二人のプレゼンター、初めてのリハーサル
放課後を告げるチャイムが、星嶺学園の校舎に鳴り響いた。
生徒たちが教科書を片づけ、帰宅の準備を始める中、蓮はノートを閉じて時計を見た。
いよいよ、その時間がやってきた。
「蓮、準備はできたかしら?」
教室の入り口から麗華の声が聞こえた。
彼女は一冊のファイルを胸に抱え、背筋をまっすぐに伸ばして立っていた。長い黒紺色の髪が肩に流れ、紫色の瞳には並々ならぬ決意が宿っている。
蓮は荷物をまとめた。
「うん。でも、その資料の量を見ると、プレゼンテーションの練習というより、国際会議でも開くのかと思ってしまうね」
麗華の動きがぴたりと止まった。
「……今、何とおっしゃったのかしら?」
「いや、準備がすごいなと思って」
「当然でしょう。星嶺学園の文化交流祭なのよ。大切なお客様をお迎えするのに、何の準備もせずに臨むわけにはいかないわ」
「それは僕も同意するよ。ただの冗談だって」
麗華は数秒間、蓮をじっと見つめた。
どうやら、注意すべきかどうか考えているらしい。
やがて、小さく息を吐いた。
「あなたには時々、その立場にふさわしくない話し方をするところがあるわね」
蓮の心臓が跳ねた。
何か変なことを言ってしまったのだろうか。
しかし、麗華に疑っている様子はなかった。それどころか、表情をわずかに和らげた。
「……でも、そういうところも、あなたの魅力なのかもしれないわね」
「えっ?」
「な、何でもないわ! ほら、遅れるから行きましょう!」
麗華は勢いよく背を向けた。
蓮は呆然としたまま、その後ろ姿を見つめた。
(今、褒められたのか……?)
考える暇もなく、麗華は廊下を歩き始めた。蓮も慌ててその後を追いかける。
練習に使用する部屋は、本校舎の静かな一角にあった。普段は会議や正式な行事の準備に使われる場所で、前方には小さな壇上と木製の演台が設置されている。
部屋に入った蓮は、麗華が準備のためにどれほど力を入れていたのかをすぐに理解した。
机の上には文化交流祭の進行表、来賓の名前が書かれたカード、詳細な時間割、そして式典中に変更が生じた場合の対応案まで並んでいた。
演台の横には、水の入ったボトルが二本用意されている。
「これも全部、麗華が準備したの?」
「もちろんよ。練習するなら、本番にできるだけ近い環境を整えるべきでしょう?」
麗華は資料を机に置き、壇上へ向かった。
「まずは開会式の冒頭から確認するわ。その後、挨拶や演目の間のつなぎを練習する。最後に、予定外の事態が起きた場合の対応も確認しましょう」
蓮は思わず小さく笑った。
「麗華が想定していないことなんてあるの?」
麗華は一瞬、言葉に詰まった。
「も、もちろんあるわ。すべてを予測することなんてできないもの」
少し間を置いてから、彼女は胸を張った。
「でも、失敗する可能性を減らすことはできるわ」
(いかにも麗華らしいな)
蓮はそう思った。
そして、不思議と心強さも感じていた。
麗華は壇上に上がり、演台の後ろに立った。
「では、始めましょう。開会の挨拶では、あなたは私の右側に立って。私が歓迎の言葉を述べた後、あなたが祭典の目的と公式テーマを紹介するの」
蓮は進行表を開いた。
今年の文化交流祭のテーマは、明確な意味を持っていた。
『未来は受け継ぐものではなく、自ら築くもの』
この祭典は、単に名家の財力や学園の格式を誇示するためのものではない。生徒たちが日々の努力で身につけた知識や技術、創造性を披露し、それぞれの未来について考える場でもある。
芸術、音楽、研究、料理、技術開発。さまざまな分野の活動を通して、生徒たちが何を考え、何を生み出そうとしているのかを来賓に伝えることが目的だった。
「分かった。テーマを紹介した後、祭典の目的を簡潔に説明して、生徒会長の挨拶につなげるんだね」
「そのとおりよ。では、私の隣に立って」
蓮は壇上に上がった。
麗華は彼の姿勢を確認するように、頭から足元まで視線を動かした。
「もう少し背筋を伸ばして」
蓮は姿勢を正した。
「顎を少し上げて」
言われたとおりにする。
「上げすぎよ。表彰式に臨む兵士みたいになっているわ」
「だって、顎を上げろって言ったじゃないか!」
「少しだけ、と言ったでしょう!」
蓮は思わず笑った。
「分かった、分かった」
麗華は目を閉じ、深く息を吸った。
「いい? 今度こそ真面目に取り組んでちょうだい」
「努力するよ」
「努力する、ではなく、本当に真面目に、よ」
「はい、麗華先生」
麗華の紫色の瞳が大きく見開かれた。
「わ、私は先生ではありません!」
「でも、指導が厳しいから」
一瞬、部屋の中が静まり返った。
蓮は少し言いすぎたかもしれないと思った。
ところが、麗華は口元に手を当て、小さく笑った。
「ふふふ……。本当に、あなたという人は……」
蓮はほっと胸をなで下ろした。
厳しいだけではない。
麗華には、気を許した相手にしか見せない、少し無邪気な一面もある。
そして最近、蓮は彼女がそうした一面を以前よりも自然に見せてくれるようになったと感じていた。
「さあ、始めましょう」
麗華は再び姿勢を正し、落ち着いた声で話し始めた。
「ご来賓の皆様、教職員の皆様、そして生徒の皆さん。本日は、星嶺学園文化交流祭にお越しいただき、誠にありがとうございます」
澄んだ声が部屋に響いた。
発音は明瞭で、言葉の区切りも自然だった。
蓮は思わず感心した。
麗華が優れた生徒である理由は、成績だけではない。礼儀作法や立ち居振る舞い、そして人前で話すための準備にも、彼女は真剣に取り組んでいる。
麗華が歓迎の挨拶を終えると、小さく合図を送った。
蓮の番だった。
彼は深く息を吸い、話し始めた。
「本祭典は、生徒たちが日々の努力を通じて身につけた知識や技術、そして新たな発想を皆様と共有することを目的としております。『未来は受け継ぐものではなく、自ら築くもの』というテーマのもと、一人ひとりがよりよい明日を創造する可能性を示す場にしたいと考えております」
自分の声が部屋に響く。
最初は緊張していたが、思っていたよりも自然に言葉が出てきた。
麗華は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
蓮が話し終えると、彼女は数秒間考えた。
「どうだった?」
蓮が尋ねる。
「導入はよかったわ。声もよく通っているし、話す速度もちょうどいい。ただ、最後の一文では、未来という言葉の前に少し間を置くといいと思う」
「言葉に重みを持たせるため?」
「そうよ。言葉を正確に発音するだけでは不十分なの。伝えたい意味まで、聞いている人に届けなければならないわ」
蓮はうなずいた。
「分かった。もう一度やってみるよ」
麗華は顔を上げた。
「それから、もう一つ」
「何?」
「原稿ばかり見ないこと。時々は、聴衆のほうにも視線を向けてちょうだい」
蓮は空っぽの客席を見渡した。
「誰も座っていないのに?」
「だからこそ、練習しているのでしょう?」
「……それもそうだね」
蓮は進行表を演台に置き、もう一度話し始めた。
今度は、ところどころで顔を上げ、最後の一文の前に短い間を入れた。
話し終えた蓮に、麗華は微笑んだ。
「ずっとよくなったわ」
「本当に?」
「ええ。でも、まだ改善できるところはあるわね」
蓮は胸に手を当てた。
「今、一瞬だけ完璧だって褒めてもらえると思ったのに」
「努力もせずに褒められることに慣れないでちょうだい、蓮」
「分かりました」
麗華は笑いをこらえるように、口元をわずかに緩めた。
その後も、二人は練習を続けた。
歓迎の挨拶、来賓の紹介、各催しの案内、そして演目を切り替える際の言葉。
麗華は細かな点まで気を配った。
蓮が早口になれば止め、必要な間を忘れればやり直しを求めた。姿勢が硬くなりすぎれば、自然に立つようにと注意した。
最初、蓮は少し圧倒されていた。
しかし、繰り返すうちに、彼女の指導にも慣れてきた。
そして、意外なことに気づいた。
麗華と一緒に準備することは、想像していたほど苦痛ではなかった。
確かに厳しい。
けれど、麗華は理由もなく注意しているわけではなかった。間違いを指摘するときには、必ず改善する方法も教えてくれる。
そして、蓮が上達すると、その努力を認めて嬉しそうな顔をするのだった。
「上手になったわね、蓮」
たったそれだけの言葉と、彼女の素直な笑顔。
それだけで、蓮は努力が報われたような気持ちになった。
「麗華は本当に教えるのが上手だね」
蓮がそう言うと、麗華は手元の資料を見つめたまま動かなくなった。
「……え?」
「説明が分かりやすいんだ。麗華のおかげで、かなり上達していると思う。ありがとう」
蓮は心からそう思っていた。
しかし、麗華はすぐに返事をしなかった。
やがて、その頬が少しずつ赤く染まっていく。
「そ、そんな……」
「どうしたの?」
「な、何でもないわ!」
麗華は慌てて顔を背けた。
蓮は不思議そうに首を傾げた。
「本当に?」
「本当よ! ただ……一緒に仕事をする以上、あなたがきちんと準備できるように指導するのは当然でしょう?」
「それは分かっているよ。でも、やっぱり感謝しているんだ」
麗華の頬がさらに赤くなった。
(どうして、この人はいつもそんなに素直に言うのよ……!)
最近、蓮は以前よりもずっと親しみやすくなった。
彼女の意見をきちんと聞き、努力を認め、自然な笑顔を向けてくれる。
かつて二人の会話といえば、勉強や成績、そして互いの実力を確かめるようなやり取りが中心だった。
けれど、今は違う。
蓮と一緒にいると、無理に気を張る必要がない。
そのことが、麗華には何より嬉しかった。
もちろん、そんな気持ちを素直に口にするつもりはなかったが。
「と、とにかく、続けましょう!」
麗華はファイルを持ち上げた。
「まだ各演目の紹介と、進行が変更された場合の対応を練習していないわ!」
「分かったよ」
蓮は再び演台の前に立った。
麗華も気持ちを切り替え、練習を再開した。
しばらくして、時計が午後の遅い時間を指した頃。
二人はようやく、予定していた練習を一通り終えた。
麗華は資料に目を通し、最後の確認を済ませてからファイルを閉じた。
「今日はこのくらいにしましょう。ずいぶん進んだわね」
蓮は大きく息を吐いた。
「よかった……。夕方まで何度も繰り返すことになるのかと思っていたよ」
「必要なら、そうするつもりだったわ」
「やっぱりね」
麗華は誇らしげに微笑んだ。
「ふふふ……。完璧を目指すには努力が必要なのよ」
「それに、忍耐力もね」
「……今、私に忍耐力が必要だと言ったのかしら?」
「僕は何も言っていないよ」
「本当に?」
蓮は黙った。
麗華の目が大きく見開かれる。
「まさか、本当にそう思っていたの!?」
「ち、違うって! 冗談だよ!」
「蓮!」
麗華の声が部屋に響いた。
蓮は慌てて両手を上げた。
「分かった、分かった! 僕の負けだ!」
麗華は数秒間、彼を睨んでいた。
しかし、やがて我慢できなくなったように笑い出した。
「ふふふ……。本当に、あなたという人は……」
蓮もつられて笑った。
その瞬間だけは、二人とも公式プレゼンターとしての責任を忘れていた。
大切な式典を控えた二人ではなく、ただ同じ時間を過ごすことを楽しんでいる二人の学生だった。
部屋を出ると、校舎の窓から差し込む夕日が、廊下を淡い橙色に染めていた。
麗華はファイルを胸に抱えながら、蓮の隣を歩いていた。
「蓮」
「何?」
「今日は、真剣に練習に取り組んでくれてありがとう」
蓮は彼女を見た。
今の麗華は顔を赤らめてもいなければ、誇らしげに振る舞っているわけでもなかった。
ただ、心から感謝しているようだった。
「お礼なんていらないよ。僕にも責任があるんだから」
「それは分かっているわ。でも、伝えておきたかったの」
麗華は少しだけ視線を落とした。
「正直に言うと、最初はあなたがどれくらい真剣に取り組んでくれるのか、少し心配だったの。結局、私がほとんど全部を準備することになるのではないかと思っていたわ」
蓮は目を丸くした。
「そんなふうに思っていたの?」
「ち、違うわ! あなたを責めているわけではないの。ただ、すべてを成功させたかったから……」
「分かっているよ」
蓮は微笑んだ。
「でも、一人で全部を背負う必要はないんじゃないかな。二人でプレゼンターを務めるんだから、準備も一緒にすればいい」
麗華は黙って蓮を見つめた。
その何気ない言葉が、思っていた以上に心に響いた。
九条家の娘として、麗華は幼い頃から何事にも優れていることを求められてきた。
勉強も、礼儀作法も、学校での活動も。
周囲の期待に応えるためには、常に努力し、失敗を避けなければならないと思っていた。
しかし、蓮は完璧であることを求めているわけではなかった。
ただ、一緒に取り組もうと言ってくれた。
「……そうね」
麗華はゆっくりとうなずいた。
「あなたの言うとおりだわ」
そして、柔らかな笑顔を浮かべた。
「これからは、お互いに支え合いましょう」
「もちろん」
麗華は満足そうにうなずいた。
「よし。では、明日も引き続き第二部の練習をするわよ」
蓮の足が止まった。
「……明日も?」
「当然でしょう?」
「今日はこれで十分だって言っていたのに……」
「今日は、よ!」
麗華は楽しそうに笑った。
「ふふふ……。心配しなくても大丈夫よ、蓮。この九条麗華が指導するのだから、あなたも立派なプレゼンターになれるわ」
蓮は空を見上げた。
(徹、君のアドバイスがもっと必要になりそうだ……)
しかし、麗華のほうへ視線を戻すと、自然と笑みがこぼれた。
この挑戦に向き合うのは大変だろう。
それでも、彼女と一緒なら、少しだけ心強い気がした。
二人が廊下を歩いていくと、夕日が制服を優しく照らした。
文化交流祭は、もうすぐそこまで迫っている。
準備はまだ始まったばかりだった。
そして、本人たちが口にすることはなくても、その日の練習は二人の間に新たなものを残していた。
互いを信頼する気持ちが、少しずつ深まっていたのだ。
麗華にとって、蓮と過ごす時間は、いつしか大切にしたい思い出へと変わり始めていた。
一方、蓮にとってその親密さは、喜びであると同時に、心の奥に小さな不安を生み出すものでもあった。
麗華が好意を寄せている相手は、周囲から西園寺蓮だと思われている少年だ。
けれど、本当の蓮が戻ってきたとき、自分はどうなるのだろう。
今の関係を、どのように説明すればいいのだろう。
答えは、まだ見つからない。
それでも蓮は、今この瞬間まで恐れから逃げるつもりはなかった。
明日も練習する。
もっと努力する。
そして、文化交流祭を成功させるために、自分にできることを精一杯やる。
たとえ、その先にどんな代償が待っているのか、まだ分からなくても。




