何かを伝えたいという気持ち。
誰かと一緒に頑張りたいという願い。
そして、まだ言葉にできない想い。
そんな小さな物語が、祭りの始まりを待つ学園のあちこちで、静かに動き始めていた。




