文化交流祭の準備と、思いがけない問題
六月の第二週。
星嶺学園は、いつもとは違う活気に包まれていた。
文化交流祭の開催まで、残された時間は少ない。
廊下では生徒たちが展示に使う資材を運び、教室では発表の練習が行われ、教師たちも各企画の進行状況を確認している。
生徒会のメンバーは、連日のように会議や書類の確認に追われていた。
そして、蓮もまた例外ではなかった。
「西園寺くん、今日の午後の会議までに、この資料を確認していただけますか?」
昼休み、藤本七海がファイルを差し出した。
生徒会の書記を務める彼女は、少し申し訳なさそうに微笑んでいる。
「土曜日に予定されている展示企画の暫定プログラムです。音楽の発表と一部の展示時間が重なっているので、確認しておきたくて」
「分かった。会議までに目を通しておくよ」
「ありがとうございます。分からないところがあれば、生徒会室にいますので声をかけてください」
七海は一礼して、その場を離れた。
蓮はファイルを開き、並んだ予定表に目を通した。
展示の開始時刻、来場者の移動経路、発表者の交代時間。
一つひとつは小さな項目でも、全体を考えれば無視できないものばかりだった。
「……思った以上に確認することが多いな」
思わず小さく息を吐く。
けれど、すぐに気持ちを切り替えた。
徹からも言われたばかりだ。
すべての問題を先回りして防ぐことはできない。それでも、目の前のことに一つずつ向き合うことはできる。
「よし。順番に片づけていこう」
蓮は再び書類に目を落とした。
昼休みの終わりが近づいた頃、陽菜が彼の席へやってきた。
「蓮、今ちょっといい?」
「ああ、どうしたんだ?」
「夏の庭園の準備がかなり進んだの! 見てもらいたくて」
陽菜は嬉しそうにノートを開いた。
そこには、以前見せてくれた図面に新しい書き込みが加えられていた。
花壇の配置だけでなく、植物の名前を記した小さな案内板や、来場者が座って休める場所まで細かく描かれている。
「この前話していた庭園か。ずいぶん具体的になったな」
「うん! 家の庭師さんにも相談して、通路の幅や花を植える場所を確認してもらったの。人が歩きやすいように、入口も少し広くする予定なんだ」
「なるほど。見た目だけじゃなくて、実際に歩く人のことも考えているんだな」
「もちろん! せっかく来てくれた人たちに、ゆっくり楽しんでもらいたいから」
陽菜は次のページを開いた。
そこには、夕方になると庭を照らす装飾用の灯籠が描かれていた。
「これも借りられることになったの。暗くなってきたら、きっと雰囲気がよくなると思う」
「いいな。昼間とは違う景色も楽しめそうだ」
「でしょう?」
陽菜は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、蓮も自然と頬を緩める。
「ここまで準備するのは大変だったんじゃないか?」
「少しだけね。でも、みんなが協力してくれるから大丈夫!」
そう言ってから、陽菜はほんの少し声を小さくした。
「それに……蓮にも楽しんでもらいたいし」
「俺も楽しみにしてるよ。完成したら、必ず見に行く」
「本当?」
「ああ。約束する」
陽菜はノートを胸に抱きしめた。
「えへへ……。じゃあ、もっと頑張らなくちゃ!」
「無理はするなよ」
「分かってるってば!」
陽菜は笑いながら答えた。
そのとき、教室の入口から彼女を呼ぶ声がした。
「あっ、呼ばれちゃった。それじゃあ、またあとでね!」
「うん。準備、頑張って」
陽菜は手を振って、友人のもとへ駆けていった。
蓮はその背中を見送ってから、手元の書類に視線を戻した。
誰もが、自分にできることを精いっぱいやろうとしている。
だからこそ、自分もプレゼンターとして、彼らの努力に応えたいと思った。
放課後。
蓮は電子工学部の部室を訪れた。
扉を開けると、栞が作業台に向かっており、匠と康平がロボットの車輪付近を調べていた。美緒と優奈は、操作パネルを確認している。
「こんにちは。何か問題でもあったのか?」
「西園寺! ちょうどいいところに来た!」
匠が振り返った。
「実は、ちょっと困ったことになってるんだ」
その表情から、単なる調整では済まない問題が起きているらしいと分かった。
蓮は作業台へ近づいた。
「何があったんだ?」
栞が画面を見せながら説明する。
「ミライリンクの動作テスト中に、ロボットが選択されたルートを間違えることがあるんです。操作パネルでは正しい道を選んでいるのに、ロボットが別の方向へ進んでしまって……」
「毎回起こるわけじゃないんですけどね」
美緒が操作パネルを見つめながら付け加えた。
「だから、原因を特定するのが難しくて」
「センサーの問題なのか?」
「まだ分かりません。最初はプログラムの不具合だと思ったんですけど、同じ操作をしても正常に動く場合があるんです」
栞は記録された動作データを指さした。
「こちらが正常に動いたときの記録で、こっちが失敗したときの記録です」
蓮は二つの記録を見比べた。
確かに、選択されたルートが認識されるまでの時間に違いがあるようだった。
匠が腕を組む。
「いっそのこと、ロボットが動き出すまでの待ち時間を長くすればいいんじゃないかと思ってる。処理する時間が増えれば、間違いも減るはずだ」
「でも、それだと動きが遅くなりすぎないかな?」
美緒が首を傾げた。
「来場者が何度も選択するたびに待たされたら、せっかくの体験が少し退屈になっちゃうかも」
「だからといって、間違った道へ進むのも困るだろ」
「それはそうだけど……」
匠と美緒の意見がぶつかり始める。
そこで、優奈が二人の間に入った。
「待って待って。どちらが正しいかを決める前に、まず原因を調べようよ」
栞も頷いた。
「そうですね。いくつもの設定を同時に変えてしまうと、何が原因だったのか分からなくなります。まずは同じ条件でテストを繰り返して、エラーが起きるタイミングを確認しましょう」
「俺も手伝おうか?」
蓮が尋ねると、栞は少し考えてから頷いた。
「お願いします。西園寺くんには、実際に操作する人の立場で確認してほしいんです。私たちは仕組みを知っているので、初めて使う人がどこで戸惑うのか、気づきにくいかもしれませんから」
「分かった。利用者役をやればいいんだな」
優奈が操作カードを手渡した。
蓮は指示に従って進みたいルートを選び、パネルのボタンを押した。
ロボットはゆっくりと前進し、最初の分岐点で停止した。
センサーが選択を読み取ると、ロボットは正しい方向へ曲がった。
「今のところは正常だね」
美緒が記録を確認する。
蓮は別のルートを選び、もう一度操作した。
今度もロボットは順調に進んだ。
ところが、三度目のテストで異変が起きた。
分岐点に到着したロボットが一瞬停止したかと思うと、選択した方向とは逆の道へ進み始めたのだ。
「止めて!」
栞が声を上げる。
康平がすぐにロボットを停止させた。
匠が画面を確認する。
「まただ……!」
栞は記録データを開き、問題が起きた部分を拡大した。
「やっぱり、二回読み取っています」
「二回?」
蓮が尋ねた。
「はい。最初に選択した信号を読み取った直後に、もう一度別の信号を受け取っているようです。プログラムが後から届いた信号を有効な選択だと判断してしまうと、違う方向へ進んでしまいます」
匠が画面を覗き込んだ。
「昨日、反応を速くするために待ち時間を短くしたんだ。もしかしたら、それが原因かもしれない」
「可能性はありますね。でも、すぐに元へ戻す前に、センサーそのものが余計な信号を拾っていないか確認したいです」
栞の言葉に、全員が頷いた。
「じゃあ、役割を分けよう」
栞は順番に仲間を見た。
「匠くんはプログラムの記録を調べて、康平くんはセンサーと接続部分を確認してください。優奈ちゃんは操作パネルの反応を、もう一度調べてもらえますか? 美緒ちゃんは、操作説明に分かりにくいところがないか確認してほしいです」
「了解!」
それぞれが自分の作業へ戻った。
康平はロボットの側面を開き、接続部分を一つずつ確認していく。
優奈はボタンを何度も押し、操作したときの反応を記録した。
美緒は説明書を読みながら、実際に操作する人が迷いそうな箇所を探した。
そして匠は、プログラムに記録された信号の時間を比較し始めた。
しばらくして、匠が声を上げた。
「栞、ちょっとこれを見てくれ!」
栞が画面の前へ移動する。
「どうしたんですか?」
「エラーが起きたときの記録なんだけど、二回目の信号が入るのは、最初の処理が終わる前なんだ。昨日、待ち時間を短くしたことで、次の信号を受け取るまでの間隔が足りなくなったんじゃないかな」
栞は記録を見比べ、しばらく考え込んだ。
「確かに……。以前の設定では、最初の読み取りが終わるまでに十分な時間がありました。でも、今の設定では処理が完了する前に、次の信号を受け取ってしまうことがあるんですね」
「そういうことだと思う」
康平が確認を終えて顔を上げた。
「こっちは問題なさそうだ。センサーの取り付けも接続も正常だよ」
優奈も頷いた。
「操作パネルも正常だった。ボタンが二重に反応しているわけじゃないみたい」
「説明書も、今のところ大きな問題はなさそうです」
美緒が資料を置いた。
栞はもう一度プログラムの記録を確認した。
「原因は、信号を処理する時間が足りなくなったことみたいですね」
匠が腕を組む。
「なら、待ち時間を元に戻すか?」
「それだけでは、反応速度が遅くなってしまいます」
栞は画面を見つめながら考えた。
「最初の信号を処理している間は、追加の信号を受け付けないようにできればいいんです。処理が終わったら、再び操作を受け付けるようにするんです」
「なるほど。選択を確定するまでは、パネルからの入力を一時的に止めるのか」
匠の表情が明るくなった。
「それなら、余計な信号に反応することもなくなるはずだ」
「ただし、次の分岐点では、きちんと操作を受け付けられるようにしなければいけません。ロボットが移動を終えたことを確認してから、パネルを再び有効にする必要があります」
蓮はロボットの動きを思い返した。
「移動が終わったことを、センサーで確認できないかな? 決まった時間が経過したかどうかではなく、実際に所定の位置へ到着したことを確認してから、次の操作を受け付けるんだ」
栞は目を見開いた。
「……それなら、移動にかかる時間が変わっても対応できますね」
匠もすぐに頷いた。
「確かに! その方法なら、待ち時間を必要以上に長くしなくても済みそうだ」
「やってみよう。まずは簡単な処理を追加して、動作を確認しよう」
栞の指示で、匠がプログラムを書き換え始めた。
康平は位置を確認するセンサーが正しく動作するかを調べ、優奈は操作パネルの表示を調整した。
しばらくして、最初の修正版が完成した。
「よし、テスト開始!」
匠が操作すると、ロボットは指定された道を進み始めた。
ところが、分岐点で停止したあと、パネルが長い間反応しなくなってしまった。
「……今度は遅すぎるな」
康平が冷静に指摘する。
匠は頭を抱えた。
「うわあ、今度はそっちか!」
美緒が苦笑した。
「でも、余計な信号を読み取らなくなったんだよね?」
「そこは改善できています。あとは、どのタイミングで入力を再開するかを調整すれば……」
栞は記録を確認し、画面に新しい数値を書き込んだ。
何度か調整を繰り返したあと、再びテストを行う。
今度は、ロボットが選択したルートを正確に進んだ。
分岐点での移動を終えると、操作パネルもすぐに反応するようになった。
「……成功、ですね」
栞が小さく呟いた。
「やったあ!」
匠が両手を上げた。
康平は記録を確認し、優奈はロボットの動きを嬉しそうに見つめた。美緒も、テスト結果を資料へ書き込んでいる。
栞はほっと息を吐き、柔らかな笑みを浮かべた。
「まだ何度か確認する必要はありますけど、大きな問題は解決できたと思います」
その後、全員でルートを変えながら何度もテストを繰り返した。
ロボットは、どの選択にも正確に反応した。
ようやく一通りの確認を終えると、部室には安堵の空気が広がった。
「いやあ、焦ったな。文化交流祭の直前にこんな問題が出るとは思わなかった」
匠が椅子に腰を下ろす。
「でも、原因が分かってよかったよ。もし本番で起きていたら、来場者を待たせることになっていたかもしれない」
優奈がそう言うと、栞も頷いた。
「今回のことは、いい経験になったと思います。うまく動いているように見えても、条件が少し変わるだけで問題が起きることがあるんですね」
「そのたびに原因を調べて、直していけばいいってことだな」
康平が工具を片付けながら言った。
「それに、一人では見つけられなかった問題もあったと思う」
美緒が笑顔で付け加える。
「みんなで確認したから、原因を絞り込めたんだよね」
栞は仲間たちを見回した。
「はい。みんなが協力してくれたから解決できました。ありがとうございます」
「何言ってるんだよ。俺たち、同じ部活だろ?」
匠が照れくさそうに笑う。
「そうそう。困ったときはお互いさま」
優奈も頷いた。
そのやり取りを聞きながら、蓮は微笑んだ。
ミライリンクは、ただロボットを動かすだけの企画ではない。
栞が考え、匠がプログラムを組み、康平が機構を支え、優奈が操作性を整え、美緒が来場者の立場から使いやすさを考える。
それぞれが異なる役割を担い、互いの意見を取り入れることで、初めて一つの形になっていく。
「いい企画だと思うよ」
蓮が言うと、栞が顔を上げた。
「西園寺くん……」
「ロボットを動かすだけじゃなくて、みんなが協力して問題を解決していくところも、この企画の魅力なんだと思う。文化交流祭に来た人たちにも、きっと伝わるよ」
栞は少し頬を赤くしながら、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると、頑張ってきてよかったと思えます」
「まだ本番まで時間はあるから、最後まで頑張ろう」
「はい!」
栞は、今度ははっきりとした声で答えた。
以前なら、人前で自分の考えを話すだけでも緊張していた彼女が、今では仲間たちをまとめ、問題が起きても落ち着いて対処している。
その変化を間近で見られることが、蓮には嬉しかった。
作業を終えた蓮は、部員たちと一緒に工具や資料を片付けた。
帰り際、栞が部室の入口まで見送りに来た。
「今日は本当にありがとうございました」
「俺は少し手伝っただけだよ。実際に解決したのはみんなだから」
「それでも、西園寺くんが一緒に考えてくれたのは嬉しかったです」
栞は少しだけ視線を落としたあと、再び蓮を見た。
「文化交流祭までに、もっとよくしたいんです。部を存続させるためだけじゃなくて……私たちが作ったものを通じて、誰かに何かを感じてもらいたいから」
「きっと大丈夫だよ。今日だって、みんなで問題を解決できたんだから」
「……はい」
栞は微笑んだ。
「完成したら、また見に来てくださいね」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
蓮が廊下を歩いていくと、栞はその背中をしばらく見送っていた。
やがて部室へ戻ると、美緒が待ち構えていた。
「『また見に来てくださいね』だって」
「……美緒ちゃん!」
「何も言ってないよ?」
「絶対に何か言うつもりだったでしょう!」
「ふふっ。どうかな?」
栞が顔を赤くして抗議すると、優奈まで笑い始めた。
部室には、いつもの賑やかな声が響いた。
一方、蓮は学園の正門へ向かいながら、今日の出来事を振り返っていた。
陽菜が準備している夏の庭園。
麗華が心を込めて練習している音楽。
そして、栞たちが力を合わせて作り上げているミライリンク。
三つの企画は、それぞれ違う形をしている。
けれど、どれも誰かに何かを届けたいという気持ちから生まれていた。
蓮は空を見上げた。
自分もまた、文化交流祭のプレゼンターとして、彼女たちや他の生徒たちの努力を来場者へ伝える役割を担っている。
ただ原稿を読み上げるだけではなく、彼らが何を考え、何を大切にしているのかを理解したうえで、言葉にしたい。
そう思うようになっていた。
しかし、その一方で、心の奥には消えない不安がある。
陽菜も、麗華も、栞も、自分を西園寺蓮だと信じている。
彼女たちが信頼を寄せている相手は、少なくとも表向きは、ずっと昔から知っている蓮なのだ。
けれど、本当の自分は水原悠斗。
祖父を助けるために始めた身代わりの生活は、いつの間にか、自分にとってもかけがえのない時間になっていた。
本物の蓮が戻ってきたとき、自分はどんな顔をして彼女たちと向き合えばいいのだろう。
今の関係は、どこまで変わってしまうのだろう。
まだ、答えは出せない。
それでも、今ここで築いているものを、無責任に投げ出すことはしたくなかった。
「……今できることを、やるしかないか」
蓮は小さく呟き、再び歩き始めた。
明日は麗華とのプレゼンテーションの練習がある。そのあとには、文化交流祭全体の進行確認も待っている。
すべてを完璧にこなすことはできないかもしれない。
それでも、一つずつ向き合っていけばいい。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
文化交流祭の開幕は、もう目前に迫っている。
まだ解決しなければならない問題も、確認すべきことも残されているだろう。
けれど、学園のあちこちで、生徒たちはそれぞれの目標に向かって進んでいた。
その姿を見ながら、蓮は思う。
誰か一人の力だけでは、完成しないものがある。
だからこそ、互いに支え合い、足りない部分を補いながら進んでいくことに意味があるのだ。
そして、そのことはきっと、自分自身にも当てはまる。
文化交流祭が始まるまで、あと少し。
蓮は胸の内に残る迷いを抱えたまま、それでも前へ進むことを選んだ。




