お嬢様と二人のプレゼンター
生徒会室を出た蓮は、廊下の先に見覚えのある姿を見つけた。
九条麗華だった。
彼女は数冊の資料を胸元に抱え、蓮の姿を見つけた瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「蓮!」
普段よりも弾んだ声だった。
「麗華? 待っていたのか?」
「ええ。ちょうど会長との打ち合わせが終わったところなの」
麗華は蓮の前まで歩み寄ると、嬉しそうに微笑んだ。
「もう聞いたでしょう? 私たち、文化交流祭の公式プレゼンターを務めることになったのよ!」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
いつもの麗華なら、どんな場面でも優雅で落ち着いた表情を崩さない。
しかし、今の彼女は違った。
頬はほんのりと赤く染まり、紫色の瞳は期待に輝いている。
まるで、ずっと楽しみにしていた知らせを受け取った少女のようだった。
蓮は思わず目を瞬かせた。
(……こんなに嬉しそうな麗華、初めて見たかもしれない)
「そうだな。俺もさっき聞いたよ」
「とても光栄なことだわ。星嶺学園を代表する行事の進行を任されるなんて、責任重大だもの!」
麗華は胸元の資料を抱え直し、興奮した様子で続けた。
「台本の確認はもちろん、招待客のお名前や肩書きの読み方、各演目の紹介、進行の切り替えまで、しっかり準備しなければならないわ。少しでも不自然な間ができないように、何度も練習する必要があるわね!」
言葉が次々と飛び出してくる。
どうやら、彼女の頭の中では、すでにリハーサルの計画が出来上がりつつあるらしい。
「……麗華、かなり気合いが入ってるな」
「当然よ!」
麗華はきっぱりと言い切った。
その直後、自分が少し声を張り上げたことに気づいたのか、こほんと小さく咳払いをした。
「……失礼。少し取り乱してしまったわ」
そう言いながらも、頬の赤みは消えていない。
蓮は微笑んだ。
「そこまで楽しみにしていたとは思わなかった」
「た、楽しみにしていたのは、当然でしょう! とても重要な役割なのだから!」
麗華は慌てて言い返した。
「それに……」
そこで一度、言葉が途切れた。
彼女は少しだけ視線を落とし、頬をさらに赤くする。
「……蓮と一緒に務められることも、嬉しいと思っているわ」
小さな声だった。
けれど、蓮にははっきりと聞こえた。
「そっか」
蓮は穏やかに微笑んだ。
「俺も麗華と一緒なら心強いよ。正直、これほど大きな行事でプレゼンターを務めた経験はないからな」
麗華は顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。麗華は礼儀作法にも詳しいし、こういう場にも慣れているだろう? いろいろ教えてもらえると助かる」
その言葉を聞いた麗華の表情が、再び明るくなった。
「もちろんよ!」
そして彼女は、ふっと背筋を伸ばした。
先ほどまでの照れた表情が、いつもの自信に満ちたものへと変わっていく。
「ふふふ……。この九条麗華が一緒にいるのだもの。心配する必要はないわ!」
麗華は片手を口元に添え、優雅に笑った。
「おーっほっほっほ!」
廊下に、どこか誇らしげな高笑いが響く。
蓮は思わず苦笑した。
「……急にいつもの麗華に戻ったな」
「いつもの、とはどういう意味かしら?」
「いや、頼もしいなと思って」
「当然よ!」
麗華は満足そうに胸を張った。
「とはいえ、準備を怠るつもりはないわ。明日の放課後、練習用の部屋を予約してあるの。まずは台本の確認から始めましょう」
「もう予約したのか?」
「ええ。成功させるためには、早めの準備が必要だもの」
麗華は自信たっぷりに頷いた。
「練習は徹底的に行うわ。言葉の区切り方、声の大きさ、立ち位置、視線の向け方……。必要なことはすべて確認するつもりよ!」
「……それは、かなり厳しい練習になりそうだな」
「何を言っているの、蓮!」
麗華は再び口元に手を添えた。
「ふふふ……。心配しなくても大丈夫よ。私の指導のもとで練習すれば、あなたも立派なプレゼンターになれるはずだわ!」
「……できれば、お手柔らかに頼む」
「何か言ったかしら?」
「いえ、何も!」
麗華は満足そうに頷いた。
けれど、その頬にはまだ、かすかな赤みが残っていた。
蓮は彼女と並んで歩きながら、ふと先ほどの言葉を思い出す。
『蓮と一緒に務められることも、嬉しいと思っているわ』
その声も、表情も、いつもの麗華とは少し違っていた。
(……俺、麗華をがっかりさせないように頑張らないとな)
そう考えながら、蓮は小さく息を吐いた。
麗華にとって、この役目は単なる学園行事ではないのだろう。
そして、彼女がこれほど喜んでくれるのなら、自分もできる限り応えたいと思った。
二人は翌日の練習について話し合いながら、廊下を進んでいった。
文化交流祭の準備は、まだ始まったばかりだった。
翌日。
「蓮、今日は何時から練習できる?」
教室で、陽菜が興味津々といった様子で尋ねてきた。
「放課後からだよ。麗華と台本を確認する予定なんだ」
「そっか! 大変そうだけど、頑張ってね!」
陽菜は明るく笑った。
「それにしても、蓮が公式プレゼンターなんてすごいなあ。きっと、招待客のみんなも感心すると思うよ」
「そうだといいけどな」
「大丈夫! 蓮ならできるよ!」
迷いのない言葉だった。
蓮は少しだけ目を細めた。
陽菜はいつだって、彼を信じてくれる。
その信頼が嬉しい一方で、胸の奥に小さな痛みが生まれることもあった。
彼女が信じているのは、西園寺蓮という少年だ。
その名前を借りている自分が、どこまでその期待に応えられるのか。
今でも、ときどき分からなくなる。
それでも、陽菜の笑顔を曇らせたくはなかった。
「ありがとう、陽菜。頑張るよ」
「うん!」
陽菜は満足そうに頷くと、今度は自分の企画について話し始めた。
文化交流祭の土曜日、彼女は庭園の一角に、夏の花々と季節の飲み物を楽しめる休憩スペースを設ける予定だった。
「訪れた人が、少しでもほっとできる場所にしたいの。せっかくの文化交流祭だし、展示を見るだけじゃなくて、ゆっくり過ごせる時間もあったらいいと思うんだ」
「いい考えだと思うよ」
「本当?」
「ああ。きっと喜ぶ人も多いはずだ」
陽菜の表情がぱっと輝いた。
「じゃあ、完成したら絶対に来てね!」
「もちろん」
そう答えた蓮は、内心で小さく苦笑した。
(……また一つ、約束が増えたな)
それでも、陽菜の笑顔を見ていると、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
放課後の電子工学部。
部室のテーブルには、複数の小型ロボットや電子部品、配線、設計図が並べられていた。
栞は新しい部員たちと一緒に、文化交流祭で発表する予定の企画について説明していた。
「この企画の名前は、Mirai Linkです」
栞が設計図を指し示す。
「来場者がロボットの走行ルートを変更すると、それに合わせてロボットの動きも変化する仕組みを作ります。実際に操作してもらうことで、電子工学に詳しくない人にも、仕組みを体験してもらえるようにしたいんです」
「なるほど。俺はライントレースの制御を担当するよ」
匠が設計図を覗き込みながら言った。
「走行ルートを変えたときも、ロボットが正しく反応できるように調整する」
「じゃあ、僕は機構部分を確認するね」
康平は小型ロボットを手に取り、車輪や接続部を丁寧に確かめた。
「動きが不安定になったとき、すぐ原因を特定できるようにしておきたい」
「私は外装を担当するわ!」
優奈が元気よく手を挙げた。
「せっかくなら、見た目も楽しくしないとね。来場者が思わず触ってみたくなるようなデザインにしたいな!」
「私は、初めての人でも迷わず参加できるように、体験の流れを考えるね」
美緒も設計図を覗き込みながら頷いた。
それぞれが自分の役割を理解し、積極的に意見を出している。
栞はその光景を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ほんの少し前まで、彼女は部員が集まらず、クラブそのものがなくなってしまうのではないかと不安に思っていた。
誰かに話しかけることさえ怖かった。
それなのに今は、仲間たちと一緒に、大きな舞台へ向けた準備を進めている。
「……頑張らないと」
栞は小さく呟いた。
そのとき、部室の扉が開いた。
「こんにちは。準備はどう?」
蓮が顔を覗かせた。
「蓮くん!」
栞は反射的に顔を上げた。
そして、すぐに自分が自然に名前を呼んだことに気づいた。
一瞬だけ頬が赤くなる。
しかし、以前のように慌てて言い直すことはしなかった。
「……準備は順調です。まだ調整が必要な部分はありますけど、みんなで少しずつ進めています」
「そうか。よかった」
蓮はテーブルに近づき、設計図を眺めた。
「面白そうな企画だな。来場者が自分で操作できるなら、きっと楽しんでもらえると思う」
「はい。私たちも、そうなるように工夫したいと思っています」
栞の声には、以前よりも確かな自信が感じられた。
蓮はそんな彼女の姿を、少し嬉しそうに見つめた。
「完成するのを楽しみにしているよ」
「ありがとうございます、蓮くん」
栞が微笑んだ瞬間、隣にいた美緒と優奈が顔を見合わせた。
「……ねえ、美緒」
「うん。今、また名前で呼んだよね」
「しかも、言い直さなかったわ」
二人は小声で囁き合う。
「ちょっと、聞こえてるよ!」
栞が顔を赤くして振り返った。
「えっ? 私たち、何も言ってないよ?」
「そ、そうそう。企画の話をしてただけ!」
二人はそろって視線を逸らした。
蓮は不思議そうに首を傾げた。
「何かあったのか?」
「な、何でもありません!」
栞は勢いよく答えた。
そのあまりの慌てぶりに、匠が思わず吹き出し、康平も口元を緩めた。
「……どうしてみんな笑ってるの?」
蓮が尋ねても、誰もまともに答えてくれなかった。
どうやら最近、自分の知らないところで何かが進んでいるらしい。
しかし、それが何なのか、蓮にはまだ分からなかった。
その日の夕方。
蓮は西園寺家の車に乗り込み、窓の外を眺めていた。
文化交流祭の運営。
公式プレゼンターとしての役目。
麗華との練習。
陽菜の庭園企画。
栞たちのMirai Link。
考えなければならないことが、次々と頭に浮かんでくる。
「随分と考え込んでいらっしゃいますね、蓮様」
運転席の徹が、穏やかに声をかけた。
「……そんなに顔に出てた?」
「ええ。文化交流祭の件でしょうか」
「どうして分かったんだ?」
「生徒会から正式な連絡が届いております。蓮様が運営に協力され、九条様とともに公式プレゼンターを務められることも」
「……情報が回るの、早すぎないか?」
蓮はシートに背中を預けた。
徹は小さく笑った。
「それだけ重要な行事ということでしょう」
「まあ、そうなんだけどさ……」
蓮は再び窓の外へ視線を向けた。
「徹。何かアドバイスはない?」
「そうですね」
徹は少し考えてから答えた。
「何もかも完璧にこなそうとする必要はございません。ご自分にできることを一つずつ、確実に進めていけばよろしいかと」
「……それ、最近よく言われるんだよな」
「皆様、同じことを感じていらっしゃるのではないでしょうか」
「そうなのかな」
蓮は小さく笑った。
徹はバックミラー越しに、彼の様子を確かめる。
「それに、九条様は非常に優秀な方です。お二人で協力すれば、きっと良い結果につながるでしょう」
「……ああ。麗華なら、きっと大丈夫だと思う」
そう答えたあと、蓮は少しだけ表情を引き締めた。
自分一人でできることには限りがある。
けれど、周囲には一緒に頑張ろうとしてくれる人たちがいる。
生徒会の仲間たちも、陽菜も、麗華も、栞たちも。
それぞれが、自分にできることを探しながら、未来に向かって進もうとしている。
ならば、自分も逃げるわけにはいかなかった。
「徹」
「はい、悠斗様」
二人きりの車内で、徹はいつもの呼び方に戻った。
「……俺、ちゃんとやれるかな」
徹はすぐには答えなかった。
やがて、穏やかな声で言った。
「悠斗様なら、できる限りのことをなさるでしょう。私はそれを信じております」
悠斗は窓の外を見つめたまま、小さく笑った。
「……ありがとう」
文化交流祭は、まだ始まっていない。
それでも、その準備はすでに多くの人々の心を動かし始めていた。
受け継がれたものだけに頼るのではなく、自分たちの力で未来を築くために。
そして悠斗自身もまた、この三日間を通じて、自分に何ができるのかを試されることになる。
星嶺学園・文化交流祭。
その幕開けは、すぐそこまで迫っていた。




