後継者としての準備
月曜日の朝、悠斗は週末の間ずっと頭から離れなかった不安を抱えながら、星嶺学園へ向かっていた。
文化交流祭が近づいている。生徒会への協力に加え、麗華とともに公式プレゼンターを務めることになったのだ。大勢の来賓や名門家の関係者の前で話す以上、西園寺家の後継者にふさわしい振る舞いが求められる。
これまでは、蓮から教わった知識や徹の指導、そして自分自身の機転で、何とか乗り越えてきた。
しかし、今回は事情が違う。
式典の進行を覚えるだけでは足りない。誰が見ても、蓮本人だと信じられるような自然さと品格が必要だった。
何より、幼い頃から本物の蓮を知っている来賓もいる。
たった一つの受け答えを間違えただけで、疑念を抱かれる可能性があった。
「悠斗様、何かお考え事ですか?」
徹の声に、悠斗は我に返った。
車は学園へ向かう道を走っていた。徹はいつものように姿勢を崩さず、前方を見つめている。
「そんなに顔に出てた?」
「ええ。先ほどから窓の外を眺めたまま、景色にまったく注意を払っていらっしゃらないようでしたので」
悠斗は小さく息を吐いた。
「文化交流祭のことだよ。生徒会長から運営への協力を頼まれたうえに、麗華と一緒にプレゼンターを務めることになっただろ?」
「承知しております。生徒会から正式な資料を受け取っておりますので」
「だったら、僕が失敗できないことも分かるよね」
徹は数秒、黙っていた。
「悠斗様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「悠斗様は、何をもって失敗だとお考えですか?」
悠斗は彼のほうを見た。
「どういう意味?」
「例えば、スピーチの一文を忘れること。来賓のお名前を言い間違えること。あるいは、礼儀作法の細かな部分を間違えること。そのすべてが失敗だとお考えですか?」
「そりゃあ、どれも問題にはなるだろうけど……」
「確かに問題にはなります。しかし、すべてが同じ重大さというわけではありません」
徹は落ち着いた声で続けた。
「言葉を忘れたなら、原稿を確認すればよい。お名前を間違えたなら、すぐに謝罪すればよい。作法が分からなければ、目立たないように確認することもできます。大切なのは、予定どおりに進まなかったとき、どう対処するかです」
悠斗は考え込んだ。
「……もし、僕が本物の蓮じゃないって気づかれたら?」
口にしてから、悠斗は思わず唇を引き結んだ。
徹はすぐには答えなかった。
車内には、エンジンの静かな音だけが流れた。
「そのときは、そのときに考えましょう」と、やがて徹は答えた。「ですが、起こり得るすべての事態を想像して、毎日不安になり続ける必要はないと思います」
「言うのは簡単だよ……」
「当然です。私は運転手兼執事ですから。舞台に上がるのは悠斗様です」
悠斗は思わず彼を見た。
徹は真顔のまま、さらに続けた。
「ただ、せっかく成績を取り戻し、学園の仲間たちから信頼されるようになった悠斗様が、最初の一言を話す前に緊張で倒れてしまったら、少々残念ではありますね」
「倒れないよ!」
「それは何よりです。雅宏様に、舞台のそばに医師を待機させる必要はないと報告しておきます」
「徹!」
徹は小さく笑った。
悠斗の胸に張りついていた緊張が、少しだけ和らいだ。
けれど、学園の正門に車が止まる直前、徹は再び真剣な声に戻った。
「もう一つ、覚えておいていただきたいことがあります」
「何?」
「本物の蓮様が周囲からどう見られているかを、完全に再現しようとなさらないことです。言葉も仕草も思い出も、すべてを完璧に真似することなどできません」
悠斗は、膝の上で指を軽く握りしめた。
「でも、僕は蓮の代わりをしなきゃいけないんだ」
「ええ。与えられた役目を果たす必要はあります。しかし、それは悠斗様ご自身の考え方まで消してしまうという意味ではありません。人の価値は、礼儀作法や言葉の美しさだけで決まるものではないのです」
徹はバックミラー越しに悠斗を見た。
「時には、完璧な言葉よりも、誠実な返事のほうが相手の心に届くこともあります」
悠斗は黙ってその言葉を受け止めた。
生徒会長の如月。麗華。そして、電子工学部の仲間たち。
彼らが悠斗を信頼する理由は、それぞれ違う。成績を評価してくれる者もいれば、話を聞く姿勢や、困っている人を助けようとするところを見てくれる者もいる。
全員が悠斗の本当の事情を知っているわけではない。
それでも、彼らとの間に生まれたつながりまで、偽物だとは思いたくなかった。
「……ありがとう、徹」
「お礼には及びません。さあ、そろそろお降りください。遅刻なさると、また別の問題が増えてしまいますから」
悠斗は慌ててドアを開けた。
「分かってるよ!」
徹は、学園へ駆けていく悠斗の背中を見送った。
少年の姿が生徒たちの間に消えてから、彼は静かに目を細めた。
「どうか、ご自身が誰なのかだけは、お忘れになりませんように……」
その言葉は、誰にも届くことなく車内に消えた。
放課後、悠斗は西園寺邸へ戻った。
制服から着替えを済ませ、自室で文化交流祭の資料を確認していると、扉がノックされた。
「失礼いたします、悠斗様。少々お時間をいただけますか」
「うん、どうぞ」
入ってきた徹は、黒いファイルと小さな長方形の箱を持っていた。
「何、それ?」
「文化交流祭に向けた準備資料です。加えて、正式な場で必要になる小物もいくつか用意いたしました」
徹は机の上にファイルを置き、箱を開いた。
中には、控えめなデザインのカフスボタン、予備のネクタイ、そして白いポケットチーフが丁寧に収められていた。
「こんなに必要なの?」
「すべてを使う必要はありません。ただ、選択肢を知っておくことは大切です。実際に使うものは、衣装との調和を考えて決めましょう」
悠斗はファイルを開いた。
最初のページには、文化交流祭の詳細な進行表が載っていた。式典の時間、来賓の名前、発表の順番、プレゼンターの台詞、舞台転換のタイミングまで細かく記されている。
その次のページには、開会式に出席する名家の関係者や、学園の卒業生についての情報がまとめられていた。
悠斗はページをめくった。
さらに一枚。
そして、もう一枚。
「……すごい人数だね」
「ほとんどの来賓と長時間会話する必要はありません。ただし、挨拶に来られる方はいらっしゃるでしょう」
「もし、知らないことを聞かれたら?」
「知ったかぶりをして答えないことです」
悠斗は顔を上げた。
「準備不足だと思われても?」
「そのような場面だからこそです。分からないことは素直に認め、必要であれば後ほど確認すると伝えればよいのです。取り繕うためについた嘘は、後になって大きな問題になることがあります」
悠斗はゆっくりとうなずいた。
それは、彼自身もよく理解できることだった。
以前の生活では、知らないことを知らないと認めるしかなかった。お金も、地位も、失敗を隠してくれる後ろ盾もなかったからだ。
しかし、今の立場では、何気ない会話さえ試されているように感じられる。
「もう一つございます」
徹は資料の中から、印をつけたページを開いた。
「特に注意していただきたい来賓が三名いらっしゃいます」
最初の人物は、西園寺家と長年交流のある元関係者だった。幼い頃から蓮を知っているという。
二人目は、学園の卒業生で、過去に蓮と何度か家族ぐるみの集まりで顔を合わせていた人物。
そして三人目は、長年にわたって雅宏と仕事をしてきた実業家だった。資料によれば、驚くほど細かな出来事を覚えているらしい。
「この人、何年も前の会話まで覚えているの?」
「雅宏様のお話では、細かな出来事をよく記憶していらっしゃるそうです。必ずしも悠斗様を疑う理由があるわけではありませんが、覚えていないことを覚えているふりをするのは避けたほうがよいでしょう」
悠斗はファイルを閉じ、額に手を当てた。
「……勘弁してほしいな」
「幸い、現時点で皆様が悠斗様を疑っているという情報はありません」
「それ、あまり安心できないんだけど……」
「そうでしょうね」
徹は椅子を引き、悠斗の向かいに座った。
「ですから、練習をいたしましょう」
「今から?」
「今からです」
悠斗は時計を見た。
夕食まではまだ時間がある。
「分かった。何をすればいいの?」
徹は資料の一枚を手に取り、厳かな表情を作った。
「では、開会式が終わった直後だと仮定しましょう。来賓が悠斗様に近づき、こう声をかけます。『蓮くん、久しぶりだね。君がお父さんと一緒に我が家を訪ねてくれたときのことを、今でもよく覚えているよ』」
悠斗の動きが止まった。
「……それで、何て答えればいいの?」
「相手が次に何を尋ねるかは分かりません。まずは、記憶があると決めつけずに挨拶を返してみてください」
悠斗は数秒間、考えた。
「お久しぶりです。またお会いできて嬉しいです。ずいぶん時間が経ちましたね」
徹はわずかに首を傾けた。
「悪くありません。礼儀正しい返答ですし、訪問の記憶があるとも、ないとも断言していません。ただ、相手が自然に話を続けられるような言葉を加えると、さらによいでしょう」
「例えば?」
「『父から、以前より貴家とのご縁について聞いております。こうして直接ご挨拶できて嬉しく思います』というような返答です」
悠斗は小さく繰り返した。
「……かなり丁寧だね」
「名家の関係者に対する挨拶ですから。ただし、書類を読み上げているような話し方にならないように注意してください」
「それが難しいんだよ」
「だからこそ、練習するのです」
その後の一時間、徹はさまざまな人物を演じた。
あるときは蓮の幼い頃を知る友人。あるときは西園寺家の事業について話したがる来賓。またあるときは、幼少期の思い出を懐かしそうに語る年配の人物。
悠斗は何度も失敗した。
親しげに話しすぎたこともあれば、知らないことを隠そうとして、説明が長くなりすぎたこともあった。
あるときなど、徹が手を上げて止めるまで、悠斗は延々と話し続けていた。
「悠斗様、質問に答える前に、まず相手の話を最後まで聞いてください」
「分かってるよ……」
「すべての質問に、即座に答える必要はありません。少し考える時間を取ってもよいのです」
「でも、相手が僕の返事を待っていると、何か言わなきゃって思うんだ」
徹はしばらく悠斗を見つめた。
「それは、何でもご自身で解決しようとなさるからかもしれませんね」
悠斗は視線を落とした。
幼い頃から、誰かがいつも助けてくれるとは限らなかった。
お金が必要なら働くしかない。失敗したなら、自分で解決策を探すしかない。
迷っている間に機会を失うこともあった。
「……そうかもしれない」
「しかし、正式な会話では、すべてを一人で解決しようとする必要はありません。相手の話を丁寧に聞くことも、相手への敬意の表れです」
悠斗はうなずいた。
「分かった。気をつけるよ」
「では、続けましょう」
今度は、徹が再び来賓役を演じても、悠斗はすぐに答えなかった。
質問を最後まで聞き、少し考えてから、落ち着いた声で返答した。
完璧な答えではない。
それでも、自然で、礼儀正しく、余計なことを言わない返答だった。
徹は満足そうにうなずいた。
「ずいぶんよくなりました」
悠斗は安堵の息を吐いた。
「やっと終わった……」
「安心するのはまだ早いですよ。麗華様とのプレゼンテーションの練習もありますから」
悠斗の笑顔が、ゆっくりと消えた。
「あ……そうだった」
「何か問題でも?」
「いや、別に」
あまりにも返事が早すぎた。
徹は意味ありげな表情で悠斗を見つめた。
「なるほど」
「何がなるほどなの?」
「いえ、悠斗様が何をお考えなのか、少々気になっただけです」
「徹、変な顔をしないでよ」
「どのような顔でしょうか?」
「その顔だよ!」
徹はついに笑い声を漏らした。
悠斗は疲れ切った様子で椅子の背もたれに身を預けた。
実業家や西園寺家の古い知人と話す練習だけでも大変なのに、細かな点まで完璧を求める麗華と一緒に練習するとなれば、さらに厳しい時間になりそうだった。
それなのに、なぜか少しだけ楽しみでもあった。
悠斗自身、その理由はまだよく分かっていなかった。
翌日の昼休み。
麗華は図書館へ続く廊下で蓮を見つけた。
「蓮、少し時間をいただけるかしら」
蓮は足を止め、彼女を振り返った。
「どうしたの、麗華?」
麗華は文化交流祭の進行表をまとめたファイルを手にしていた。
表情は優雅で落ち着いていたが、紫色の瞳には、はっきりとした決意が宿っている。
「開会式の進行について確認してきたの。できるだけ早く、一緒に練習を始めたいと思って」
「もう?」
「当然でしょう。私たちは公式プレゼンターを務めるのよ。準備不足で失敗するなんて、絶対に避けなければならないわ」
麗華はファイルを開き、蓮に数ページの資料を見せた。
「開会の挨拶、来賓の紹介、各演目の間のつなぎ。それに、予定変更があった場合の対応も考えておいたわ」
蓮は資料に目を落とした。
そこには、びっしりと細かな書き込みがあった。
予想していた以上だった。
いや、予想をはるかに超えていた。
「麗華……これ、どのくらい時間をかけたの?」
麗華は少しだけ顎を上げた。
「必要なだけよ」
「昨夜はちゃんと眠れた?」
麗華の動きが止まった。
「も、もちろんよ!」
蓮は小さく笑った。
「それならよかった」
「は、話をそらさないで、蓮。今はプレゼンテーションの話をしているのよ」
麗華は咳払いをして、いつもの優雅な態度を取り戻した。
「放課後、練習用の部屋を確保してあるわ。最初の挨拶から来賓の紹介、演目の切り替えまで、一通り確認しましょう」
「分かった。協力するよ」
その返事を聞いた麗華の表情が、わずかに和らいだ。
「ありがとう」
しかし、自分が少し素直になりすぎたと気づいたのか、すぐに顎を上げて続けた。
「もちろん、全力で取り組んでもらうわよ。学園の名誉がかかっているのだから」
「できる限り頑張るよ」
「できる限り、ではなく、最大限に、よ」
麗華は優雅な仕草でファイルを閉じた。
「ふふふ……。この九条麗華が指導するのですもの。きっと素晴らしい発表になるわ」
蓮は、その言葉が単なる練習の説明というより、あらゆる失敗を許さないという宣言のように聞こえた。
それでも、麗華が数歩進んだところで振り返り、微笑んだときには、自然とこちらも笑顔になった。
「蓮、一緒に頑張りましょうね」
「ああ。一緒に頑張ろう」
麗華は頬をわずかに赤く染め、満足そうにその場を離れていった。
蓮は彼女の背中を見送り、渡された進行表へと視線を落とした。
準備は厳しいものになるだろう。
大勢の前で話す練習をし、予想外の状況に対応する方法を覚え、誰かが過去の思い出を語り始めたときにも、冷静さを保たなければならない。
それでも、今の彼は完全に一人というわけではなかった。
徹は準備を手伝ってくれている。麗華は一緒に舞台へ立ってくれる。生徒会は彼の協力を期待し、電子工学部の仲間たちは自分たちの企画を完成させようと努力している。
それぞれが、蓮に違うものを与えてくれていた。
秘密がいつか明らかになるのではないかという不安は、今も消えていない。
けれど、すべての問題に完璧な答えを用意する必要はないのかもしれない。
大切なのは、一歩ずつ進み、失敗から学び、自分が大切にしたいものを見失わないことだ。
蓮は進行表を閉じ、教室へ向かって歩き始めた。
文化交流祭は、もうすぐそこまで迫っている。
そして彼にとって本当の試練は、舞台に立ち、完璧な挨拶を披露することだけではなかった。
任された役目を果たしながら、自分自身を見失わずにいられるか。
それこそが、これから彼が向き合わなければならない課題だった。




